ディストピアの風景

金物屋忘八(69式)

 

 三

 

 NERVという非公開特殊法人に戦略自衛隊から出向してきている富竹ジロウ二佐は、元々は陸上自衛隊幕僚本部情報部別室の出身である。民主党政権が成立してから最初の内閣総理大臣である小澤治郎首相が、持論の国連待機軍構想を元に海外派遣専門の機関である戦略自衛隊を設立した際、ある意味人身御供として送り込まれた経歴を持っていた。

 この戦略自衛隊そのものは、陸海空自衛隊から選抜された優秀な隊員で構成される国連平和維持活動のための専門部隊、という名目で設立された組織である。なのであるが、実際のところは、その所属が総務省を母体に各省庁の捜査機関を集めて一元化させた内務省に所属している通り、あくまで準軍隊という立場に甘んじていた。というわけでただでさえ人不足の三自衛隊が揃って手持ちの優秀な隊員を出向させるのを渋った結果、部隊指揮経験のろくに無い頭でっかちの幹部や、性格に難があって引き受ける部隊の無い問題児といった、各自衛隊にとってお荷物でしかない隊員ばかりが送り込まれてきたのである。

 さすがにこの露骨なまでの自衛隊側の非協力的な態度に、内務大臣であった石橋茂が「あいつらは俺のことを長官時代からずっと馬鹿にし続けている!」と怒り狂い、防衛庁長官である前張誠司にねじ込んだ事があった。その後、民主党内の派閥同士のやり取りやその他の諸々の政治的力学の結果、本来ならば次は西部方面隊総監部の運用部で室長になるのが内定していた富竹二佐をはじめとする運の悪い幹部らが、将来原隊に戻ってきた際には一階級昇進の上で希望の配置につける、という餌を無理矢理くわえさせられて、戦略自衛隊に送り出されたのであった。

 そして、ついていない時はとことんついていないもので、富竹二佐は、戦略自衛隊情報部から、なんとNERVなどという得体の知れない非公開特殊法人への出向が決まり、三自衛隊のさらに運の悪い幹部らとともに全く新しい制服に袖を通す羽目になったのであった。

 

「それで、一体全体こんな夜更けに僕を呼び出して、誰に会わせようというんだい?」

 

 富竹二佐は、もう十数年前からの知己である前原圭一代議士の運転する古びたカローラの助手席に座って、夜の国道一号線を南下していた。

 

「とりあえず、現場レベルでのパイプの確保、って奴です」

 

 かつて岐阜の山間部の村で出会った少年が、今では防衛庁の政務次官である。当然、若手代議士の多い民主党内でも最年少の政務次官であり、さらには東海甲信越地方に三十数人もの代議士を従える中堅派閥の実質的トップでもあった。

 この前原圭一という男は、少年時代から「口先の魔術師」と呼ばれ、とにかく舌先三寸で相手を操る事にかけては天才的才能を発揮してきた男であった。その上、出身村落の過去の因習を打ち破り、その地方のドンであった旧家の当主に惚れ込まれ、今や民主党岐阜県連のみならず自由党県連までもをその影響下に置く、恐るべきやり手として民主党内で危険視されている政治家でもあったのだ。

 彼と知り合った事件は、ある意味自衛隊にとっては絶対に表沙汰に出来ない最悪のスキャンダルであり、それをなんとか闇に葬る事ができたのは、少年時代の彼の活躍による所が大きい。その事を知っている人間は今ではほとんどが退職し、その内容も陸幕調別のみで代々引き継がれている防衛機密ではあるが、それだけに彼の自衛隊に対する発言力は決して小さくは無かった。

 富竹二佐は、自分がNERVに出向させられる羽目になったのも、つまりはその事件のせいであり、かつ前原政務次官と個人的に付き合いがあるからである、と、薄々勘付いてもいた。

 

「つまり、NERVの警備部長として、知り合っておいた方が良い相手、という事かな?」

「そんなところです。なにしろNERVの面子は警察出身者が多いですから、自衛隊出身の富竹さんでは色々仕事がやりづらいところもあるでしょうし」

「はは、すまないね。そんな風に気を遣わせてしまって」

 

 元々が前張防衛庁長官とは、B関係のバックの絡みで付き合いの深い前原政務次官であった。むしろそちら側への顔の利き具合は、出身村落がはっきりB関係であるだけ前原圭一の方が深いくらいである。彼が鉄の団結を誇る派閥を作り、表舞台に立たずに裏から操れるのも、その手の関係の利権と票田をきっちり握っているからに他ならない。

 ただでさえ民主党の若手代議士は政治資金を集めるのが下手な連中が多いのだ。それだけに豊富な資金力と集票力を持つ彼は、次代の民主党代表となるだろう、と、そう噂されてさえいた。

 富竹は、前原が会わせようとしている相手が、そうしたB関係の団体の幹部であろうと見当をつけていた。問題は、何故、今この時期に、という点である。

 諜報関係出身の彼は、NERVが実質的には超法規的な執行機関であるが故に、その執行対象である各種犯罪団体や謎の生命体「使徒」の背景についての情報の収集を、NERV情報部に任せきりにはしてはいなかった。なにしろ警備部が自衛隊の出向者の砦ならば、情報部は警察出身者の縄張りであるのだ。情報部長の後藤警視正は、警察官僚としては珍しく役所の論理に縛られない自由な発想をする有能なオルガナイザーであるが、だからといって情報部が回してくる情報が全てを明らかにしているという保証にはならない。むしろNERVという組織全体をいかに機能的に活用するか、という点から情報を操作している可能性すらあった。

 とにかく昼行灯を決め込んでいる後藤という男は、その実あちこちに太く深いパイプを持ち、NERVの研究部門以外の活動を実質的に握っているにも等しい力を持っているのであった。

 

「着きました。どうやら相手の方が先に到着していたみたいです」

「……多摩川の河川敷で、しかも橋梁の下での密会か。まるでスパイ小説だね」

「あはは、雰囲気はあるんじゃないですか? こういうのも」

 

 楽しそうに笑う前原圭一は、三回カローラのライトをパッシングして、相手に合図を送った。すぐに橋梁の影の闇の中に停車している相手も、三回車のライトをパッシングして答え、後席からまるで小山の様なでっぷりとした体格の大男が出てくる。

 富竹は、相手の車が自分の乗っているカローラと同じ車種で、かつ同じ色をしている事にライトに光が照らし出した一瞬で気がついた。

 カローラを降りた前原政務次官は、片手を上げていかにも親しげに大男に挨拶をしている。そして、富竹の方に向き直ると、悪ガキめいた表情をして大男を彼に紹介した。

 

「遠野食品グループの会長の、久我峰さんです」

 

 碇シンジは、自分が中学二年生で、NERVでの活動に協力しつつも当然のごとく中学校に通う事になるであろう、と、思っていた。

 問題は、その中学校が区立中学校であり、実質的に学校崩壊を起こしている公立校である、という事である。まさか担任に連れられて教室の扉をくぐった瞬間、死にかけの家畜の様な眼をした生徒らと、それらを教室の後ろの隅から濁り腐った目つきで睥睨している生徒の一群を目にして、まさか自分がその中に放り込まれる羽目なるとは予想もしていなかったことを後悔していた。

 学級委員のおさげ髪の少女が担任の女教師に挨拶の号令をし、皆が着席したところで担任の葛城ミサトがシンジを皆に紹介する。

 

「みんな、転校生を紹介するわよ! 碇シンジ君、長野県からお父さんの仕事の関係で引っ越してきました。みんな、仲良くしてあげるよーに。洞木さん、碇君に学校の事を説明してあげてね。やっぱり長野と東京では全然違うから。いいわね?」

 

 生徒らの表情とは対照的に、葛城ミサトの表情と声はあくまで明るく弾んでいる。

 シンジは、だがそのミサトとふてぶてしい態度をしている獣の様な眼をした生徒らの間に、鋭い緊張があるのに気がつかされた。彼らを見つめるミサトの視線は厳しく威圧的で、それに反応する彼らの表情は嘲りと軽蔑を隠そうともしていないのだ。

 

「碇シンジです。東京は三年ぶりになります。色々と判らない事が多いですけれど、よろしくお願いします」

 

 そう無難に挨拶して頭を下げつつ、シンジは、担任がいなくなった後に起こるであろう諸々を予想して、げんなりした。大体の場合、この手の獣の眼をした連中のやりそうな事は、嫌というほど長野でも味わってきたのであったから。

 教室の窓際で、周囲に全く興味を示さず外を眺めている綾波レイに気がついたシンジは、彼女がこのクラスでどういう目に遭ってきたか想像して、一層気分が重くなった。

 

 悪い予想ほどよく当たるもので、シンジは、ミサトが教室を出て行ってから早速獣達が暴力をちらつかせて他の生徒らを威嚇し、怯える様を見て楽しみ始めたのに巻き込まれる羽目になった。

 シンジは学級委員の少女に話かけ、とにかくこの場の雰囲気と距離をとろうとはした。だが、女顔で大人しそうな転校生という格好の獲物を前にして、獣達が手を出さないはずもない。

 

「洞木ぃー、俺らにも挨拶させろや」

 

 ダンッ!! と洞木の机に手のひらを叩きつけ、だらけた格好で少年らはシンジを取り囲んだ。少女は、少年らの発する獣じみた暴力の気配に怯えて震えているしかできない。

 シンジには、これ以上自分が彼女のそばにいると、これから自分に降りかかる災難に彼女をも巻き込むことが容易に予想できた。

 なので、本音としては嫌々ではあったのであるが、彼女に「また後でね」と一声挨拶すると、少年らを無視してその囲みから抜け出そうとした。

 が、少年らの一人がシンジの足を引っ掛け、盛大に周囲の生徒の机や椅子を巻き込んで床にすっ転ばされる。

 

「なにシカトぶっこいてんだよ。転校生様はそんなにお偉いってかぁ!?」

 

 やっぱりなあ、と、シンジは他人事の様に頭の片隅で自分が少年らの逆鱗に触れた事を理解した。この手の獣達は、何よりも無視され見下される事に敏感な反応を示すのだ。そしてその反応は、往々にして暴力によるものである事を、シンジは長野にいた頃にも何度も味あわされてきていた。

 ごっ!! という音とともに少年の一人がシンジの腹部につま先を蹴りいれる。

 判りやすいといえばあまりにもお約束通りの反応で、シンジは、全身に張った「障壁」でその打撃を吸収し、けれども「ぐっ!!」とか「うあっ!!」などと、いかにも少年らが喜びそうな反応を演技してみせた。

 とにかくさっさとこの手の暴力から解放されるには、一通りこの手の反応を見せて、相手の嗜虐心を満足させるしかない。シンジにとって、暴力とは振るわれるものであって、自分が振るうものでは無かったのだ。暴力による恐怖で相手を支配するくらいならば、振るわれる暴力を甘受する。異能者として「力」を持ってしまっている彼にとっては、自分がこうした獣と同じ存在になるだけは絶対に嫌であったのだ。

 少年らが無力な転校生に暴力を振るうのを、他の生徒達はただ遠巻きに見ているだけである。職員室に報告しようとする生徒は誰もいないし、ましてやシンジをかばおうとする生徒など一人もいない。皆、少年らの暴力が自分に向けられない様にと怯えるだけで精一杯であったのだ。

 

 だが、例外というものはどこにでも存在する。

 

「……お前ら、ええ加減にせえや」

 

 シンジを蹴ったり踏んづけたりして遊んでいる少年らに、低くドスの効いた声がかけられる。

 

「あんだぁ、鈴原、文句あるってのかぁ?」

 

 少年らのリーダー格とおぼしき、髪を脱色してあちこちにピアスをつけている少年が、顎を突き出し唇を尖らせ、肩を怒らせながら声をかけた相手に近づいてゆく。だが、鈴原と呼ばれた黒いジャージを着た少年は、むすっとした表情のまま、その視線をじろりと睨み返しただけであった。

 シンジは、少年らと鈴原の発する暴力の衝動の差から、彼がきちんとした格闘技の訓練を受けていて、少年らは実際の喧嘩となったら数で押し包むしか彼にかなわない、という関係を「把握」した。

 

「もう授業始まるで」

 

 ぼそりと呟いた鈴原の一言で、少年らは渋々とシンジに暴力を振るうのを止め、自分達の席へと戻っていく。

 シンジはゆっくりと立ち上がると、自分の席へと戻る途中、鈴原と呼ばれた少年の前を通った。

 

「助けてくれて、ありがとう」

「……ふん」

 

 女々しい奴、という視線が戻ってくるのを感じて、シンジは苦笑するしかなかった。多分この少年と友人となるには、何がしかの実力を認めさせる他にはないんだろうな、とも見当をつける。

 だが、元々が人と深く関わりあうのを避け続けてきたこれまでの生き方が、シンジにそれ以上の関心をこの少年に向けさせることを拒否させた。とりあえず今回は助けてくれた。彼にとってはそれだけで十分であったのだ。

 

 そしてシンジは、今の一連の騒動にも全く関心を向けようともしない綾波レイに、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。

 

「怪我は無い?」

 

 次の休み時間、少年らがさっさと授業をサボりに教室を出て行ってから、洞木がシンジに声をかけてきた。

 教室内の雰囲気は、今までのそれが嘘の様に明るくなり、皆それぞれに談笑したり遊んだりしている。そのあまりの落差にシンジは、多分担任の葛城教諭と例の少年らの間でかなりの対立があって、そして今の時点では少年らが教室を実質的に支配しているのだな、と、そう理解した。

 

「うん、大丈夫。受身は取ったから」

 

 実際にはシンジは格闘技の類は一切やったことはないのだが、まったくの無傷である事をごまかすにはこういう風にごまかすのが一番であると、そう経験上学習していた。

 

「なんや、やることやっとったんかい。だったらあんな連中一発〆ろや」

「鈴原、無茶言うのはやめなさいよ。喧嘩なんてしたら、碇君の方が悪い事にされてしまうもの」

「け」

 

 途中から話に加わってきた鈴原が、じろじろとシンジを上から下まで眺める。

 

「ほんま大したやっちゃな。あんだけ蹴り喰らって、本当にあざ一つついとらんわ」

「向こうだって、痕が残る傷をつけたら、色々面倒な事になるって判っていたんじゃないかな」

「あのバカ共に、そんな知恵が廻るかい。途中で頭に血が上っておったんや、手加減なんてしておらんかったで」

 

 シンジは、鈴原という少年が思ったよりも目端が利く事に驚いていた。そこまで観察して、連中を止めたという事なのであろう。そうだとすれば大したものである。彼が担任の葛城教諭に協力すれば、このクラスも随分と雰囲気が変わるのに。そうシンジは残念に思った。

 そして、そんなシンジの内心が表情に出たのであろう、鈴原は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。

 

「あんな程度の低い連中相手にビビッている方が悪いんや。わいの知ったこっちゃないわ」

 

 シンジは、鈴原という少年にもまた、クラスから孤立する何がしかの理由があるのだろうな、と、そうその答えから類推した。全く、人間関係の複雑なクラスである。正直いって、多分三十前の女教師にこのクラスをまとめられるのか、そういう懸念を覚える。

 そんな彼の懸念を知らず、鈴原と洞木の二人は、なんというかいちゃつくようなやりとりをしていた。

 

 一時限目の授業を終えて職員室に戻ってきた葛城ミサトは、その相変わらず重苦しい雰囲気に内心嫌気を覚えつつ、それでも表情だけは明るく自分の席についた。

 

「まだ初夏だというのに、随分と涼しそうな格好ですわねえ」

 

 向かいの席の四十路の後半に達しているであろう女教師が、いかにも聞こえよがしに嫌味を飛ばしてくる。

 ミサトは、今日の自分の格好がノーズリーブのサマーセーターに、ひざ上までのタイトスカートである事を思い出し、いちいち煩いわね、このババァ、と内心で毒づいた。そして、相手には目も向けず、次の授業の準備にとりかかる。

 

「最近の子供は刺激に飢えていますからねぇ。あまり挑発的な格好は教育上好ましくないですし」

 

 ミサトにあっさりと無視されたのが気に食わなかったのであろう、女教師はあらためて嫌味を重ねてくる。

 

「最近は日差しが強いですから、赤い鉢巻で日焼け痕が残りますね」

 

 さすがに気の短いミサトも、そこまで言われては言い返さないと気が済まない。目前の女教師が日教組の熱心な活動家で、平然と授業を放棄しては組合活動に精を出しているのをあてこする。

 

「まったく、教師が聖職者であるという自覚の無い教員が多くて、子供達が可哀想ですわ」

「最初から子供に物を教える事を放棄している教員が多いのも問題ですね」

 

 互いに視線すら合わせないが、どんどん舌鋒が鋭くなっていく。

 かといって、職員室にいる他の教師らは、全く我関せずで二人のやりとりを無視したままである。教頭ですら、面倒事に巻き込まれるのが嫌なのであろう、あえて何も聞こえないふりをして、何も言わずに書類に没頭しているフリをしている。

 嫌味の応酬を自分からさっさと終わらせると、相手の女教師を完全に無視し、今までのやりとりなど無かったかのように、ミサトは教材を抱えて職員室から出て行った。

 

 学校が終わり、NERV本部の特機隊員が立哨しているゲートをIDカードを見せて挨拶して通った直後、シンジは大きく溜息をついた。今の今まで全身が緊張していた事に気がつき、これからずっとこんな毎日が続くのかと思うと、もう一度大きな溜息が出る。自分より早くあの区立中学校に入学していた綾波レイは、あの雰囲気の中ずっと過ごして来たわけである。

 シンジは、今日は二人で医学的検査を受ける日である事を思い出し、少しづつでも彼女から話を聞いてみようと心に決めた。

 

「別に」

 

 綾波レイの答えは、予想通り木で鼻をくくった様なそっけないものであった。 「でも、学校で話す相手が誰もいないって、寂しくない?」

「何故、話をしないといけないの?」

 

 なんでこんなに話がかみ合わないんだろう。

 シンジは、自分と同じ病人服を着たレイと、医学棟の廊下の長椅子に並んで座り、次の検査までの待ち時間の間、学校での生活について色々と質問をしていた。だが、レイから帰ってくる答えは、予想以上にそっけないものであった。「判らない」「知らない」「別に」のほぼ三種類だけである。

 シンジは、隣に座るアルビノの少女が、完璧なまでにクラスメイトから無視され、遠ざけられている、という事しか知り得なかった。

 普通、ここまで完璧に無視されるというのは、相当に酷いイジメであるはずなのだが、それをイジメとして認識していないところが綾波レイの綾波レイたるところなのかもしれない。

 そうシンジは内心で大きく溜息をついて、質問を打ち切った。これ以上話を続けても、不毛以外の何物でもないと感じたのだ。

 

「ねえ、綾波はなんでNERVに来たの?」

「質問の意味が判らない」

 

 じっとシンジを見つめる真紅の瞳が、本当に何を問われているのか判らない、という表情を見せている。

 シンジは、少し考えてから、言葉を続けた。

 

「綾波もさ、NERVが設立されて、スカウトされてここに来たんだよね?」

「いいえ、違うわ」

「え?」

 

 この答えには、さすがにシンジも面食らった。

 

「つまり、綾波は最初からNERVにいたんだ?」

「ええ」

「……NERVって、いつ設立されたの? 貰った資料には書いてはなかったけれど」

「……ごめんなさい」

 

 その質問には答えられない、という事らしい。

 シンジは、そういえばレイがNERVの活動に参加する前に、どこで何をしていたかも答えようとはしなかった事を思い出した。

 

「ごめん」

「なんで謝るの?」

「……うーんと、綾波が答えられない質問をしたから」

「答えが得られる質問か、得られない質問かは、質問してみるまで判らないのでは?」

「……いや、それはそうなんだけれど……」

 

 とにかく綾波レイと話がかみ合わない。

 そのもどかしさにシンジは、つい大きな溜息をついてしまう。

 レイは、そんなシンジを不思議そうに見つめているだけであった。

 

 日中の課業が終了し、ようやく自分の仕事に取り掛かれる様になった赤木リツコは、自分の研究室のPCモニターに映し出されているシンジとレイの検査結果に目を通し、そして先日捕獲に成功した「使徒」の死骸から得られた検査結果とを比較していた。

 

「遺伝子情報が、これだけ全く一致しない、というのも不思議ね」

 

 眠気と疲労ではれぼったいまぶたを揉むと、目薬を差して眼鏡をかけなおす。いい加減疲労でモニターの文字が読みづらくなっているだけに、いっそ内規を無視してデータをプリントアウトしてしまおうかと、そんな誘惑にかられる。

 だが、それをやったが最後、また調査部に保全違反で呼び出され、あげく後藤警視正にあののんびりとした口調でたしなめられるかと思うと、その気も失せてしまう。一見人当たりの柔らかい昼行灯に見えて、実は人の最も突かれたくない弱みをやんわりとした口調で一突きにしてくるのが彼の叱責の仕方なのだ。なまじリツコも頭の回転は速いだけに、そういう叱責は非常にこたえるものがあったのだ。

 

「……で、データとして近似値を出しているのは、草薙一尉なわけね」

 

 沖縄に設立された第二少年工科学校出身で、空自の航空学生を経て幹部候補生学校を優秀な成績で卒業し、築城でF-2のパイロットとして天才的な技量を発揮していた彼女の経歴は、見事なまでのエリートコースを歩んでいた空自幹部そのものである。

 だが草薙一尉本人は、見ての通りのローティーンの多少発育不良な少女の外見をしている。とてもではないが、空自から提出され、NERV調査部が裏をとった経歴との間のギャップが大きすぎた。少なくともあの体格で、高G環境下での精密作業が要求されるファイター・パイロットが務まる様には思えない。

 リツコは、本来は草薙一尉の身体データに関しては一切触れてはならない、という上層部からの通達をあえて無視して、普段の健康診断にまぎれて彼女のデータを収集し、NERVのネットワークに接続されていない自前のPCにデータを暗号化して隠しておいたのである。そして、そのデータの解析を密かに行い、彼女が空自に在籍する草薙水素一尉本人であるかどうか、最終的にその事実そのものに疑問を抱くに至ったのであった。

 なにしろ、彼女の遺伝子データに不審な点がありすぎる。さすがにNERVの正規の検査機器を使って調査するわけにはいかないので、あくまで自前のワークステーションで解析するしかなかったのであるが、それでも彼女の遺伝子構造そのものが異常であるのだ。そして、綾波レイと碇シンジという二人の「異能者」の遺伝子データがこの度めでたくも入手できた事により、彼女もまた「異能者」なのではないか、という疑問を持つに至ったのである。

 かといって「異能者」であるとしても、草薙一尉に何か特異な能力が確認されたわけではない。あえて言うならば、実際に航空機搭乗員として優秀な技能を発揮できている、というその事実だけが、彼女の特異性である。リツコは、そこで一端思考を打ち切ると、全てのデータをセーブした。これ以上睡眠不測の頭であれこれ考えても、多分斜め上な結論しか出ないと判断しての事であった。

 あらためて時計を見てもう日付が変わっている事に気がつき、リツコが私室へ戻ろうと腰を上げたその時である。

 内線電話の電子音が鳴り、リツコは口の中で知性的な女性に相応しくない呪詛を一言呟いてから受話器をとった。

 

「ああ、夜分遅くにすみません。後藤です。赤木博士、少しだけお時間をいただけますか?」

 

 よりにもよって相手は後藤調査部長であった。今このボケた頭では最も会いたくない相手の一人である。自然とリツコの口調は冷たいものとならざるをえなかった。

 

「今、眠りに戻ろうとしていた所です。あまり長くならないとありがたいのですが」

「それは失礼しました。いえね、ちょっと綾波さんとシンジ君の学校生活の話なんですが」

「……何かありましたか?」

 

 ああ、もう、そういう話は直属上官の草薙一尉か、二人の警備を担当する富竹警備部長に持っていって欲しい。

 リツコは、心底そう腹が立った。確かに二人の健康管理は、彼女が兼任するという事になっている。だが、二人の学校生活に関わる問題は、あくまで警備部の管轄ではなかったのか。

 

「いやあ、シンジ君がね、同じクラスの不良連中に目をつけられたんですよ。まあ、幸い怪我はなかった様ですが。ただ、このまま放置しておくと、多分彼、かなりの揉め事に巻き込まれそうでね。二人とも赤木博士に一番なついているみたいですから、博士から一言忠告をしてあげて欲しいんですよ」

「……私が言って、二人が言う事を聞くと本気で思っています?」

「草薙さんが言っても、多分聞かないでしょうね。まして、ほとんど接点の無い自分や富竹さんじゃあ、まさしく何それの世界になりますから」

 

 で、二人と最も接触の多い自分に、二人の生活指導まで任される事になる、という事なのね。

 リツコは、何もかもが心底面倒になった。何故よりにもよって、という気持ちで一杯になる。

 だが、わざわざリツコにこんな時間に要請をしてきた、ということは、状況がそれだけ切迫している、という事でもある。

 

「判りました。明日、今日の検査の残りがありますから、その時にでも二人に話をしておきます。それでよろしいですね?」

「いやあ、お手数をおかけして申し訳ないです。この借りはいずれ精神的にお返ししますので」

 

 いらないわよ、そんなもの。

 そうもう少しで口にしかけたのを必死に押さえ込み、リツコは電話を切った。 「私は情報工学が専門の研究者で、保母じゃないのよ」

 

 内線電話に向かって言い捨てるが、リツコのその愚痴に答えるものは誰もいなかった。

 

 フェイトがアメリカ連邦司法省によって匿われているセイフティ・ハウスは、西部開拓時代の名残りを残す質実な建物であった。

 そして周囲は一面のトウモロコシ畑で、大型のコンバインが影のように動いている。

 フェイトは、物心ついた時からずっと自分が過ごしてきたアルプス山系とは全く違う、地平線まで何も無い風景に、ひたすら退屈を紛らわすので精一杯であった。

 FBIは、こうした刺激の少ない場所にフェイトを置いておく事で、刺激に飢えた彼女から容易に情報を引き出せる様に、と、そう考えたのであろう。だが、元々がフェイトは自分の知っている事を隠すつもりはなかったし、むしろFBIが示す好意そのものがわずらわしくてならなかった。EUが結成されたことで、結果的にユーロマフィアが勝利を収めつつある欧州出身の彼女にとっては、アメリカ人独特の楽天さと善意があまりにも能天気に過ぎる様に思えたのである。

 

「ようお嬢ちゃん、コーヒーはどうだい? アップルパイもあるが、食べるかい?」

「ありがとうございます」

 

 チェックのネルシャツにジーンズという格好の赤ら顔の白人のFBI捜査官が、トレーにマグカップとアップルパイを一ホールまるまる載せて、フェイトの向かいに座る。

 

「すまないなあ。いや、見せてもらってもまだ信じられなくてな。この世に魔法なんてもんが実在するなんてなあ」

 

 感に堪えない様子で、彼はフェイトの前にマグカップと切り分けられたアップルパイを乗せた取り皿を置く。

 

「そういうものは、おとぎ話か映画の中だけのものだと思っていたんだよ」

「私も、この世界がこんなにも色々なもので満ち溢れているとは、知りませんでした」

 

 そう、最初にヴァージニア州の奥地で焼け崩れた建物跡で出会った時には、なんて粗野で乱暴な大人なんだろう、と、そうフェイトは目前の中年男について感想を抱いたものである。だがこの男は、実際に話をしてみると、多少口のきき方は乱暴ではあるが、しっかりした知性と理性と常識を持った男であり、フェイトが包み隠さず話した全てを最後にはきちんと理解できるだけの柔軟ささえ備えていたのだ。

 

「ま、合州国も超能力者について研究を行っていて、実際にスパイ活動に使っているからなあ。古い歴史を持つ欧州なら、魔法使いがいてもおかしくは無いんだろうな」

「私は、その超能力というものが、よく判りません」

「だろうなあ。魔法も手続きを踏まないと使えないという意味では、科学技術と変わらないからなあ。超能力なんて代物の方がインチキか」

 

 フェイトは、こくりとうなずくと、目の前に置かれたマグカップを両手で包み込むように持ち、ミルクで半分に割られた砂糖抜きのコーヒーを口にした。

 温度も猫舌のフェイトに合わせてぬるめであり、コーヒーの苦味とミルクの甘みが丁度良い塩梅である。こうした気遣いができるこの男は、多分家庭では良い父親であるのだろうな、と、そう心の中で彼女は評価した。

 

「それでな、あんまりいい話じゃないんだが、聞くかい?」

「お願いします」

 

 男は、なんとも情けなさそうな表情になって、話を続けた。

 

「どうもワシントンでの雲行きが怪しくてなあ。お嬢ちゃんと一緒にいたCIAの二人は、釈放させられちまったよ。お嬢ちゃんを奴らに引き渡すのは、なんとか抵抗しているんだがな、どうも無理っぽい様子になりそうだ」

「はい」

 

 ミルクコーヒーを舐めながら、フェイトは特に感慨も無い様子でうなずいた。

 自分の知らないところでどんな決定が下されようとも、結局はなるようにしかならない。

 そんなフェイトの淡々とした様子に、男はさらに済まなさそうな表情になった。

 

「CIAがお嬢ちゃんをバチカンから連れてきたネタというのがな、まああんまり子供には聞かせたくない話なんだが、ニューヨーク大司教が少年好きの同性愛者で、しかも子供を痛めつけないと満足できないっていう変態だ、という証拠を握られたからなんだよ。うちは今回その件を立件しようと努力してはいるんだが、何しろCIAが証拠と証人をことごとく抑えてしまっていて、どうにも手が出せないんだな」

 

 男は、ここまで語ってから軽く溜息をつくと、さらに話を続けた。

 

「で、CIAはお嬢ちゃんをうちが保護した事がいたく不満らしくて、合州国内の色々な圧力団体を経由して、ホワイトハウスに圧力をかけている、ってわけだ。何しろ今の大統領は、民主党で、女で、リベラルなもんでな、あちこちに借りを作りまくっていて、あちこちに頭が上がらないときたもんだ」

「つまり私は、CIAに引き渡されるわけですね」

「……すまない」

「気にしないでください、セニョール・ホワイト。少しだけ寄り道ができて、地平線というものを実際に見る事ができました。それだけで十分です」

「本当に、すまない」

 

 男は、深く頭を下げた。

 だがフェイトは、少しだけ微笑んで、そしてもう一度トウモロコシ畑の向こう側で動いているコンバインに視線を送った。

 そう、あんな機械が動いていて、こんな広い畑で作物を作っている。

 それを見る事ができただけでも、彼女にとっては十分だったのであった。

 

「世界は広いというのが学べました」

 

 そう、生きていれば、まだ他にも色々なものが見る事ができるかもしれない。

 フェイトは、生きる事をあきらめる事を、少しだけ考え直そうかと思い始めていた。

 

 

TO BE CONTINUED

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