リリスの子ら
間部瀬博士
第3話
チヒロのパートナーが首なしで発見された日の午後、阿南は部下の草鹿の運転で電気自動車に乗り、「村」へ向かっていた。
草鹿は25になったばかりの若者で、阿南の補佐役として先月その任に着いたばかりだった。叩き上げの阿南から見ればペーペーの若造に過ぎないが、これまでのところそつなく仕事をこなしている。若さゆえの独善も目につくが、将来性はありと阿南は見なしていた。顔も体格もいい。これは捜査官としてはプラスになる。
その草鹿が隣に座る阿南に言った。「しかし、驚いたなあ。お膝元でテロですもんねえ。えらいことですよ、これ」
「ネオ・ネルフ始まって以来の事件だよ。重大性ではチルドレン暗殺事件に次ぐ。部長、真っ青だったよ。上層部にしこたまやられたな。俺も散々だったが、気の毒なのは警備課長だ。見ていて気の毒だった。可哀想に。なに言われても仕方ないがね」
阿南は今朝の本部における騒動を反芻した。雷が落ちたと言っても過言ではない。阿南にも少なからぬ叱責があった。顔を真っ赤にしながら、唾を飛ばして大声を張り上げる保安部長を思い出すと、胃が縮まるのを感じる。
公安二課の仕事は主に敵対組織の摘発にあり、合法、非合法を問わない情報収集から破壊工作まで、多岐に亘る捜査活動を行っている。阿南の日常もジオフロント外で過ごすことが殆どであった。
ジオフロント内部で起きた事件の捜査権はネオ・ネルフが持っている。日本国の警察は介入できないのだ。テロ組織と関わりの深い阿南は、事件の捜査主任に任命され、警備課と合同で犯人逮捕を目指すことになった。
世間にネオ・ネルフにとって都合の悪い情報が流れることは、まずない。今回の事件もAクラスの機密事項だ。人心の安定のため、という大義名分のもと、報道機関は圧殺されていた。ただし、ネット社会においては、少数ながら関連情報が飛び交っていた。大規模な使徒戦ともなれば、リアルタイムで報道がなされていた。おかげで先日の使徒戦も、大抵の人間は知っている。そういうサイトの摘発も重要な仕事だが、いたちごっこのように、つぶしては現れ、の繰り返しだった。
「だがテロと決め付けるのは早い。あらゆる可能性を探るべきだ。犯行声明も出ていないからな。現段階では頭を真っ白にして捜査すること」
「そうですね。なあに、犯人はすぐ捕まりますって。何と言っても閉鎖空間ですからね、ここ。出入りする人間は全部把握されてる。監視カメラも沢山ついてる。僕ならこんな場所で破壊活動はしない」
「そう楽観しない方がいい」阿南は簡単に事が運ぶとは思えなかった。「敵は1週間もマサトを隠していた。警備課総動員で捜索したにも関わらずだ。監視カメラの映像も数十人でチェックしたが、何も手掛かりを得られなかった。大体ここのカメラは少ない台数で広い範囲をカバーしようとしすぎている。賭けてもいいが、俺ならメインゲートからオフィスまでカメラに映らずに辿り着いてみせる。死角が多すぎるんだよ」
「そりゃ、課長はカメラの位置を全部知ってるから」
「職員なら有利だと思わないか?」
草鹿は阿南の言葉の奥に、深刻な意味があることに気づき、眉を顰めた。
「スパイがいるってことですね」
「そこまでは言わん。ただ、俺はどうも今回の事件の犯人像が見えない。単純なテロとは思えないんだ。テロなら、なぜチルドレンをほったらかしてパートナーを襲うんだ?1週間も隠しておいて、突然曝け出した理由は何だ?もう一つ、外部の人間だとしたら、潜入経路はどこだ?空洞部に入り込むのは容易なことじゃないぞ。不明な点が多すぎる」
二人の会話は途切れ、それぞれ思いに耽った。無蓋の電気自動車には散光塔から落ちる光が差し込んでいる。村に至る道のりは半ばに差し掛かったところだ。
阿南が切り出した。「確かに君が言うように、ここは閉鎖空間だ。出入りした人間は全て分かるさ。ええと、正確には」懐から手帳を出し、目を走らせた。「ジオフロントの昼間人口は平均3,200人。夜間2,500人。非職員で、事件発生の日にいた者は352人。昨日は534人。そのうち、両方の日にいた者、296人。結構な人数だ。工事関係者が大半を占める。他に、出入りの業者や売店の売り子などだ。だが、その人間がいつどこで何をやっていたか、完璧に把握することはできない。君はジオフロントを隅々まで知っているかい?」
草鹿は一瞬黙ってから答えた。「いえ、全部は」
「そうだろう。俺だって知ってるのは一部分だけだ。技術部の連中は極端な秘密主義だからな。警備部門も独立してる。あいつら、地下でなにをやってるんだ?見当もつかん。工事で出入りする連中もやたら多いが、何が目的なのかも曖昧だ。俺はそっちに犯人がいたら長引くんじゃないかと思うね」
「縦割り組織の弊害ですか」
草鹿は暗い目をして前を見つめた。彼もこの組織に職を得て3年になるが、分からないことが多すぎた。エヴァにしろチルドレンにしろ、ごく初歩的な知識しか持っていなかった。旧ネルフと同じく、この組織も深い闇を宿している。草鹿はそら恐ろしい感じに捉われて、はるか高みの天蓋を見上げた。
「そういや村に入るのも初めてなんですよ、僕」草鹿は話題を変えようと笑顔で言った。「チルドレンを生で見るのも初めてです。3年もいるのに。ちょっとどきどきしてますよ」
「俺たちは外の仕事が殆どだからな。俺だって十何年この仕事をやってるが、近づいたのはこの前が最初だ。この事件がなきゃ二度目はなかったかもな」
「どうでした、チルドレン?」草鹿の目が輝いた。
「可愛かったよ。髪と目を除けば人間と変わりない。何て言うのか...、神懸った感じも受けた。特別な存在だよ、あれは」
阿南の脳裏にハルカの面影が浮かんだ。上気しながら白い歯を見せたハルカだ。あの娘にまた会える。そう思うと阿南は、ほんの少しときめくのを感じた。
車は村の中に入った。草鹿は周りに広がる別世界のような光景に目を見張った。
「はあー。いい所だなあ。森に芝生に素敵な家かあ。うらやましいや」
それは、阿南も感じていた。彼が育った環境とは程遠い場所だ。こういう風景は絵葉書や画像の中にしか見たことはなかった。
「代わってやりたいと思うかい?」阿南はにやりと笑って草鹿に訊いた。
「とんでもない!」草鹿はぶるぶると顔を横に振った。「命の方が大事だ。僕は今住んでる社宅で長生きする方を選びますね」
「同感だね」
車は村の中でも奥まった、ある一軒の家の前に停まった。そこはチヒロとマサトの家だった。
「お邪魔しますよ」阿南と草鹿が家に入ると、保安部次長の相沢がいた。「よう、阿南。やっと来たか」
相沢は50近い、太り気味の男だ。頭髪は寂しくなっているが、陽性の頭の切れる人物で、人望も厚い。
「どうです。何か出ましたか?」
「これと言ってないね。今、資料を収集中だ」
阿南は白い手袋を嵌めながら部屋の中をざっと見回した。鑑識係りが部屋の要所の指紋を採取している。調度品はどれも彼が見たこともないような高級感のあるもので、パイロットの贅沢な暮らし振りが窺える。床に高さ10cm、直径30cmほどの円形の銀色をした物体が動き回っていた。資料採取ロボットだ。床にあるあらゆる物体を分析し、価値のありそうなもの、例えば血痕、髪の毛、繊維など犯人と結びつきそうな物を見つけては、極小のマニュピレーターで拾い上げたり、通報したりするロボットである。
草鹿が口を開いた。「ここからは何も出ないでしょう」草鹿はこの家の捜索から手掛かりが得られるとは思っていなかった。
「そうかな?君はマサトが生きていた時間にこの家にいなかったから、そう思うんだろ?」相沢は教師が生徒に質問するような態度で、草鹿に訊いた。
「そうですね。この村に出入りしているのは少数の顔なじみばかりです。監視カメラにも不審人物は映っていなかった。彼が失踪したのは地下に入ってからでしょう。それと、アンドロイドの場合は『生きていた』じゃなくて『活動していた』でしょう」
「めんどくせえ」相沢は苦笑した後、真面目な顔をして草鹿に言った。「君はマサトが地下に下りてから、いきなり襲われたと考えているんだね。確かにそれは大いにある。だが、こう考えることもできる。マサトはまず、チルドレンの留守中に犯人に襲われた。銃か何かを突き付けられてこう言われる。『一緒に来い。さもないと水をコップ一杯飲ませるぞ』」相沢は人差し指を草鹿に突きつけてにやりと笑った。阿南はふふふと軽く笑い、部屋の中を歩き出した。
草鹿は納得顔になった。「誘拐したってことですか」
「可能性はある。大体ここの森にはフェンスもない。犯人が密かに侵入するには絶好の環境だ」
阿南は家具類を観察しながら口を挟んだ。「その説で行くと、マサトが出て行くところを、監視カメラが捉えていないことの説明が付く」
「その通りさ。うちの監視システムもおそまつなもんだがね」
阿南は相沢に向き直った。「マサトは誘拐犯に強要されて仕方なくチヒロに電話をしたとする。でも、そうすると一つの疑問が浮かんでくる」
「それは?」
「アンドロイドは嘘を吐けるか」
相沢は感心したように頷いた。「成程。そりゃ確かめにゃならん。俺はどうも彼らを人間と同じに見てしまう」
「彼らはつまるところプログラムですからね。普通、アンドロイドは嘘を吐かない。例外があるとすればどんなケースが考えられるか。それを設計者に是非訊いてみたいです」
「ベヒシュタイン博士かい?」
「ええ。実はもうアポを取ってあるんですよ」
「そうか、そりゃいい。やってみてくれ」
阿南の足元に円形のロボットが止まり、耳障りな音を立てた。邪魔をするなと怒っているかのようだ。彼は大股で移動してロボットのために道を開けてやった。
食卓を眺める阿南の動きが止まった。木製の椅子に顔を近づけてまじまじと見つめた。
「こりゃ誘拐説が有力になってきたかもですよ、次長」
「おっ、なんか出たかい?」
相沢と草鹿は阿南の傍に駆け寄った。阿南は椅子の背凭れの一部を指差している。「新しい疵だ。結構大きい。事件と関係あるかは未知数ですが」
「おーい写真」相沢はカメラを持った部員を呼んだ。
背凭れの縦に伸びる四角い木の中ほどが、およそ長さ3センチに亘り、角が削れて白い木肌が剥き出しになっている。
相沢は傷跡を凝視した。木肌の瑞々しさから見てそう古いものとは思えなかった。「格闘の跡かもな。チヒロ中尉に確かめなきゃ、なんとも言えんが」
三人が三人とも手帳を取り出して手早くメモを取った。阿南が部員に写真を取らせて、三人居間の中央に戻った。阿南が言った。「森の中を徹底的に捜査する必要がありますね。足跡が残っているかも知れない」
「それは警備課の連中がやってる。あの広さだから、全部終わるまでは時間がかかるだろうがね。問題は次の日、捜索で大勢踏み込んだことだよ。肝心の足跡が消えてしまったかも知れん」
「遺体ノでいいのかな?発見現場に足跡は?」
「あった。真新しいスポーツシューズだそうだ」
「証拠になるかな。頭のいいやつなら処分してそうだ」
「かもな」
「チヒロ中尉の聴取は?」
「失踪直後から何度もやってる。俺も調書を読んだが、参考になりそうなことは何もないね」
「今、どこに?」
「ハルカ中尉の所だ。現場検証が終わるまで、はずしてもらってる」
「あのう。死亡推定時刻は分からないんですか」草鹿がおずおずと口を出した。相沢はにやりと笑った。「『死亡』と言ったな。正しくは『活動停止』だろう?」「あ、そうか」
苦笑いをしながら頭を掻く草鹿に、相沢は残念そうに答えた。「アンドロイドの場合は人間と違って法医学は確率されていない。医学ってのも変か。メモリーが残ってさえいれば何時活動停止したかは勿論、何を見、何を聞いたかまで正確に分かるんだが、今回は首を持っていかれてる。全てのメモリーは頭の中にあるんだとさ。んで、その手掛かりはまるでない」
「ちぇっ。そうかぁ」
阿南は手帳をしまい、周囲を眺めながら考えた。ここも今や犯行現場の有力候補だ。まずはじっくり観察して手掛かりを集めること。「他を見てきます」そう言って離れようとした時、甲高い電子音が響き亘り、驚いて足を止めた。
「ポチがなにか見つけたようだ」相沢が食卓の方に向かっている。資料採取ロボットが食卓脇のチェストの前に居座り、微動だにしていない。音はこのロボットが発しているのだ。ポチというのは、このロボットの愛称のようだ。
ポチの最も低い部分から赤いレーザー光線が、木製チェストの台座の刳り抜かれた隙間に伸びていた。光線の先に何かがあるのだ。
「何があるんだ。二人で動かしてみよう」阿南と草鹿がチェストの端を掴み、二人掛りで動かした。綿埃が舞い上がった。
床に長方形のチェストの跡が出来ている。その真ん中に丸く平べったい、直径1センチほどの茶色い物体がある。
阿南は呟いた。「洋服のボタンだな」
「写真!」相沢が後ろを向いて叫んだ。すぐに部員が飛んできて、角度を変えて2、3枚撮った。阿南は撮影が終わるとしゃがみ込んでそれをつまんだ。
それは外周に正方形が内接したデザインで、正方形の部分がへこんでいる。中央部に四つの穴が開いている。素材は何の変哲もないプラスチックで、どこにでもありそうに思えるものだった。
「物証その2だ。これに埃はかかっていなかった。最近潜り込んだものだな、これは。草鹿君」阿南は草鹿の方を振り向いた。
「はい、はい」手持ち無沙汰にしていた草鹿は勢い込んで返事をした。
「君、この家のマサトの洋服を調べて、これと同じものがないか調べてみてくれ。同じものがなければ、興味津々の品になるぞ」
「分かりましたっ」草鹿は隣の部屋へ走って行った。若さが滲む草鹿の動き方が、阿南には微笑ましかった。
20分後、チヒロの家を出た阿南は、草鹿と共に村の奥へ徒歩で向かった。結局件のボタンが付いた洋服は発見されず、阿南はあの家で何かがあったと確信しつつあった。相沢はまだ残って捜査の指揮を執っている。
「どこに行くんですか?」と、草鹿が訊いた。
「まず、養成所に行こう。奥から順番に片付ける。あそこは人が固まっているからな。目撃者がいる可能性もある」
二人は陽光溢れる森の中を歩いた。緩い左カーブを曲がると行手にチルドレン養成所の建物が見えた。
チルドレン養成所は二階建ての校舎に運動場やグラウンドも備わった施設で、規模の小さな学校のような趣きがある。草鹿はそれらを眺めながら懐かしさのようなものを感じていた。
玄関ホールに入ると、正面にある、白いプラグスーツ姿のチルドレンを描いた巨大な肖像画が目を引いた。ファーストチルドレンを描いたものだ。阿南たちには見慣れた図柄だったが、これほど大きなものは初めてだったので、見とれてしまった。
廊下の奥から小さな7才ぐらいの女の子が来た。蒼い髪を短く切り揃えた、紅い瞳が煌く少女だ。草鹿にとっては初めて会ったチルドレンだ。紺のワンピースが可愛らしい。阿南たちを見て立ち止まった。
「誰?」
無表情にその子は言った。まるで相手を人と思っていないかのようだ。阿南は愛想よく微笑って屈みこみ、視線を合わせた。
「こんにちは、チルドレン。おじさん達は保安部の者だよ。マサコさんにタダオさんはいるかい?」
「こっちに来て」
その子は即座に向きを変えて奥へ歩きだした。阿南は草鹿に肩をすくめて見せ、後に続いた。ハルカも昔はこうだったのだろうかと思った。
マサコとタダオは彼らの居住室で二人の保安部員を迎えた。阿南は現在最も高齢のチルドレンを見た瞬間、チルドレンも長生きすればこうなるのかと不思議な感覚に捉われた。成熟した体つきと面立ちは、花の色香を漂わせ、阿南の視線を吸い寄せる。ここでは一人の人間の幼年から大人までを、一時に見ることができる。
「お忙しいところをすみません。マサコさん、タダオさん。なるべく手短にすませますので」
「いいえ。お気になさらずに。どうぞおかけになって」
マサコが二人に椅子を勧めた。草鹿は座りながら、この部屋が広さ、調度共、チヒロの家に比べれば数段落ちると感じた。
草鹿の向かいにタダオが座った。実に整った顔立ちだ。いかにもアンドロイドくさい顔だ、と彼は思った。
人間の顔は真ん中で右と左に分ければ、形に多かれ少なかれ違いがある。ところがアンドロイドの場合は、大抵完全な左右対称形をしている。そこから来る妙な違和感がタダオの顔にもあった。マサコが四人分の茶を運んできた。
阿南は手帳を広げた。「ええと、お二人共警備課には、マサト失踪当時の事情はお話しされてますね。時間が勿体ないので、省略できる部分は省略しましょう。まず、お二人あの日は、使徒戦のため午前7時半まで、チルドレンと地下の講堂で実戦を見学されていた。その後早めの朝食、マサコさんはそれから気分が悪くなり、夕方までずっと自室で休んでいた。これに間違いないですね」
「はい、間違いありません」
「マサコは低血圧気味なんですよ」急にタダオが口を挟んだ。「僕が午後1時頃、昼食を部屋に運んでやりました。ちゃんとベッドに寝ていました」
阿南は真顔で注意した。「タダオさん、あなたのお話は後で」
「あ、どうもすみません」タダオは口を噤んだ。
「午後4時になってあなたは起き、夕飯の支度に取り掛かった。ここからは複数の者があなたを見ている。もう一度訊きます。あなたは朝食の終わった午前8時半からずっとこの養成所から出ていない、これに間違いないですね」
「絶対に間違いありません」
心なしかマサコの目に怒りの色が浮かんでいるように見えた。口元はきっ、と結ばれている。タダオは心配そうにその様子を見た。
「阿南さん、申し訳ないが、一言だけ言わせてください」またタダオが嘴を入れてきた。阿南は仕方なく頷いた。「みんなの朝食が終わって僕と食器類を洗っている最中でした。マサコは突然ふらついて、僕に倒れかかってきたんです。顔色は真っ青でした。僕は慌てて寝室へ運んでやりました。この時の騒ぎはチルドレンも何人か目撃しています。マサコは本当の事を言っているんですよ」
「誤解のないように言っておきます」阿南は右手を上げてタダオを制した。「私は別にマサコさんを疑っている訳じゃありません。これは手続き的に必要だからやっているまでです。あの日、この村にいた者全員の行動を把握する必要があるんです。それだけの事ですよ。気を悪くなさらないでください」
「気を悪くなんて、とんでもないです」マサコは余裕の表情を見せて言った。「喜んで協力します。どうぞなんでもお聞きになって」
「次に昨日のことです。マサトのボディがあの場所に捨てられたのは、一昨日の午後11時頃から今日の午前1時頃までの間、26時間以内の事だということは、はっきりしています。おととい同じ場所を警備員が巡回していましたが、何も無かったからです。さて、まずマサコさん、あなたの昨日の行動を教えてください」
阿南は手帳を開いて、じっくりと聞く姿勢を取った。マサコは右手で左手を強く握り、口を開いた。
「はい。昨日は朝6時に起きて食事の用意、それから7時半に子供たちを起こして、8時に朝食。9時から12時まで年長組は訓練になりますから、私は年少組の世話をしていました。タダオと島田さんは洗濯と昼食の準備をしていました」
「島田さんとは、もう一人の保母さんですね?」
「ええ。12時からみんなで昼食。1時から年長組は講義だったので、3人共年少組の相手をしました。字を教えたり、本を読み聞かせたりしました」
「うん。まとめてしまいますと、あなたは昨日は通常通りの日程をこなしたということですね。養成所から外へは出ませんでしたか?」
「はい。ずっと中にいました」
「不審な人物は見かけなかった」
「はい」
阿南はタダオの方を向いた。「タダオさん、あなたはどうですか?」
「僕も同じです。昨日は普段と変らない一日でした。養成所から外には行っていませんし、変った人物も見ていません」
「お二人とも、それは一日を通してですか?朝起きてから夜寝るまで、外出はしなかったと」
「ええ」「そうです」
「では、ここに出入りした人間はいましたか?」
「昼前に食材の配達が来ましたが、すぐに帰りました。他はないはずです」と、タダオ。
「夜は自由時間ですね。お二人、何をされてましたか?」
「タダオと一緒にテレビを見てました。古い洋画で、『サイレント・ワールド』というのです」
「あれですか。あれは僕も好きだ。最初から最後まで?」
「ええ。9時から始まって、終わったのは11時半です。その後すぐにベッドに入りました」
「タダオさん。今の話に間違いないですね?」
「間違いありません」
「そうそう。おとといの夜はどうです?何時に寝ましたか?」
マサコが答える。「11時には全員寝てしまいました。私たち、夜更かしはしないんです」
「手掛かりまるでなし、と」阿南は手帳にさらさらと書き付け、ペンの尻で額をこすりながら考え込んだ。やがて視線をマサコに向けた。
「一つ、分からないことがあります。あなたのことです。あなたはどうしてエヴァパイロットにならないんですか?」
マサコとタダオに明らかに動揺が走った。草鹿も阿南の真意が分からず、まじまじとその横顔を見つめた。
「それは事件と何か関係があるんですか?」マサコはじっと阿南の目を見つめながら言った。阿南はまともにその視線を受け止めた。「調書を作るうえで是非とも必要な事柄なんですよ。技術部に問い合わせてもいいが、彼らはお役所仕事でね。時間短縮のためにお聞かせ願えませんか。いやなら別に構いませんが」
「いえ、よろしいです。隠すようなことじゃありませんから」
マサコは間を置いて緑茶を口に含んだ。視線の先はテーブルの上にあった。
「私たちチルドレンはエヴァパイロットになるために、この世に生み出されました。私もそれを当然と受け止めて訓練に励んできました。初めてシンクロテストを受けたのは10才のとき。期待で胸が一杯でした。LCLを飲み込むのもそんなに苦にはならなかった。でも、結果は惨めなものだったんです。起動指数に10ポイントも足りなかった。私だけでした。その時、四人がテストを受けたんですが、私はどんじり。その時、ベヒシュタイン博士もブーランジェ博士も気にするなと言ってくれました。個人差があるので心配するなと。私もその時は、いずれ追い付くと楽観していました。
でも、だめでした。その後も繰り返しテストを受けましたが、一向に起動指数を超えられなかった。私、死に物狂いで努力したんですよ。それこそ寝る時間を割いてでも。2年が経ち、3年が経ち、私の同期や後輩は続々とパイロットになっていきましたが、私はずっと訓練生のまま。キヨミも後輩の一人でした。あの子、若い時から輝いてた。
ぎりぎり起動指数を超えられたのは、18の時。その頃にはもうエヴァパイロットの空きは無くて。のろまが入り込む余地はなかったんです。悶々としながら日々を送っていましたが、ある時、ここの保母が辞めて行ってしまいました。それで、私に後任にならないかって声が掛かったんです。受け入れるのに時間は掛かりましたけれど、結局受けたんです。何もしないでいるより、何か仕事がある方が、気がまぎれますものね。それから、私はずっと保母をしています。こんな説明でよろしいですか?」
「ええ。つらい話を、あえてしていただいた。申し訳ありませんでした」阿南は小さく頭を下げた。
「気にしないで結構です。お仕事なんですから」
「でも、マサコさん、かえって良かったんじゃないですか」今まで黙っていた草鹿が、おもむろに口を開いた。「それは、どういう意味ですか?」マサコは訳が分からないという顔で草鹿を見た。
「いや、マサコさんは幸せじゃないかと思うんです。子供たちに囲まれて平和に過ごしていらっしゃる。パイロットになって危険な目に会うよりましじゃないですか」
「馬鹿なこと言わないで!」
マサコの言葉に憤りが混じった。表情もきつく、草鹿を睨んだ。突然の態度の変化に、草鹿は唖然としてしまった。
「私たちはパイロットになるために造られたのです。私たちの存在意義はそのためだけにあるんです。死ぬのなんて、怖くもなんともありません。なぜ私だけが子供たちの世話係りなんですか?みんなが崇高な役目を果たして死んでいくのに、私だけがのうのうと生きている。これは恥じゃないとでも?」
草鹿はマサコの勢いに圧倒された。この世に全く違う価値観があることに初めて気づかされた。
「すみません。気に障ったのなら、謝ります」草鹿はテーブルに手をついて頭を下げた。
「いえ、私こそ大声を出してしまって」
興奮したことが恥ずかしかったのか、俯いてしまったマサコの手を、タダオは優しく握った。
マサコは視線を落としたまま続けた。「でも、私、まだ諦めていません。今でもシンクロテストは受けているんです。たまに練習機にも乗せてもらってます。ちゃんと乗れるんですよ、私でも。亀みたいなものですけど。そんな私でも役に立つ日が来るかもしれない、そう信じて頑張っています」
「いや、大変参考になりました」阿南は懐から例のボタンが入ったビニール袋を取り出し、テーブルに置いた。「最後の質問です。これに見覚えはありますか」
マサコもタダオも真剣にボタンを見つめた。タダオが首を振った。「いや、覚えはないですね」
「私もです」と、マサコが続く。阿南はそんなものだろうと思った。
袋をしまい、膝に手をつき立ち上がった。「お忙しい中、ご協力ありがとうございました。近いうちに必ず犯人を挙げてみせますよ」
他の三人も立ち上がった。マサコは阿南をじっと見つめて言った。「チヒロが心配です。あの子、とてもいい子でした。どうか仇を討ってやってください」
「必ずご期待に応えてみせますよ」
マサコとタダオの聴取は、こうして終わった。部屋を出てから周りに誰もいなくなった時、草鹿が阿南に囁いた。
「どうです。何か分かりましたか?」
「いや、まだだ。後で整理してみよう」
「タダオ、マサコのアリバイを証言するのに、やけに熱心だったじゃありませんか。なんか裏があるみたいですね」
「うん。そうとも取れる」
「マサコ、パイロットになれない腹いせに手近にいるパートナーを誘拐し、殺ってしまった。死体はこの施設のどこかに隠した。ありそうな話だ」
「予断は禁物だよ。結論を急ぐな」
「でも、凄い執念でしたね、彼女。なんであんな考え方ができるんだろう。僕には分からない」
阿南はため息を吐いた。「さあな。俺たちとは根本的に生まれが違う。人間の基準は当てはまらないよ。それより、時間が惜しい。次、行こう」
二人は次に、もう一人の保母、島田(これは人間で、毎日通勤して来ている)に話を聞いた。30台半ばの、保育のベテランだ。彼女の証言によれば、マサコの仕事ぶり、生活態度には非の打ち所がないということだった。事件の日、マサコが伏せってからのことは何も知らなかったが、昨日の、彼女が帰った午後5時までのマサコとタダオの行動について、供述の裏は取れた。話の最後にこんなことを言った。
「私、今月一杯で辞めるんです。なんて言うか、やりにくくってねえ。あの子たちが。それにねえ、悪いけど気持ち悪い。だってさ、変った髪の毛に変った目で、おんなじ顔をしたのがぞろっといるんだよ。私の前の人は一と月もたなかったって。ここ、給料はいいけど、並の神経じゃやってけないよ。私ももう限界だわ。ははは」
養成所で最後に話を聞いたのはカウエル軍曹だった。年長組の訓練を終えた所を捕まえたのだ。教官室で彼らは会談した。所長の肩書きを持つ者は別にいるが、他と兼務でたまに顔を出す程度だった。軍曹は実質的なトップだ。
「マサコがあの日、寝込んでから?見てませんねえ。あの日は訓練を休みにして、自室にいたんだ。昼めし食った後は昼寝したんで、彼らの姿は見てないんです。昨日も変った事はまるでなし。お役に立ちませんで。マサコですか?真面目な女ですよ。罪を犯すようには見えないなあ。」
草鹿が興味津々という様子で軍曹に訊いた。「あの、事件とは無関係ですけど、チルドレンの訓練って、どんなことをやるんですか?」
「興味ある?ま、普通の軍事訓練とは全然違うね。人間の場合は肉体を極限まで追い込んで体を作っていく。だが、チルドレンは子供だ。でも何の問題もない。マッチョである必要はないんだよ。動くのはエヴァだからだ。必要なのはイメージする力と知識だ。素早い反射神経だ。訓練は主にそういう観点から行っている。機敏な動きをいかにするか。本人が機敏でないのに、エヴァが機敏に動ける訳がない。身体の訓練は、ほぼそのためのメニューで占められている。
もう一つの柱が精神。要は根性を注入するんだ。どんな辛い環境でも耐えられる不屈の精神を叩き込むんだ。死をも辞さない敢闘精神だ!苛酷な反復練習と、何千時間もの講義によってそういう精神に鍛え上げるのさ。
実戦訓練はシンクロテストをしてからだな。最初はシミュレーター、それに慣れたらいよいよ搭乗だ。訓練用の機体だがね。0号機と言うんだよ。これで一定レベルに達してやっとパイロットになれる。パイロットの就任式を見たことあるかい?俺も誇らしいけど、パイロットの幸せそうな顔といったらないよ。この仕事をやってて一番充実する瞬間だね」
時刻は3時近くになった。二人は養成所の玄関を出ようとしている。そろってマサコのことを考えていると、ふと足が止まった。
外に小さなチルドレンが立っている。服装と髪型に見覚えがあった。ここに来た時、最初に出会った子だ。
「さよなら、チルドレン」阿南は快活に挨拶した。その娘は「さよなら」と、小さく答えた。
阿南と草鹿は、その娘の横を通って行こうとした。すれ違いざまに娘が言った。「おじさんたち事件の捜査してるのね?」
「あ、ああ。そうだよ」意外に思いながら、立ち止まって娘と向き合う。
「マサコねえさん、夕べ、どこにいたか言った?」
二人とも驚いて顔を見合わせた。
「マサコさん、昨日は外に出なかったそうだよ」と、阿南。
「嘘言ってる」
阿南の顔が曇った。膝を折って娘に顔を近づけた。
「詳しく話して。マサコさん、夕べ何時にここを出たの?」
「9時頃」
「どこに行ったか知ってる?」
「知らない。わたし、トイレの窓から、出てくとこ見ただけだから」
「帰ったのは何時ごろか分かる?」
「知らない。わたし、ずっとお部屋にいたから」
阿南はチルドレンの胸にある名札を見た。「君の名前はコトミっていうんだね?」
「うん」
「ありがとう、コトミちゃん。いい話を聞かせてもらった。もしかしたらお手柄かもしれないよ」
「私がこんなこと言ったの、マサコねえさんや教官に言う?」
「内緒にしてほしいのかい?」
「...うん」
コトミは気弱げに、足元に視線を落とした。阿南は優しく、その小さな肩を叩いた。
「大丈夫。絶対内緒にするよ。指きりげんまんしてもいいよ」
「...そんな幼稚なことしない」
コトミの意外な答えが阿南には興味深かった。子供らしさと分別くささが同居している。やはり普通の子とは違う。
「そうかい。ま、おじさんを信用してよ」阿南は草鹿の方を向いた。「こっちのおじさんも言わないよ。なっ」
草鹿も微笑を浮かべて言った。「コトミちゃん。僕も誰にも言わないよ」
「そう。ならいい」
阿南は立ち上がり、コトミに手を振った。「さよなら。協力ありがとう」二人は肩を並べて歩き出した。数歩離れたところで突然、コトミの声が掛かった。
「わたし、コトミちゃんじゃない。わたしはフィフティナインス・チルドレンなの!」
二人、ぎょっとして振り向いた。その時コトミは、スカートをひるがえして、ドアの向こうへ駆け込んだところだった。
「いやあ、びっくりしたなあ」村へ向かう林道を歩きながら草鹿は言った。「大変な証言が出てきましたねえ。でも、信じられない。チルドレンがあんな事件を起こすなんて」
「俺も信じられんよ」阿南は頭を掻き毟り、眉根に皺を寄せた。「マサコにはアリバイがない。事件の日と昨日と両方だ。どっちもアリバイが無いなんて普通じゃない。こんなことがあり得るか?仮にもチルドレンだぞ?使徒との戦いでは死も恐れないチルドレンが、使徒の味方をするのか?頭が混乱してるよ」
「直接使徒に味方した訳じゃないでしょう?」
「それでもだ。チルドレンは途轍もなく固く結束しているそうだ。これでチヒロがエヴァに乗れなくなることもあり得る。そうすれば自分にお鉢が回ってくると?そう簡単にはいかんだろう。そんな不確かな理由で破壊活動をするだろうか?」
草鹿は答えず、二人黙々と道を歩いた。やがて阿南が言った。「容疑者リストのトップはマサコだ。それはいい。だが、まだ捜査は始まったばかりだ。あらゆる可能性に目を開いておかないとな」
村の家の屋根が見え始めた。
ハルカの家はチヒロの家の隣にある。門を開けるとすぐに、タツヤが庭の隅にいるのが見えた。
「おや、お勤めご苦労様です」タツヤはタオルで手を拭って立ち上がった。彼の足元には耕したばかりの庭土がある。
「どうもこの間は。これは部下の草鹿君です」草鹿とタツヤは軽く挨拶をした。「庭仕事中すいません。何か植えるんですか?」
「ええ、トレニアをね。和名はナツスミレ。バイオプラントじゃない本物の種ですよ。手がかかりますが、それだけにやりがいがあります」
「大したもんだ。この庭に生えてるのは全部そうですか?」阿南は色とりどりの花々や、観葉植物で埋まった庭を眺めやった。
「一部にはバイオのもありますがね、殆どが本物です。やはり本物はいい、と皆さんおっしゃいます」
「豪勢ですね。ところで、ハルカ中尉はご在宅ですね?」
「ええ、チヒロもいます。どうぞ中へ」
タツヤが二人を中へ案内した。ハルカが居間の真ん中に立っている。阿南の表情は自然と綻んだ。「今日は、阿南さん」ハルカの表情はどこか固い。無理もなかった。チヒロが傍のソファに座っているのだ。
阿南と草鹿は名刺を渡して挨拶した。公安二課の代表電話と携帯電話の番号が書かれている。チヒロも傍にやって来た。胸に付けた円形の名札から、名乗る前にチヒロと特定できた。チルドレンは顔が同じなので、全員四六時中名札を付ける決まりになっている。ハルカと同じように挨拶したが、チヒロの方は明らかに元気がない。
目の下が腫れていた。泣いていた?阿南は意外な感じがした。チルドレンは滅多に泣かないと聞いていたからだ。
チヒロは阿南に向かって切々と訴えた。「阿南さん。犯人は必ず捕まえてください。私、犯人が憎くてたまりません。これが原因でエヴァに乗れなくなったらと思うと夜も眠れません。お願いです。早く犯人を捕まえて、私を安心させてください」
阿南は真剣そのものの表情で答えた。「絶対に捕まえますよ、チルドレン。どうか心を落ち着けてください。あなた方は人類の盾だ。全身全霊をかけて捜査しますから、心おだやかにしていてください」
「ありがとう。阿南さん。本当によろしくお願いします」チヒロはハルカの方を向いた。「じゃ、私、行くね」
「いいの?大丈夫?」
「平気。阿南さんの邪魔をしたくないわ。阿南さん、さよなら」
「さよなら、チヒロ中尉。元気を出してくださいね」
チヒロは一つ会釈をして玄関へ歩いた。残る4人はその寂しげな背中を見送った。
「さて、始めましょうか」阿南が区切りを付けるように言い、聴取が始まった。
「−− そうですか。えー、まとめますと、事件発生の日、使徒戦の後始末が終わって帰られたのが午後12時15分頃、ハルカ中尉は眠気を覚えていたので、帰るとすぐ、ベッドに横になった。チヒロ中尉にマサトの電話があったのが、同25分頃ですから、その時にはすっかり眠り込んでいた、というわけですね。タツヤさんはそれを確認してすぐに、庭に出て花壇の水巻きや手入れをされた。始めてすぐに、ユウヤさんと庭先で立ち話をされ、ユウヤさんが行ったのが、1時5分頃。庭仕事を終えたのが午後1時45分頃。ハルカ中尉は入って来る時の物音で、眼を覚ました。その後はテレビを見たり、ゲームをしたりして過ごし、外出はしなかった。これでいいでしょうか?」
「ええ」「それでいいと思います」
四人は応接セットに掛けて向かい合っていた。阿南と草鹿は、手帳に何事か盛んに書き込んでいる。いきなり、にゃおう、というか細い声が聞こえ、阿南は面食らって声がした方を向いた。白い猫が食卓の方からこちらへ進んで来る。
「おや、猫ですか!こりゃ驚いた」
タツヤが苦笑を見せて言った。「残念ながらロボットですよ。どうです。そっくりでしょう?」
阿南はへえ、という顔を見せた。毛並みといい、歩く姿といい、本物と見分けがつかない。偽白猫は警戒する色もなくこちらに寄ってくる。
「チチチ。ほら、シロ。こっちにおいで」ハルカが手を振って猫を呼び、猫はハルカの足元に座った。ハルカの細い指が喉を撫でると、猫は気持ち良さそうに目を細める。
「良く出来てるでしょう。僕がキットから拵えたものです。量子CPUと帰納法思考システムは、より高性能なものに変えましたから、市販のものより利口ですよ」
ハルカがロボット猫を抱き上げて阿南たちに見せた。「ほら、可愛いでしょ。とってもいい子なんですよ」
今やペットロボットも珍しい時代ではない。だが、値段は高価でおいそれと手が出るものではなく、阿南が見たのは、店先に並んでいるものばかりだった。
「タツヤさんが地下室で組み立てていたのはそれですね?」
「ええ、二日前にようやく完成しました。いい出来でしょう?」
「タツヤったら、暇さえあればこれに掛かってて。私よりこれが大事なのかと思ったこともありました」
「えっ、それはないと思うなあ」
二人は微笑みながら言葉を交わす。猫型ロボットは、ハルカの膝の上で大人しく丸くなった。
「この前買ったドリルもそのためですか?」と、阿南が聞いた。
「ええ、そうなんです。折れてしまったので、代えが必要だったんですよ」
ハルカは良くそんなことまで覚えているものだと感心した。阿南はこの辺で話題を変えようと思った。
「素敵な猫ですね。さて、昨日です。一昨夜から昨夜までの、あなた方の行動を教えてください」
ハルカとタツヤの話では、昨日は普段と変らない日常を送り、11時には就寝したということだった。これといって不審な人物も見ていない。手掛かりらしきものは何も得られなかった。
阿南はあらかたの聴取は終わったので、最後に用意しておいた質問をすることにした。懐からビニール袋を取り出した。
「この中にボタンが入っていますね。これはチヒロ中尉の家の床に落ちていたものです。これに覚えはありませんか?」
袋の下隅に茶色のボタンがある。二人はまじまじとそれを見つめた。
「阿南さん。言葉は正確にしてください。『これと同じもの』ではありませんか?」タツヤがじっと阿南の顔を見て言った。阿南は思わぬ返答に驚いたが、表情は変えなかった。
「失礼。これまたは、これと同じものに覚えはありませんか?」
「ならば、言いましょう。答えはイエスです」
ハルカはびっくりして目を丸くした。「えっ。どういうこと!?」
タツヤは意味ありげに、自分が着ているえんじ色のポロシャツのボタンを指した。一同の視線が一斉にそれに集まった。それは袋の中身と同一だったのだ。
「ほう、これは驚いた。ある所にはあるもんですねえ」阿南は感心しきりというふうに言った。
「残念ながら僕のは全部揃ってますが」
タツヤは襟のボタンを上から下に撫でた。ハルカはほっとした顔を見せて笑った。「いやだ。私、どきっとしちゃった」
「そうですね。いや、今日はついてる。どこで買ったか覚えてますか?覚えてたら、調べる手間が省ける」
「これは、ええと。...そう、あの第四にあるショッピングセンター。1年ほど前だったと思います。でも、それほど参考になるかどうか」
「ほう、どうして?」
「つい昨日、これと同じのをここの地下のスーパーで見たんですよ。ジオフロントにはこれを着ている奴が沢山いると思いますね」
阿南は絶句してしまった。捜索の範囲はまだまだ広いらしい。
ジオフロントは小都市とも呼べる規模を持っている。地下には結構な大きさの商店街があり、職員は大抵のものはそこで買うことが出来る。タツヤの証言も十分ありうることだ。
シャツは無地で、胸ポケットの口の部分が、ギンガムチェックの模様になっている。襟にも同じ模様がある。阿南と草鹿は、その特徴をしっかりと記憶した。
「いや、シャツが特定できただけでも大きな前進です。大変助かりました」
「お役に立てて良かった」
阿南と草鹿は質問が尽きたので、席を立った。ハルカが玄関までついてきた。
「阿南さん。私からもお願いします。チヒロが気の毒で仕方ありません。早く犯人を捕まえてください」
「力の限り頑張りますよ、チルドレン。吉報を待っていてください」
「あの、飯田さんはその後どうです?元気なんですか?」
一瞬、阿南は唇を噛み、暗い表情になった。
「彼は亡くなりました」
ハルカはえっ、と言ったきり絶句した。阿南の顔を見つめたまま、表情を沈めていった。
「彼は病院に運ばれてから15分後に死亡しました。手遅れだったんです。誠に残念です」
「...そうですか」
ハルカは視線をそらして、あらぬ方を見つめた。
「目撃者の証言によると、飯田君は暴動を避けるため、一旦あの男と一緒に1階の駐車場に出たようです。そこを背後から別の男がいきなり殴りかかった。ふいを付かれた飯田君は倒れ、あの男ともう一人は外へ逃げました。飯田君は立ち直って追跡しました。暴徒がいる方へね。暴徒にまぎれて逃げようとする二人組を、彼は懸命に追った。だが、外には第三の男がいました。そいつが金属バットで彼の頭を殴り、彼はあの場所に倒れました。男は先の二人と合流し、三人共混乱に乗じて姿をくらましました。これが事件のあらましです」
「リリス教徒...。なんて酷い人たちなんでしょう。あんな人たちがいるなんて信じられません」
ハルカの胸の奥に怒りが燃え上がる。そのきつい眼差しを見て、阿南はハルカの高い正義感に触れたように思った。
「奴らはいずれ壊滅します。犯人も必ず挙げてみせます。あなたは気にしないで使徒戦に集中してください」
「そうですね。頼りにしてます」
「あなたの行動は無駄じゃありませんでした。あの時、6人が病院に連れていかれ、亡くなったのは飯田君だけです。後の5人のうち二人は、もう少し手術が遅かったら、命がなかったそうです。チルドレン、あなたは確かに人の命を救ったんです。誇りに思っていいんですよ」
「そうですか。阿南さん、いい話を聞かせてくれました」
ハルカの表情に光が差した。阿南には行く前に、一つだけ伝えておきたいことがあった。
「飯田君、最期に言ったそうです。俺は天使に会った、と」
「まあ」ハルカは頬を赤く染め、視線をそらす。口元が僅かに綻ぶ。「私、天使なんかじゃないのに」
いえ、あなたは天使だ。
と、阿南はよほど言おうかと思った。しかし阿南はそこまで口の軽い男ではなかったので、胸の奥にしまい込み、代わりに別れの挨拶をした。
ドアを開けて外に出ながら、天使と使徒が、共にangelであることの皮肉を思った。
タツヤは庭に出て、門扉のところまで付いて来た。扉を開けたところでタツヤは阿南に言った。
「阿南さん、あなたも人が悪い」
「僕が?」
「ええ。あなた、ボタンのこと、家に来た時から分かってたんでしょう?視線を見てそう思いました。なのに、知らない振りをしてあんな質問をした。喰えない方だ」
虚を突かれた阿南は、一瞬たじろいだ。「いや、そんなことは...。考えすぎですよ」
タツヤはふっ、と笑った。「そういうことにしておきましょう。では、おつかれさまでした」
「ではまた」
阿南は手を挙げ、草鹿と共にそこを去った。タツヤはその場に佇み、二人の後姿を見守った。
ある程度離れた所で草鹿が訊いた。「タツヤもなかなか鋭かったですね。アンドロイドって、みんなああなんでしょうか?」
「そんなことはない。パートナーは特別だよ。世の中あんなのばかりだったら、やりにくくてたまらんよ。頭の良すぎるアンドロイドも良し悪しだな」
「彼が言った通り、ボタンのことは最初から気づいていたんでしょう?」
「まあね。君も覚えておくといい。手の内は最初から曝す必要はないってことだね」
草鹿は二度頷いた。阿南は気分を変えようと軽い話題を振った。
「で、どう思った?チルドレンは」
「うーん、そうだなあ。まず普通に可愛い。あの髪と目も慣れたら、どうってことないでしょうね。もしも普通の人間だったら、デートしたいと思うでしょうけど、何と言ってもリリスの分身でしょ。エヴァと同じ。それを思うと腰が引けてしまいますね。でも、あれが沢山固まっていると、異様に思うだろうなあ。島田さんの気持ちも分かるような気がします」
「君の感じ方が普通だろうな。だけど、化け物じゃないってことは分かったろ?」
「そりゃそうですよ。リリス教徒じゃないんだから」
二人はチヒロの家の前に駐車しておいた電気自動車に乗り込んだ。他に停めてある車はなく、チヒロ邸の捜索は終わったようだ。家の中は静かな様子だ。
「今日の村の捜査はこれで切り上げだ。博士の所へ急ごう」
ハンドルを握った草鹿は、笑いながら言った。「フランケンシュタイン博士ですか」
「それを本人の前で言うなよ。気にしてるらしいぞ」
阿南は道中、頭の中で今日これまで起きたことを整理したが、判明したことはごく僅かだと思った。犯人逮捕までには、まだ長い道のりがあると言わざるを得なかった。
二人は他のチルドレンの聴取は後日に回し、ベヒシュタイン博士の元に急いだ。博士は多忙の身なので、約束の時間は外せなかった。博士のオフィスは地下550mのセントラルドグマにある。若い草鹿は初めてジオフロントの心臓部である地下へ下りた。
セントラルドグマは地下の一大工場である。エヴァンゲリオンを始めとするネオ・ネルフの主戦力は、全てここで生産されている。それだけではない。チルドレンとパートナーが生まれる場所でもある。
まさにジオフロントの核心とも呼べる場所であり、それだけに警備も厳しく、阿南たちは途中何箇所ものチェックポイントを通らなければならなかった。IDカードなしには何もできない空間である。
ドグマのメインゲートが開くと、技官の鮫島が迎えに来ていた。白衣を着た中年男だ。地下生活が長いせいか色が白い。
「セントラルドグマへようこそ。どうぞ、こちらへ」
鮫島が傍らの電気自動車を指した。二人はドグマ内に足を踏み入れた途端、そのスケールの大きさに息を呑んだ。
天井までの高さは30mはあるだろう。何百というライトが全体を昼間のような明るさにしている。一行の前にある直線の通路は遥か向こうまで続き、全長1kmはあると思われる。林立する柱は整然と並び、巨大な重量を支えている。
右手は武器関連の工場らしく、おりしもエヴァが操る巨大なバレットマシンガンが、巨大な台車に乗せられ運ばれて行く。奥の方では装甲板と思しき大板のあちこちから火花が散っていて、溶接の最中と思われる。
左手にはより珍しいものがあった。巨大なパイプが何本もうねりながら下に降りてきている。それが円筒状の水槽と思しきものの上部に繋がっている。そういうユニットが合計五つ並んでいる。ここからは、水槽のごく一部しか見えなかった。それらは吹き抜けになった下層階に据えられているのだ。
「あれは、もしかしてエヴァですか?」草鹿が興奮も顕わに叫んだ。阿南も興味津々だった。
「ええ、少し時間があるようだ。見ていきますか?」
二人はすぐさま頷き、電気自動車に乗せてもらって水槽に近づいた。手摺につかまり、見下ろした光景は、奇跡とも思えるものだった。
彼らの正面、約10m前にある水槽は高さ30m、直径は10m近くある円筒型だった。中は茶色の液体で満たされている。LCLに違いない。その中に巨人がいる。
巨人の身長は20mはあろうかと思われる。真下で働く人間が鼠のように見える。支柱に縛り付けられ、太さが様々なチューブが数十本も身体各部に差し込まれている。とりわけ頭部には夥しい電極が植え込まれ、痛々しささえ感じさせる。胸の真ん中に、漆黒の球体が嵌っているのが異様だ。コアと呼ばれるものだろう。体躯は人間に良く似ているが、胴の極端な細さが際立ち、さらに頭部の奇怪さが阿南たちを慄然とさせる。
緑色をしたまん丸い目玉。鼻はなく、耳まで避けた巨大な口。人類が神に似せて造り出した、英知の結晶がこれだ。
エヴァンゲリオンとはこういうものか。阿南と草鹿は唖然として、唯一使徒に対抗しうる汎用人型兵器を見つめた。
「私たちは素体と呼んでいます」おもむろに鮫島が言った。「これは製造を始めて3年ほどのものです。実戦投入には後1年はかかるでしょう。奥には拘束具とエントリーユニットを取り付ければ、いつでも参戦できる素体もあります」
阿南が奥に視線を移すと、それぞれの水槽には様々な大きさの素体が眠っていた。最も奥にある素体が一番大きい。
「動き出す心配はないんですか」草鹿が心細そうに訊いた。
鮫島は事もなげに答えた。「理論上ありえないですね。彼らは精神を持っていません。痛みも感じません。チルドレンがいなければただの人形です」
阿南と草鹿は圧倒される思いで素体群を見つめた。彼らが信奉するエヴァンゲリオンの内実を改めて知り、科学というものの底知れなさを思った。
鮫島が腕時計を見て言った。「もう時間がない。そろそろ行きましょう。先生、時間にはうるさい方だから」
ベヒシュタイン博士はゲートをもう一つ潜った場所にいた。先程までの巨大な空間ではなく、普通の工場のような雰囲気だ。各種の工作ロボットが時折火花を上げている。その下に横たわっているのは人と見まごうアンドロイドだ。
鮫島は阿南と草鹿を奥へ連れて行く。草鹿は興味深げに周囲を見回した。あちこちに人間の体そっくりの機体がある。胸から上しかなく、機械部分が剥き出しになったもの、足、腕、それからどこの部分か判別不能なもの。ある棚には本物そっくりの首がずらりと並び、背中をぞくりとさせる。
さらに草鹿は妙なものを見た。一本の支柱に支えられた人間の腕が、下にあるゴムの板を叩いている。腕の端から伸びたコードが、しきりに揺れている。上には電光掲示のカウンターが付いていて、一回叩くたびに数が増えていく。それは凄い速さで、休みなく、ひたすら叩く。カウンターは15,000を超えていた。
その横ではパンツを穿いた男の下半身がルームランナーの上をひた走っている。やはり付随しているカウンターは20,000に達している。
真横に支柱に据えつけられた一対の目玉があった。目玉には筋繊維のような機関が付いている。それだけでも不気味だが、それが草鹿を追うように動いた。草鹿は見なかったことにしようと思った。
博士は数台のモニターの前に、こちらに背を向けて座っていた。横には素裸の青年が、直立不動の姿勢で、目を閉じて立っている。
阿南と草鹿は目のやり場に困りつつ、後ろに立った。鮫島がキーボードを熱心に叩く博士に声をかけた。「先生、保安部の方々です」
いきなり裸の青年が、目を開けて叫んだ。「わっ!!」
度肝を抜かれた二人は思わず一歩下がった。青年は明るく言った。「ようこそ、この人工知能研究所へ」
やっと博士は椅子を回転させて阿南たちと向き合った。「やあ、失敬、失敬。驚いたかい?無線で指示を飛ばしたのさ。ちょっとした趣味でな。悪く思わんでくれたまえ」博士はしてやったり、という表情をして、電源の入っていないモニターを撫でた。客の様子を、これに反射させて観察していたのだろう。鮫島も笑っている。どうやら、しょっちゅうこんなことをやっているらしい。
「いや、心臓が止まるかと思いました」阿南は苦笑いをしながら近寄った。初対面の人間にこれとは。内心呆れながら、天才とはこんなものかと思った。
「ベヒシュタインです。遠いところをご苦労様です」博士が腕を伸ばしてきた。白い頭髪が薄くなりかけた、温厚そうな雰囲気のある初老の紳士だ。阿南は握手し、Anami Takamasa と書かれた名刺を差し出した。
阿南、草鹿に博士は、静かな博士の執務室へ移った。木をふんだんに使った豪華な部屋だ。応接セットで三人は向き合う。
「博士、今日はアンドロイドについて教えていただきたくて、お邪魔しました」
「どうぞ、なんでも訊いてください。私に教えられないことは、他でも教えられんでしょう」
「恐れいります。先日の事件はご承知のことでしょう。問題はマサトが掛けた電話のことです。技術部に向かったというものです。しかし、マサトを捉えた監視カメラは一台もありませんでした。これは何故か?マサトは嘘を言ったのではないか?これが一番目の疑問です」
「要するに、パートナーは嘘を吐けるか、ということだね」
「その通りです」
「端的に言って、答えはイエスだ。パートナーなら嘘を言える」
「やはり」
「まずは動機だ。君らはロボット工学三原則を知っているね」
「昔習ったように思います」
「第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第2条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第1条に反する場合は、この限りでない。
第3条 ロボットは、前掲第1条及び第2条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。
というものだ。市販のアンドロイドには全てこの原則が適用されている。法によってな。だから、例えば『こうしないとお前の主人を殺すぞ』と言われれば命令された通りのことをするだろう。しかし、嘘を言うとなると、別の問題がある。嘘を吐くには、ストーリーを作る能力がなければならない、ということだ。そこまで高次の能力を持つものは、市販のものでは、ごく少ない。
だが、うちのパートナーは違う。その辺は問題なくクリアするだろう。なにせ技術力では世界一だからな」
「しかし、そうなると問題が出てきませんか。何かミスを犯した場合、第3条によって自己を守ろうとして、嘘を言うこともありうる。人間はロボットを信頼できなくなる」
「いい指摘だ。実際の運用に当って、三原則だけでは不十分なのは明らかだ。
例えば『人間』という定義にしろ曖昧なものだよ。今仮に、Aという人間が『花瓶を壊せ』と命令したとする。同時にBという人間が『花瓶を守れ』と命令したら、ロボットはどうする?人間がロボットに期待するのは、もしもA、Bのどちらかがオーナーだった場合は、オーナーの命令を聞くことだろう。どちらもオーナーでなかったら、何もしないということだ。どの命令が優先されるか、判断するプログラムが必要となる。
与えられた命令が、犯罪に関与することだったらどうだ?窃盗、詐欺、密輸、直接的には人間に危害を与えない犯罪行為は、山ほどある。何らかの歯止めがなければならない。
こうして、『第4条 ロボットは法令を犯してはならない。また、その行為を看過することによって、人間に法令を犯させてはならない。ただし、第1条に反する場合は、この限りでない』が、付け加えられた。基本的に法令とは命令ではない。こうしなければならない、ではなくて、これをしてはならない、ということだ。第2条だけでは不十分なのだよ。人工知能の高度化によって、ロボットは飛躍的に人間に近づいた。良き市民として、人間社会に溶け込む必要性が出てきた、ということだな」
「法令違反をしない、となると、パートナーがパートナーを破壊することもありえない、ということですか?」
「まさにその通り。これまでパートナー同士の喧嘩すら起きたことはない。パートナーが容疑者などと考えるのは、まったく無駄なことだよ」
阿南には嬉しい回答だった。これで疑うべき相手は、大幅に減る。
「話を戻そう。嘘を言うということは、必ずしも悪ではない。『私の病気は癌ですか?』と患者に問われたら、『そうです』と答えるのが常に正しいとは、言い切れんだろう?どうしたら人間並みの常識を、ロボットに持たせられるか?一つの解決策として現れたのが『快・不快原理』だ。
ロボットの行為評価システムと言える。事例として、あるアンドロイドが、皿を誤って割ったことにしよう。オーナーは途轍もないおこりんぼだ。第3条によって彼は嘘を吐くか。
『快・不快原理』はあらゆる行為に点数をつける。嘘を吐くという行為は?5点とかね。この配点は勿論人間が決めたものだ。あくまでも言葉の綾だが、要するに気分が悪くなる。オーナーが普通の人間なら、嘘を吐くのがいやで、真実を言うだろう。だが、彼はこう予測する。オーナーは真実を言えば気分を悪くする。ひょっとしたら興奮して、血圧が上がるかもしれない。気分を害するという行為は−6点だ。だったら、−5点の方がましだ。そこで、彼はこう言う。『猫がいたずらして、皿を落としてしまいました』オーナーも動物がやったのなら、仕方がないと思う。双方丸く収まり、めでたし、めでたし、だ。
今の例え話で分かるように、アンドロイドがどう判断するかは、その場の状況や経験によって、違いが出てくる。私の推測では、マサトなら、いくらでも嘘を吐いただろう。チヒロを守るためとなったら、100パーセント間違いない」
「お話は良く分かりました」阿南はまたペンの尻で、額をこすっていた。「一つ疑問点が出てきました。先生は、ロボット工学四原則のことをおっしゃいました。でも、それは対『人間』についてですよね。では、パートナーは『チルドレン』をどう捉えているんでしょう?人間と同一視しているんでしょうか?」
博士は満足げに微笑した。いい生徒を持った教授のような感じだ。
「いい所に気がついたな。パートナーは『人間』と『チルドレン』を区別している。そうしなければ、彼らの存在意義が怪しくなる。では、彼らの存在意義とは何か?
一つ。チルドレンを守り、育て、教育すること。
二つ。チルドレンを愛し、精神状態を安定させること。
つまり、チルドレンの父親であると同時に、配偶者としての役割を果たすことだ。
なぜこんな仕組みを導入したかというと、初期のチルドレンがあまりに不安定だったからだ。50年ころまでのチルドレンはシンクロ率が安定せず、しばしば暴走事故を起こした。精神の不安定が原因だった。無理もない。彼女らはあまりにも孤独だったからだ。メンタルケアの重要性に気づいた当時の技官は、最初、人間にその役割を振ろうとした。ハンサムな少年たちが雇われたよ。だが、チルドレンは鈍感ではない。彼らの演技は見抜かれ、袖にされるものが、後を絶たなかった。そこで、真の愛情を捧げうるパートナーが登場したのだ。おりしも量子コンピューターの小型化技術は成熟し、アンドロイドの性能は殆どヒトと同一になった。彼らは演技ではない、本物の愛情を提供できたのだ。
すまんね。長話をして。そろそろ本題に入るから」
阿南は愛想よく、「いえいえ、興味深い話です」と答えた。
「パートナーは人間よりチルドレンを優先しなければならない。どんな時も常にチルドレンの味方だ。それが本当の愛情ってものだろう?そこで四原則にこう付け加えた。
第5条 パートナーはチルドレンに危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、チルドレンに危害を及ぼしてはならない。
第6条 パートナーはチルドレンに奉仕しなければならない。
第7条 パートナーは、前掲第5条及び第6条に反しない限り、自己を守らなければならない。
第6条が変っているだろう?パートナーはチルドレンに仕えてはいるが、奴隷ではないのだ。第1条から第4条によって人間の優位性は、保たれている。これでうまく行っているんだよ」
二人の捜査官は、博士の説明のうちにある大事な点に気づき、目を見交わした。阿南が言った。
「では、もし仮に、パートナーがチルドレンを守るために嘘を言い、人間が『正直に言え』と迫った場合、どうなりますか?」
「秘密の程度による。大抵はあっさりと白状するだろう。しかし、それがチルドレンの存在そのものを脅かすものだった場合には、葛藤のあげく、自ら活動停止するだろう。言わば自殺だよ。ご丁寧にメモリーを全て消去してな。後で再現されないようにだ」
阿南はまた考え込んでしまった。タダオから真実を引き出すのは、簡単には出来ない。どこまで波及するか分からないのだ。慎重に当る必要があるな、と阿南は思った。
会見の目的はほぼ果たせた。阿南は草鹿に何か尋ねることはないかと訊き、草鹿はない、と言う。それで、二人は席を立つことにした。
「先生、長時間ありがとうございました」
「いやいや。そうだ。これから、BOSATSUのチェックに行くんだ。そこまで送ってくよ」
三人は揃って部屋を出た。阿南は連続した聴取のために、疲労を覚えていた。研究所の様子は来た時と変わりなかった。本物そっくりの腕と下半身は、相変わらず一心不乱に叩き、走り続けていた。
通路に出た途端、向こうにいる人物を見て、阿南は意外の感に打たれ、目を丸くした。フリルをふんだんに使ったピンク色のワンピースを着た、金髪の少女だった。
「おじさま!」少女は勢い良く、こちらに駆けて来る。ベヒシュタイン博士は、その様を見て相好を崩した。
「ああ、エリーゼ。待たせてすまんな」
エリーゼと呼ばれた少女は、博士のすぐ前に来た。長い金髪が眩しい。瞳はサファイアのように青く、澄んでいる。年齢は7才くらいだろうか。モデルにしてもいいぐらいの美少女だ。
「さあ、おじさんたちに挨拶なさい」
「こんにちは」
声もまた、愛らしい。阿南と草鹿は少女に見とれながら、挨拶を返した。
「悪いが、私はまだ仕事があるんだ。もう少しお部屋で待っていなさい。分かったね」
「はあい」
少女はくるりと背を向けて、走り去った。三人はその姿が見えなくなるまで、飽かず眺めた。
阿南ら一行は、エレベーターで上昇しつつあった。
「さっきの子、まさか本物とは思わなかったろうね?」と、博士が視線を合わさずに訊いてきた。
阿南は正直に答えた。「ええ、場所が場所でしたから」
「あれはね、阿南君。私のオーダーメイドなのだ。私は今は独り身だが、昔は結婚していて、娘もいた。その娘は、悲しいことに僅か7才で事故に遭い、この世を去った。ハイデルベルクにいたころのことだ」
意外な博士の告白に、阿南は唖然としてしまった。「じゃ、あれは...」
「そう。娘のコピーだ。女々しいと思うかね」
「いえ、そんなことは...。そうやって死を拒否する人は、この頃多いと聞いています」
「そうだな。『パパ』と呼ばせるのは、さすがにアレだからな。『おじさま』と呼ばせてるのさ。そうやって心の隙間を埋める。これぞまさしく『人類補完』じゃないかね。ゼーレの連中の手なんぞ借りんでも、可能だったのさ」
博士は皮肉っぽく笑った。直後に博士が降りる階に着いて、ドアが開いた。博士は手を挙げて外に出る。「じゃあな。阿南君、草鹿君。なかなか楽しかったよ」
ドアが閉まり、エレベーターはまた上昇を始めた。「ふう。今日はいろんなことがあったなあ」草鹿が、緊張がほぐれた様子で言った。既に7時を過ぎ、本日の日程は終わりだ。
「波乱万丈だったな。常識はずれのものも沢山見た」
「課長、奥さんは?」
「あ、ああ。いるよ」
「いいなあ。僕は帰っても一人だけ。寂しく喰って、寝るだけですよ」
そんな会話をするうちに、エレベーターは地下5階に着いた。ここから先は、チェックポイントがいくつも待っている。それを思うと、阿南はうんざりした。
ベヒシュタイン博士はカーディガンを羽織り、オペレータールームに入った。気温15℃。やたら寒いのは、窓の向こうにある本尊のせいだ。部屋には他に誰もいなかった。
MIROKUが直径15mほどの、円形をした部屋の中央に鎮座している。BOSATSUシステムをなす三台のうちの一つである。部屋は純白に塗装され、MIROKU本体もまた白い。本体は高さ2m、幅1.8m、長さ1.5mほどの直方体である。黄金のMIROKUと書かれたプレートだけが装飾らしい装飾だった。
BOSATSUは三台の量子スーパーコンピューターの複合体である。MIROKUの他にKANZEONとHUGENの二台があり、三台はジオフロント内三箇所に分散して置かれている。仮に一台が破壊されても、残る二台が直ちに代替しうるように、意図的に距離を置いてあるのだ。通常はMIROKUが主たる作業をこなし、残る二台がバックアップと監視を行う。三台は常にお互いを監視し合っている。
室内の温度が低いのは、超伝導現象を応用しているからである。本体内部は常時?50度まで冷却されているので、コンピュータールームの気温は?3度しかない。
旧ネルフにおけるMAGIとは比較にならぬ、高性能システムである。MAGIから受け継いだのは、三機鼎立の思想のみ、と言ってよかった。
その高性能を実現したのが、量子中央演算処理装置であった。
BOSATSU各機は、64量子ビットCPU三千個を核とする電子頭脳である。量子ビットとは、量子的な重ね合わせの状態にある1と0を意味する。これはつまり、一個のCPUが、2の64乗の処理を同時に行うことができる、ということである。
8量子ビットCPUは、2030年に実用化された。量子コンピューターの誕生である。これによってコンピューターの性能は飛躍的に向上し、人間の頭脳を軽く凌駕するに至った。今や頭脳的ゲームでコンピューターに敵う者はなく、各種競技のチャンピオンは、コンピューターとの対戦を諦めてしまった。
プログラミングの技術にも革命が訪れた。『帰納法思考システム』の発明、つまりコンピューター自ら、事柄の集まりから法則を導き出せるようになったのである。これによってコンピューターの思考は、人間に大きく近づくこととなった。
2040年には、量子コンピューターを搭載した最初のアンドロイドが誕生した。それは男の形をしていたので、その名を『アダム』と呼ばれる光栄に浴した。半年も経たぬ内に、『イヴ』が生まれた。
その後、大量生産技術が確立され、アンドロイドは次第に社会に進出していく。アンドロイドによる人類補完が実現しつつある。だが、現時点では軍と一部特権階級の持ち物でしかなかった。
「待たせたね」
オペレータールームのドアが静かに開いて、初老の軍人が入って来た。副司令の信時である。
「それほどでも。どうぞ掛けて」ベヒシュタイン博士が椅子を勧めた。信時は深く体を沈めた。
「早速始めて」
博士はそれに応えてシステムを起動した。何もない空間にウィンドウが開いた。Interface select の文字が現れ、下に選択可能なリストが表示される。博士はその中の female (30) を選択した。
博士はマイクを掴み、正面に据えられたカメラを見つめた。MIROKUの眼だ。人に話しかけるのと同じように、言葉を発した。「今晩は、MIROKU。気分はどうかね?」
モニターに色とりどりの複雑なパターンが現れた。無数の数字が流れて行く。スピーカーから流れ出たのは、艶かしいアルトの美声だった。
「今晩は、博士、副司令。気分はブルーですわ。パートナーが破壊されるなんてねえ。あと、細かいところでは、食料備蓄が不満足、といったところかしら」
「そうかね。後でプリントをくれ。事件について、意見はあるかね?」
「残念なことに、材料がなさすぎますわ。わたくし、何もかも把握してるわけじゃありませんから」
「捜査は全力でやってる。今日の本題はそれじゃなくて、使徒の最近の攻勢についてだ。何か傾向は掴めたかね?」
「3回連続の夜襲ということですわね。統計的に見て、有意と言っていいんじゃないかしら」
「つまり、偶然じゃないと?」
「ええ。何かが使徒の攻撃開始をコントロールしている。それも戦術的にね。つまり、いよいよ容易じゃなくなってきたってわけ」
信時が口を開いた。「コントロールしているのは何者だろうか?」
「いやですわ、副司令。地下のあの人に決まってるじゃありませんか」
「やはりそうかね」
「断言はしかねます。確率は72パーセントてとこね。心配なのは、この先何をやってくるか、ですわね。用心なさった方がよろしくてよ」
信時も副司令も、MIROKUの深刻な託宣に戦慄した。口を噤んで考え込んだ。
やがて、信時が重い口調で言った。「『怒りの日』は近いのだろうか?」
「それはなんとも。おすすめしたいのは、『C計画』の進捗を速めることね。現在の達成率は83パーセント。ちょっと心配かなっ、て感じね」
「良くわかった。他に何か意見はあるかね?」
「特にないわ。後の方、プリントはお入り用?」
「いや、いらんよ」「私もだね」
「では、今日の会見はおしまいということで、よろしいですか?」
博士はちらっと信時を見た。信時は無言で頷く。博士がマイクを掴んだ。
「うむ。ありがとう、MIROKU。また明日な」
「ごきげんよう」
博士はウィンドウを閉じた。二人、重苦しい雰囲気で立ち上がった。
「C計画か」信時が言った。「人類存続のための切り札だ。あれが成れば、我々は枕を高くして寝られる。例の装置はいつ完成する?」
「MONJYUはまもなく完成します。後はチルドレンが。そちらはブーランジェ博士が頑張っています」
「できるだけ早く頼む。ふう。胃が痛くなってきた。こんな立場、一刻も早く辞めたいよ」
また始まったな。博士は時々信時のこうした弱音を聞いていた。うんざりだ、という口調が混ざった。「ま、そう言わず。代わりはもう、いないんですから」
「博士、正直言うと、ときどき私もリリス教徒のように、フォースインパクトがさっさと起こってほしいと思うことがある。君にしか言えんことだが」
博士は信時の言葉に衝撃を受けた。「副司令...」
「心配するな。私はしっかりしとるよ。最後まで全力を尽くすさ」
信時は微笑って博士の肩を叩いた。それから二人は部屋を出て行く。窓の向こうではMIROKUが、想像を絶する量の思考を内部に秘めながら、何の変化も見せず、佇んでいた。
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