リリスの子ら

間部瀬博士

第8話

 マサコの重大な告白に、阿南は血相を変えた。

「なんだって!」

「すみません、阿南さん。私、自分のことばかり考えて...」

 マサコはまたおどおどとして伏目になる。阿南はマサコを睨むのを止め、興奮を静めて手帳を取り出した。落ち着いた口調でマサコを促す。

「最初から話してください。省略しないで。気づいたことはなんでも」

「はい」マサコは木の幹に背中を預け、告白を始めた。阿南はペンライトを取り出し口に咥え、手帳に記録していく。

「6月14日の11時半頃に私、副司令の家を出ました。その時は遅めだったんです。今日と同じルートを通って養成所に向いました。途中、ずっと前の方に懐中電灯の明りが揺れているのに気づきました」

「それはどこで?場所は分かりますか?」

「ええと。分かると思います。大分戻りますよ」

 二人はマサコの先導で再び森の中を歩いた。10分ほど戻ったところでマサコは辺りの様子を見回した。ある切り株を見つけ、そこに駆け寄った。

「そう、これがあった。ここです、阿南さん。ここから見たんです」

「どっちの方向?」

「向こうです」とマサコは木々の間に広がる暗闇を指差した。

「あそこに光を見つけました。私、いけないと思い懐中電灯を消して、屈みました。向こうはそのままそこで何かしているようでした。光がゆらゆらしてましたから。こっちには気づかなかったんでしょう」

 阿南はマサコが指差した方向をじっと眺めた。今いる位置から考えて、マサトの遺骸が遺棄された地点と矛盾していない。阿南は思わず呻いた。

「それは何時頃ですか?」

「11時45分ぐらいだと思います。私、なんだろうと思い、明りを下に向けて近づいたんです」

 マサコが歩き出した。阿南はその背後についた。マサコはある杉の木の前で止まった。前方にうっすらと舗装道路が見えた。

「私、この木に身を隠して前を窺いました。間もなく光が動き出しました。それは道の方に真っ直ぐ向かってきます。私、明りを消してじっと様子を見守りました。そしてとうとう見てしまったんです。あの男の姿を」

 阿南は興奮を隠さずマサコを問い詰めた。

「それは身長はどのぐらい?顔は見ましたか?何か特徴は?」

「身長は180cmぐらい。顔は暗くて見えませんでした。男は道に入ると向こうへ去って行きました」マサコは養成所へ向う方向を指差した。

 その場から道路までの距離は20m以上開いている。顔の判別がつかなかったのは無理もないと阿南は思った。

「男と判断した理由は?」

「ズボンと上着が見えましたから」

「何か持ってはいませんでしたか?」

「懐中電灯の他は何も」

「服装を覚えている限り言ってみてください」

「下はジーンズ、上は黒のジャンバーです」

「どうしてそれと分かりました?光はどこから?」

「電灯の先から光が洩れて、手元が明るくなってました」

 これも重要な情報だった。犯人が持つ懐中電灯の種類が絞られる。

「そのジャンバーが...。阿南さん、何か字が書いてあったと思うんです」

 阿南の目が光った。

「それは、どんな?印象でも構わない」

「白い文字でした。それが胸にこう、横一文字に」マサコは自分の胸を指指し、横にすべらせた。

「アルファベットだったように思います。でも、何と書いてあったかは思い出せないんです。一瞬のことでしたし」

「思い出すよう努力してください」

「はい。ただ、最後の1字だけは記憶に残っています」

「それは?」

「X」

 阿南はマサコに懐中電灯を持たせて、聞き知った事実を書き込んだ。Xの文字は殊更大きく記した。

「それからあなたはどうしました?」

「男の姿が見えなくなるまでじっとしていました。姿が消えてから急いで帰りました」

「養成所に着いたのは何時?」

「12時5分頃です。ですから10分ぐらい道草をしたことになります」

「ありがとう、マサコさん」

 阿南は最後の証言を書きとめて、マサコの顔を見つめた。マサコは視線を下にそらした。

「このことは副司令やタダオさんに言いましたか?」

「いいえ。今日までずっと自分の胸に収めてきました」

 深いため息が阿南の口から洩れた。教師に叱られる女生徒のような風情のマサコを見て、彼は同情を覚えた。悩み多かったこの女も苦しんだのだろう。しかし言うべきことは言っておかねばならない。

「マサコさん。あなたは自分のしたことを自覚しなくちゃいけない。あなたは自分の立場を守るために捜査を妨害したんだ。副司令のことは言い訳にならない。最初に話してくれていれば、もしかしたら今頃犯人は捕まっていたかもしれない。せめてチヒロが手術を受ける前だったら良かった。今じゃ公式には捜査できなくなっているんだ。あなたの沈黙がどんなに犯人を有利にしたか、考えてみてください」

「すみません。私って、ほんとに馬鹿...」

 また、マサコの目から涙が零れた。阿南はやれやれと思いながらハンカチを差し出した。マサコはそれに顔を埋め、しばらく無言でいた。彼としては黙って見守るしかなかった。

「...ごめんなさい。もう平気です」やっとマサコは顔を上げ、阿南にハンカチを返した。

「私、もうどうなっても構いません。これからは正直に生きます。私にできることなら何でもします」

「いや、良く言ってくれました」

 そう言って阿南は思考に沈んだ。ペンの尻で額を掻いた。この重要証言をどう生かしたらいいのか。捜査に制限のある現状では大々的なことはできない。マサコは今後どうなる?コトミを始めとするチルドレンはどう思うか?複雑な難題だと思った。だが、答えを出すには時刻が遅すぎる。

 手帳を閉じて阿南は言った。「マサコさん、今日はもう遅い。明日、ゆっくり考えます。今日は帰ってください。明日またお話しします」

「阿南さん、私、どうなるんでしょうか」マサコの顔は不安で曇っていた。

「ぼくはできるだけあなたの味方になってあげたい。しかし、もうぼくの一存で処理できる問題ではなくなりました。明日、上司に全部報告します。それから全ては動いていく。ぼくとしては、あなたの名誉を守る方向でいきたいと思います。あなたじゃなく、コトミや他のチルドレンのためにね。ですが、上がどう判断するか何とも言えません。その辺は承知しておいてください」

「ああ、阿南さん。どうかお願いします」マサコは阿南の手を両手で握り締めた。阿南の頬に赤みが差した。目の前にマサコの美貌がある。惹き込まれそうな感覚を覚えながら視線をそらした。

「さあ、もう帰らなきゃ。タダオが心配してますよ」

 阿南とマサコはようやく夜の森から家へ帰ることになった。阿南は養成所までマサコを送る。途中、マサコはまた阿南の耳をそば立たせることを言った。

「私、あれと同じジャンバーをどこかで見たような気がするんです。それがいつ、どこでだったか何とも言えません。今日まで、それを思い出そうと努力はしているんですが、どうしても思い出せません」

「思い出すよう全力で努めてください。罪ほろぼしのためにね」

 時計の針はとっくに午前零時を回っていた。阿南は疲れを覚えていたが、脳のほうは冴えていた。

 養成所の前でマサコは何度も頭を下げた。阿南の中で彼女に対する同情は強まった。守れるものなら守ってやりたいと思う。そうとも、チルドレンはあんなに人類を守ってくれたじゃないか。

 物思いに耽りながら、阿南は空洞部にある宿舎への帰り道を急いだ。ふと帰ってもシズコがいないことを思い出し、僅かな寂しさを覚えた。

 相沢保安部次長は、向かい側に座った阿南に渋い顔を見せた。狭い室内にいるのはこの二人だけだ。

「まったく、お前さんも変人だよな。好奇心に駆られて備品を無断で使いくさった。その結果、重要証言を掴んだんだから、責任は問わないけどな。だけど、これからどう動くよ。副司令、隠密捜査。頭がいたいよ。しかし、せっかく掴んだ情報だ。生かす道を考えないとな」

 対面する阿南は前の夜、結局2時間しか眠れなかった。目頭をこすりながら答えた。

「夕べはその件が頭にこびりついて、よく眠れませんでした。朝方、ぼくなりに考えたことは二つ。まず副司令のこと」

「うん。どういう風にしたい?」

「副司令の耳に入れる必要はあるでしょう。保安部長経由がいい。あのマサコ関連の捜査中止命令を出したのは実質、副司令だ。捜査情報も流れた。これで悪しき干渉を断ち切れる」

「加えてスキャンダルもか。あのひひおやじ、いい年してからに」

 相沢は嬉しそうに笑った。権力を嵩にきてうまい汁を吸った奴に鉄槌を加えるのは、いつの世でも愉快なことだ。

「国連にまで訴えるのはこの際、得策ではないと思われます。何だかんだ言っても副司令は仕事を忠実に果たしている。今交替させられるのは組織にとってメリットが少ない。しかし、ぼくらは副司令の首根っこを押えた。ぼくらにデメリットはありません」

「取引きしようってことだな。ふっ。公安らしい考え方だ。だけど阿南よ。君は副司令の恨みを買うぞ。君の将来が不安にならんか」

「全然。メールの記録がある。ジオフロント内部の通信は全て地下にあるサーバーが管理している。ぼくは朝一番でそいつを押えさせました。捜査の名目でね。興味深いメールが出てきました。そのプリントアウトは、ぼくが極秘の場所に保管しました。これを国連本部やネットに流してもいい。副司令も晩節を汚したいとは思わないでしょう」

 相沢はまん丸い目で阿南を見た。「あきれた奴だな、お前は。今朝からごそごそやっていたのはそれか。まったく、お前さんを敵に回したくないよ」

「お褒めの言葉をどうも。次に捜査のことです。次長、上層部はエヴァの運用を優先して、事件をなかったことにしました。おかげで公開捜査はできない。だったら逆をいけばいいんです」

「逆とは?」

「事件を作り出そうってことですよ!」

 

 

 次の日、ジオフロントはまたも緊張のさなかにあった。前夜、怪しいスパイらしき男が、森を巡回する警備員に発見されたというのだ。その男は警備員に気づき逃亡する際、鍵開けの道具一式を落としていったので、スパイの疑いは濃厚だった。男の逃げ足は速く、必死に追う警備員を振り切り逃げ去った。警備員は男の服装だけは記憶していた。

「ジーンズに黒のジャンバー。胸にははっきりしないが字が書かれていました。最後の字だけは覚えています。それはXでした」

 勢い立った保安部員たちは一斉に黒のジャンバーと懐中電灯について聞き込みを始めた。瞬く間に黒のジャンバーは有名になった。皆口々に黒のジャンバーについて、噂話をするのだった。ハルカもタツヤにその話を聞かせ、夕食の席での会話はスパイの話題一色となった。

 村は例によって阿南と草鹿の担当となった。事件発生から二日目、彼らは電気自動車に乗り、村に向っている。

「それにしても副司令もやるもんだ。老いてますます盛ん、ですか。部長の話を聞いた時の顔、見たかったですね。悔しかっただろうなあ」

 草鹿は保安部が雲上人の鼻を明かしたことに上機嫌だった。阿南の方は渋い顔つきでいる。

「滅多なことを喋るな。真相を知る者はごくごく少数だ。君はおれの相棒だから話した。今後も機密厳守を貫け」

「分かってますよ。もう言いません、はい」草鹿は口のところでチャックを引く仕草をした。

 村が近づく。阿南の中で期待が高まる。またハルカに会えるかも知れない。

 彼らは端から一軒ずつ訊いて回った。阿南にとって生憎なことに、この日はチヒロを除くパイロット全員参加の演習が組まれていて、パートナーにしか話が聞けなかった。尤も、今回の質問は是非ともパイロットにしなければならない類いのものではないので、阿南に不満はなかった。これといった情報も出て来ない。大体、外界から切り離され、気温がほぼ一定のジオフロントにおいて、ジャンバーを着るのは夜間以外にない。砂漠地帯であるこの地域は、夜になると急速に冷え込み、その影響でジオフロント内部も気温が低くなるからだ。

 時間の経過も無視できない。事件から既に5ヶ月近くが経ち、記憶が薄くなるのも当然だった。阿南は直接的に黒いジャンバーを持っているか、まで訊いたが、そういう家はなかった。

 むなしい作業を繰り返した阿南と草鹿はようやくハルカの家に着いた。庭は完璧に整備され、多くの草花が目を楽しませる。初めて訪れた時に植えていたナツスミレも、今では白地に小さくピンクの模様をあしらった可憐な花を咲き誇らせている。

 タツヤがにこやかに迎えたが、ハルカは当然不在だ。阿南は内心残念に思いながら家に入り、タツヤに質問した。

「黒いジャンバーを着た男ですか。ううん、見たことないですね。ぼくの知る限り、そういうのを着ているのはいない。お役に立ちませんで」

「お宅にその手のジャンバーは?」

「ないです。青いのならありますが、それも滅多に着ない。夜、外出することは殆どないですからね」

「あなたがたも寒さを感じるわけだ」

「そうです。ぼくらが体内温度を一定に維持するために有用な機能ですよ。保温すればそれだけエネルギーを節約できる」

「懐中電灯はありますか?」

「あります。見ますか?」

「よければ持って来てください」

 タツヤは食器棚の引き出しから小ぶりの懐中電灯を取り出し、阿南に渡した。

 銀色をしたそれは、発光部分が完全にカバーされていて、光が前にしか出ない型だった。彼はちらっと見ただけでタツヤに返した。

 ここも収獲なし。阿南は話題を変えた。

「チヒロの様子はどう?マサトは上手くやっているようだろうか?」

 タツヤは声を落とした。

「今までのところ、問題は起きてないように見えます。チヒロも生き生きしてましたよ」

 チヒロはこの日退院したばかりだった。今頃は久しぶりに帰った自宅で羽を伸ばしているはずだ。

「君らもこれから大変だな」

「いえ、大したことじゃ。ぼくらはそういうの、人間以上に上手くやれますから」

 矛盾を起こさない完璧な計算と擬態の能力。タツヤの言うことも尤もだと阿南は思った。

 タツヤは微かに顔を曇らせた。

「ただし、マサトは大変だと思います。彼にはチヒロより長い記憶の空白がある。そこから綻びが出なければいいんですが。本当に危ないのはチルドレンですよ。ぼくらアンドロイドのような対応はできません。心配です」

 それは阿南も同意見だった。この後はチヒロの家だ。彼の緊張は高まった。

 危機の訪れは早かった。

 チヒロは毛糸の帽子を被った頭をマサトの胸に擦りつけて、甘えた声を出した。両腕はマサトの胴に巻きついていた。二人はソファに座り、密着している。

「ねえ、私、帰ったよ。今夜は何をする?」

「何って?君は何がしたい?」

「ほら、あなた言ったじゃない。最後の出撃の日、別れ際に」

「ぼくが?どんなこと?」

「んもう!『続きは今晩』って言ったでしょ」

 チヒロはいたずらっぽくマサトを睨んだ。

「あ、ああ、そうだった。そんなことを言ったね。随分経ったから、忘れていた」

「私にはほんの十日前のことよ。何よ。いつも頭脳明晰なマサトさんらしくないわね」

「ぼくはそんなに完璧じゃないよ。忘れることも沢山あるさ」

「だめよお。私と長いお別れをした瞬間のことでしょ。愛情が足りないぞ」

「ごめんよ。でも、良く帰ってこれたね。お帰り、チヒロ」

「ただいま」

 二人の唇が接近し、熱い接吻に入った。散光塔から下ってくる陽光の中、二つのシルエットが重なった。

 互いにこの家では久方ぶりの接吻だった。だが、彼らの感覚では、十数日ぶりの行為に過ぎなかった。そしてチヒロがこの時味わっている唇は、前と同じものではなかった。

 ドアホンの金属的な音が二人の陶酔を醒ました。マサトはチヒロを放して立ち上がり、時計を見た。

「いけない。保安部の人たちが来る時間だ。君もちゃんとして」

 マサトは手櫛で頭を撫で付けた。チヒロは座り直し、着衣の乱れをチェックする。間を置いてマサトが玄関のドアを開けた。阿南のにこやかな顔があった。

「今日は、保安部の者です。お話を伺いたくてお邪魔しました。チヒロさんもご在宅ですね」

「ええ、どうぞ。お待ちしてました」

 二人の保安部員が中に入った。チヒロも間近に立った。

「初めまして、フォーティサードチルドレン。私は保安部公安二課の阿南です」

 阿南は名刺を差し出し、チヒロは受取った。

「今日は、阿南さん。お仕事ご苦労さまです」

「どうも初めまして。ぼくはマサト。チヒロのパートナーです」マサトは阿南と軽く握手を交わした。

「ぼくは同じく公安二課の草鹿です。どうぞよろしく」

 草鹿も名刺を渡した。チヒロは挨拶を返し、二人を応接セットに案内した。

 会見は一見何気なく始まった。だが、チヒロの前に座った阿南と草鹿は早や緊張の中にいた。

「今日、お伺いしたのは一昨日の侵入未遂事件についてです。噂話とかはもう聞きましたか?」

「ええ、私、今日退院したばかりなんですけど、昨日病院の看護婦さんから聞きました。スパイが森まで侵入するなんて、信じられない話ですね。私、警備をもっと厳重にしてもらいたいと思います。チルドレンを襲うテロだってあり得るってことですからね」

「まさにその通りです。警備課によると、警備員の数をもっと増やすそうです。森を囲うフェンスも出来ることになりました。今後は大丈夫だと思いますよ」

「早くそうしてもらいたいです」

「で、男の服装ですが、黒いジャンバーを着てたらしい。マサトさん、そういう格好の人物に記憶はありませんか?」

「いいえ、記憶にないですね。そもそもジャンバーを着た人間自体、このジオフロントじゃ珍しい。昼間着ていたら相当目立つでしょう」

「そうですね。ぼくの推測では夜間、目立たないように黒いものを着込んだんじゃないかと。チヒロ中尉はどうです」

 チヒロは苦笑いを見せた。

「私、5ヶ月間寝てましたから」

「いや、もっと以前にでもそういうジャンバーを見たことがあるかどうか。胸に字の入った」

「うーん。ないですねえ。...あ、そう言えば、...でも、関係ないか」

 阿南の目が光った。

「何ですか?つまらないことでもいいから言ってみてください。どこに手掛かりがあるか分かりませんから」

「いえ、ジャンバーを着たのなら、去年、チルドレンで花火大会をやったときにいたような気もするって。それだけなんですけど」

「去年?夜に?どこでやったんですか?」

「あれは8月、養成所の校庭にみんな集まって盛大にやったんですよ。子供たちも入れて。大騒ぎしたわよね」

「うん、確かにありましたよ」と、マサトが口を挟んだ。

「そうだ。遅くなってきたら肌寒さを感じたのを覚えている。ここは夜、冷え込みますからね。ジャンバーを着たのもいたかもしれない」

 阿南は一応手帳にメモをした。

「花火大会か。さぞ楽しかったでしょう。その時、チルドレン以外の人物はいなかったですか?」

「沢山いました。保母さんや教官。あと作戦部や技術部からも何人か。そうそう、ベヒシュタイン博士もいました」

 大物の名前が出たので、阿南は意外に思った。あの博士は花火も好きなのか。案外エリーゼも一緒だったかも。

 阿南は昨年の話をこれ以上しても無駄と思い、話題を変えることにした。

「さて、進みましょう。お宅にはジャンバーは?」

「うちにはないですね。寒いときにはカーディガンを着ますから」

「中尉も同意見ですか?」

 チヒロは何を聞くのかと不思議に思った。

「ええ、勿論。マサトが言うんなら間違いないです」

「パートナーの服装には、あまり関心がない?」

「そうじゃなくて、私長いこと植物だったんですから」

「ああ、そうですね。いや、失礼しました」

「もう。しっかりしてくださいよ」

 草鹿は隣で頭を掻いている阿南の大胆さに驚いていた。よくそんな微妙なところを突けるものだ。当の阿南は平然として次に進んだ。

「お宅も懐中電灯はありますよね?」

「勿論置いています」

 見せてほしいと頼んだ阿南のために、マサトはすぐさま取ってきた。それは、阿南の興味を引くものだった。

 半透明のボディをしたその先端部は、後ろ側も光るようになっていたのだ。

 この発見をどう評価したものか、阿南は判断しかねた。よりによって被害者宅から出てきた。このことが意味することは何か?じっくり考えようと思いながら、阿南は光を消してマサトに返した。

「なかなかいいものですね。これ、どのぐらい使いました?」

「そうですね...」間が入り、阿南はどきりとした。記憶の空白に踏み込む、迂闊な質問をしたことに気づいたのだ。

「比較的最近買ったものですから、使っても1度か2度といったところですね」

 マサトの表情に変化はないが、阿南は極度の緊張の只中にいた。横目でチヒロの様子を伺う。だが、チヒロが何かに感づいたようには見えない。とりあえずはセーフのようだ。

 ところがチヒロは妙な違和感を抱いていた。マサトにしては回答が曖昧に過ぎる。先程の会話で、マサトが肝心なことを忘れていたことも気になる。記憶装置は正常に作動しているのだろうか?じっくり観察する必要があると思い始めていた。

 背中に冷や汗をかきながら、阿南はもう聴取を締めようと思った。早目にこの場を去りたかった。

「貴重なお話をありがとうございました。退院早々の中尉を疲れさせてもいけませんから、そろそろおいとまします」

 阿南と草鹿は立ち上がり、短く挨拶をして家を出た。後ろでドアが閉まった瞬間、阿南はふう、と息を吐いた。草鹿もほっとした顔をした。

 回りにはハルカの家同様、草花が豊富にある。阿南はそこで愕然とした。一軒前に見た庭との落差に気づいたのだ。枯れた花がそのままになっている。雑草もあちこちに生えている。あまり手が掛けられていないことは確かだ。この家の庭は明らかに荒廃しかけているのだ。

 これが暴露のきっかけにならなければ、と阿南は思った。チヒロは庭仕事を好むようには見えない。その結果がこれだが、マサトが手入れをさぼったことを、チヒロはどう考えるだろう。

 これ以外にも罠はおそらく無数にある。

 阿南はいずれチヒロが欺瞞を知る日が来ることを確信した。それは早いか遅いか。チヒロのためにその日がずっと先であることを彼は祈りながら、家を後にした。

 チヒロは阿南らが置いていった名刺を取って、飾り棚の引き出しを開けた。いつも名刺をしまっておく場所だ。と、その中を見たチヒロの動作が止まり、引き出しの中をまじまじと見入った。

「どうしたの?」異変に気づいたマサトが近寄った。

「ここにも名刺がある」

 チヒロは引き出しの中から二枚の名刺を取り出し、手の中のそれらと見比べた。

 Anami Takamasa Kusaka Kouitirou 

 同一の名刺が二組手元にある。

「あの人たち、前にも来たのね」

「ああ、そうだよ」マサトは何気なく答えた。

「あなた、『初めまして』って言ったわ。あの人たちも」

 マサトは答えに詰まった。

「それに、まだ名刺がある」チヒロは手の中の名刺を置き、もう数枚の名刺を取り出した。

「保安部次長、警備課長、警備主任、警備課、警備課...。なんでこんなに沢山、保安部関係の人が来たの?」

 量子コンピューターの超高速演算をもってしても、反応を返すのに約1.2秒かかった。

「ああ、言い忘れてたけど、昨日警備の人たちが大勢で来てね、家の中を見て行った。最近は物騒だから、変なものを仕掛けられていないか点検したのさ。何もなかった。あの二人は時間帯をずらしてやって来た。その時、ぼくは買物に出ていて不在だったので、連絡をくれと書いたメモと名刺を置いていったんだ。メモは捨てた。それでこうして名刺は二組になったんだ。彼らとぼくが会うのは実際初めてだったんだよ」

「ああ、そうなの」チヒロは笑顔になった。

「すっごい不思議に思ったの。何かタイムトラベルもののSFみたいな感じ。訳を聞いてみると、不思議でもなんでもないわね」

「怪異譚なんて、解き明かせばそんなものさ」

 マサトは動揺のかけらも見せず、この場面を凌ぎきった。この後、保安部には口裏合わせを依頼する電話が入った。相沢の指示で、すみやかに保安部員全員に通達がなされた。

 

 

 コトミはフェースガードの奥から対峙するミユの動きをじっと観察していた。ミユが構えるエアーソフトの短剣は先端が小刻みに動き、コトミの隙を絶えず狙っているようである。一方、コトミは同じエアーソフトの長剣を片手に持ち、静止の状態からカウンターを繰り出そうと待ち構えている。

 両者の持つ得物が違うのは、体格的、年齢的な差を縮めようと、ハンデを与えるためである。スポーツチャンバラ独特の試合形態だ。既にコトミはミユの足を打ち、一本先取していた。もう一本コトミが取ればコトミに凱歌が上がる。

 コトミは僅かに腕をずらし、剣の角度を変えた。その刹那、体育館に鋭い叫び声が響いた。ミユは床を蹴り、コトミの小手めがけて短剣を走らせた。

 それはコトミが予想した動きだった。一瞬早く腕を振り上げ、短剣に空を切らせると、がら空きになったミユの面に素早く長剣を打ち下ろした。

「めーん!!」コトミの長剣が強かにミユのヘルメットを叩く。

「一本!」教官の岡島がさっと右手を上げた。

 両者は開始位置に戻り、礼をした。7才のコトミが10才のミユに勝った。見学していた他のチルドレンが一斉に手を叩いた。

「どうもありがと」ミユがフェースガードを取って、コトミに右手を差し出した。コトミは満足げに微笑して握り返した。

 コトミはジャージ姿のチルドレンの一団に混ざった。

「コトミ、3連勝。やったね」一つ上の子が笑いかけ、コトミはピースサインをしてみせた。座りこんで防具を外し、汗を拭くうち、鐘の音が響いた。今日の授業の終わりを告げる音。後は楽しい夕食と自由時間だ。

 体育館のドアが開いてマサコが入って来た。コトミはなんだろうと思い、マサコを眺めた。

「あーみんな。これで今日の訓練は終わる。その前にマサコさんから話があるそうだ。みんな大人しく聞くように」

 岡島がチルドレンに向って言い、マサコは横一列に並ぶチルドレンの前に進み出た。コトミはなぜかその表情に、いつもとは違う余裕のようなものが漂っているのに気づいた。体育館の真ん中に、マサコは背筋を伸ばして立った。

 マサコは微笑を含みつつ、子供たちに語りかけた。

「みんな。これからするのは私の話なの。私はこれまでエヴァのパイロット訓練生と保母を掛け持ちしていました。それでしばしば保母の仕事を放り出してきました。でも、パイロットにはなれませんでした。そんな生活を8年も続けた。私に変な意地があったからです。なれる見込みもないのにね。みんなには私のわがままのおかげで迷惑を掛けてきました。まず、そのことを謝ります。ごめんなさい」

 マサコは腰を折って深く頭を下げた。

 顔を上げたマサコは続けた。

「でも、もうすっぱりあきらめたの。今日、技術部にそのことを申し入れて受理されました。私、もう訓練生ではありません。でも私、ちっとも悔しくないし、悲しくもありません。別の人生を生きようと思っているからです。すっかり心が入れ替わったのね。今日からは保母に専念して、みんなともっと沢山の時間を共有したいと思います。どうかよろしく」

 再びマサコは頭を下げた。チルドレンは揃って歓声を上げた。体育館はしばし黄色い声で包まれた。コトミの小さな胸にじわじわと感動が拡がった。

 コトミには確信があった。あのおじさんのおかげだ。すべては思い通り。大好きなマサコねえさんは悩みを振り切り、名誉は守られた。わたしの行動は無駄じゃなかった。

 チルドレンは思い思いに引き上げにかかり、遅れてコトミも立った。マサコは優しげに見守っている。防具を用具入れに置いたところで、コトミにマサコの声が掛かった。

「コトミ、後で事務室にいらっしゃい」

 コトミはマサコの顔を振り返って見た。怖い顔はしていない。むしろ慈愛を含んだ表情をしている。コトミは明るく

「はい」と返事をした。

 5分後、コトミは事務室に入った。マサコは一人でいる。コトミはマサコが勧める椅子に掛けた。二人の間の距離は近い。意外と厳しげなマサコの顔が、コトミの体を固くさせた。

「コトミ、あなたに今日は注意を与えます。以前、私たちに内緒でこの部屋に入り、パソコンを勝手に使って、封筒も取っていきましたね。正直に言いなさい」

「...ごめんなさい」

 コトミはしおらしく頭を下げた。マサコは微笑を浮かべた。

「よろしい。今後は二度とあんなことはしないで」

「もうしません」

「それからこれ以上大人の事情に首を突っ込んではだめ。子供は子供の領分を守りなさい。いいですね」

「はい」

「顔を上げて」

 コトミは下げていた頭を上げた。マサコは右手を伸ばし、人差し指でコトミのおでこを弾いた。痛みに、コトミは一瞬目をつぶった。

「これが罰よ。さ、これで何もかも終わり。明日から楽しくやりましょ」

 マサコがコトミを見る目には、感謝と愛情が籠もっていた。

「それから、ありがとう。随分私のことを気に掛けてくれたのね。結局あなたがいたから、私は救われたんだわ。ほんとにありがとう」

 コトミの胸は何か温かいもので満たされた。目の奥に熱いものを感じた。

「あの、ねえさん。抱きついてもいい?」

 マサコは満面の笑みで答えた。

「もちろん。まだ子供じゃないの。子供らしくしていいのよ」

 コトミは席を立ち、マサコの胸に顔を埋めにいった。

 

 

 阿南は地下のミックスゾーンに降りて、第4新東京市に向う電車乗り場へ向けて歩いていた。9時を過ぎたところで、ようやく仕事を片付けて私服に着替え、家に帰るところだ。メインゲートが見えたところで、上着の中の携帯電話が鳴った。

「はい、阿南です」

『もしもし。わたし、コトミです』

 予想外の相手に驚いた阿南は、道の真ん中で立ち止まった。

「チルドレン!いや、驚いた。なんの用だい?」

『あの、お礼を言おうと思って』

「お礼?さあ、なんのことだか。大体この番号をどうして知った?」

『マサコねえさんに聞いたの。他のことも全部。おじさんが何から何まで仕切ったんでしょ。ねえさん、すごく感謝してた』

 阿南はうれし涙を流すマサコの姿を思い出した。本当によく泣く女だった。この日の朝、マサコは阿南から、副司令の件から目撃情報の件まで全て片を付けたと聞かされたのだった。阿南は携帯電話を耳に当てながら、人気のない路地に移動した。

「大したことはしてないさ」

『ううん。おじさんはすごい。わたし、尊敬できるヒトに初めて会った』

「おだてるなよ。照れるだろうが」

『わたしもお礼が言いたいの。どうもありがとう』

「どういたしまして」

『ねえさん、すごく生き生きしてるの。別人になったみたい。おじさん、何か不思議な力を持ってるみたい』

「そんなことない。マサコさんが変ったのは自分の力でだよ。ぼくは、何て言うか、きっかけを作っただけだ。ところで、この際訊いていいかい?」

『なんでも訊いて』

「君はどうやってマサコさんの秘密を知った?スパイキャッチャーとしては是非知りたいな」

『事務室でねえさんとタダオさんがひそひそ話してるのを立ち聞きしたの。わたし、その夜は悔しくて眠れなかった』

「機密保持の仕方がなってなかったな。ええと、それでだ。君はマサコさんが副司令とどんな事をしていたか、理解していたのかい?」

『うん。男と女のすること。生殖行為』

 阿南は生唾を呑んだ。コトミはまだ7才だ。その年でもうそんな事を知っているのか。

「...ふう。ちょっと驚いた。君たちはそんな事をいつごろ覚えるんだ?」

『わたし、2年前にはもう知ってた。ねえさんたちが教えてくれたの。私たち、ヒトがいないところではすごい明け透けな話をしてるの』

 仕方のないことかと阿南は思う。チルドレンの短い平均寿命からすれば、性の芽生えも早く訪れるのが自然ではないのか。丁度昆虫がひと夏の内に燃焼し尽くすように。

「よく分かった。じゃあ、チルドレン。もう会えないかもな。元気でいてくれよ」

『分かった。おじさんも頑張って』

「じゃ、切るよ。おやすみ」

『おやすみ。おじさん』

 電話は切れた。この頃いやなことが多かった阿南は、久しぶりにいい気分になった。ともかく二人の女(その正体などどうでもよかった)を幸福にした。お偉方の悪行をつぶしてやった。軽い鼻唄を歌いながら路地を出て、駅に向った。

「君、阿南君だね」

 後ろからいきなり声が掛かった。阿南はどきりとして歩みを止めた。情事を暴いた当の相手、信時副司令の声だったのだ。阿南は動揺を押し隠しつつ振り向いた。

 立派な将校服に身を包んだ信時の表情は予想に反して柔和だった。阿南はきっちりとした敬礼をした。

「保安部公安二課、阿南であります」

「最近は大変だね。リリス教徒の相手ばかりじゃなく、スパイ探しもだ。頑張ってくれ。期待しとるよ」

「ありがとうございます」

「捜査じゃ、なかなかの活躍ぶりと部長からは聞いておるよ。君、階級は大尉だったか?」

「はい、そうであります」

「いずれ少佐に昇進できよう。楽しみに待っていたまえ」

 この狸め。「はっ。ありがとうございます」

「しかし、君の場合は独断専行の気味があるようだ。何事も組織優先。その辺は自覚したほうがいいな」

「はっ。恐れ入ります」

 終始薄笑いを浮かべる信時を、阿南は不気味に感じた。やはり副司令ともなると只者ではない。早いところこの場から去りたかった。

「じゃあな」最後に信時は阿南の肩を叩いて背中を見せた。その遠ざかる後ろ姿を見ながらため息をついた。直には言わなかったが、言いたかったことは十分分かった。腹芸とはこのことかと阿南は思った。

 村の捜査は結局これといった新情報を齎さなかった。該当するジャンバーを記憶している者はなかった。マサコは記憶を取り戻す努力を続けていたが、成果は得られていない。

 懐中電灯については、ネオ・ネルフ内において全部で15本の該当する型が発見された。捜査情報では犯人が持つ懐中電灯の特徴まで明かしていないから、隠されたとは考えにくい。これら15本の持ち主が容疑者として浮かび上がった。保安部員たちは早速内偵を始めたが、アリバイが成立した者も多く、その数が減るのも速かった。

 一時大きく膨らんだ阿南の期待に反し、いくらも経たぬうちに捜査は又も行き詰った。

 

 

 チヒロは真剣な表情で裸体をプラグスーツの中に入れた。これから復活以来初めてのシンクロテストが始まる。長い眠りがシンクロ率にどう影響するのか、技術部でも予想できていなかった。チヒロにしてみれば普段と変らぬテストを受けるだけのことだが、技術部が不安がるので、どうかしたらシンクロ率が落ちることもあるのかと思う。そういうわけで通常以上に緊張してしまうチヒロである。

 ロッカーの裏側についた鏡に自分の顔が写った。毛糸の帽子を取り去り、すっかり様子の変った頭を見つめる。髪の毛が1cmほどの長さまで伸びたとはいえ、まだみすぼらしさがある。長い髪が自慢だったチヒロには悲しいことだが、生き返ることができた幸せを思えば大したことではない。そうした感想を持ったチヒロは首を横に振り、手首についたボタンを押してプラグスーツを引き絞った。

 隣ではハルカが胸を揺らしながらスーツに足を突っ込んだところだ。その色は前と違い、目に染みるような白だった。

「ハルカ、とうとう白を着るのね」

「あ、うん」ハルカはプラグスーツを腰まで引き上げながら、照れくさそうに笑った。

「計らずもリーダーになっちゃった。なんかプレッシャーを感じちゃう」

 チルドレンのリーダーは、プラグスーツの色は白、乗る機体は同じく白い1号機と決まっていた。スーツの色は伝説のファーストチルドレンが着ていたものに合わせたのだ。ハルカは言わばチルドレンの伝統を引き継いだ。

 すっかり身支度を終えたハルカは、ロッカールームの中央に向って振り向いた。残る7人は既に用意を終えていた。皆の視線が新しいリーダーに集まった。

「じゃ、みんな。行くわよ」

 はい、と皆口を揃えて答えた。ハルカは先頭を切って歩き出した。チヒロがその後に続いた。今回がハルカのリーダーとしての初仕事だった。

 テストルームを見下ろすオペレータールームでは、ブーランジェ博士が腕を組みながらテストの準備が終わるのを待っていた。前では四人の女性オペレーターがモニターを見つめながら機器の調整を行っている。

 中の一人が博士に告げた。

「プラグ、通信回路、記録機、全て準備よし。いつでもオーケーです」

「それじゃ始めて」

 そのオペレーターはマイクに向って言った。

「第1組。テストスタート」続けて博士に向かい補足した。

「まず、ハルカ、チヒロ、ユリコ、ユキエの組です」

 博士は窓際まで歩み寄り、テストルームを見下ろした。今回のシンクロテストは博士にとっても重要だった。あれほどの手間をかけたチヒロが使い物になるかどうか。ベヒシュタインは胸を張ったが、本当にうまくいくのか。理論的には良い結果が出るはずだが。

「お邪魔するよ」

 当のベヒシュタインが急ぎ足で入って来た。

「おお、間に合ったか。良かった。やはり気になってな」

 ベヒシュタインはブーランジェと並んで立った。ブーランジェは皮肉っぽい笑みを見せた。

「あなたが描いた絵ですもの。しっかり結果を見届けなければね」

 四人のチルドレンが姿を見せた。ハルカの純白のスーツと、チヒロの短い頭髪が目立った。ブーランジェはふいにチヒロに対してすべてをぶちまける衝動に駆られた。そこのマイクを通して真実を教えてやるのだ。みんながみんなお前に嘘を吐いているのだ、お前の愛人は前とは別人なのだ、お前に触る指も、舌も、コックも、全て新しく誂えたものなのだ。

 勿論、彼女は冷たい眼差しをチヒロの背中に送るだけだった。チヒロはプラグの内部に足を踏み入れようとしている。ブーランジェがそんなことを考えていようとは誰も思わない。やがてパイロットの姿は全てプラグの中に消えた。

「エントリースタート」オペレーターの乾いた声が室内に響いた。

 数分後、ベヒシュタイン博士の苦労が報われる時が来た。

「...28、29、30、臨界点突破。まだ伸びます。...40突破、...50突破、...59で安定」

 ベヒシュタインは拳を握り、ガッツポーズを決めた。自然と笑みが零れた。コンソールに歩み寄り、マイクを掴んだ。

「チヒロ、聞こえるかい?ベヒシュタインだ。やはり私のチルドレンは素晴らしい。良くやった。シンクロ率59.3%。上出来だよ」

 他の三人のチルドレンが甲高い歓声を上げた。喜びすぎよ、とブーランジェは冷静に考えていた。

「他のみんなも良かったぞ。これでネオ・ネルフは当分安泰だ。さあ、上がって一休みしなさい。ご苦労だった」

 エントリープラグからLCLが排出され、しばらくしてパイロット四人が出てきた。プラグの台座から降り立ったチルドレンはチヒロを中心に集まる。口々におめでとうと声を掛けているようだ。チヒロは苦笑とも取れる笑みを浮かべている。ベヒシュタインは満足げにその様子を眺め、目を細めた。

「うんうん。皆いい子供たちだ。ハルカも白いスーツが似合うよなあ」

 ブーランジェは目立たぬように鼻で笑った。白をなぜ有難がるのか。そもそもあれは死に装束の色ではないか。

 

 

 暦は11月に入ったが、夏ばかりの日本では平均気温が僅かに下がっただけであった。この日、阿南は早めに職場を出てマンションに戻っていた。7時から例の山辺と料理屋でコンタクトを取るためである。彼は居間で新聞を広げて目を通していた。奥の和室ではシズコが衣類にアイロンを掛けている。ごくありふれた日常の光景である。

 シズコの口から小さくハミングがもれ出した。明るく軽快なメロディが室内に漂う。驚いた阿南は、読んでいた新聞から目をそらし、シズコを見た。シズコはワイシャツを広げながら鼻歌を続けている。

「シズコ」

「はい」シズコは手を休め、笑みを浮かべながら阿南を見た。

「君でも鼻歌を歌うことがあるのか?」

「今日、初めてです」

「どうしてそんなことを始めた?」

「うるさいですか?」

「いや、そんなことない。上手だし、いい声だ」

「よかった。嫌がられなくて」

「なあ、なぜなんだ?急に今までにないことをして」

「私の機嫌がいいと、あなたも機嫌が良くなる、そう思ったからです」

 阿南は、意外さと嬉しさを感じながらシズコを見た。アンドロイドが主人を喜ばせるために、自分なりに考えたようだ。

「きっとそうなんだと思いました。過去にあったことを細かく分析してみて」

「そうだ。君の機嫌がいいとぼくも嬉しい」

「やっぱりそうなんですね」

 シズコは白い歯を見せて笑った。阿南は抱きしめたくなるような感覚を覚えた。

 彼ばシズコをあまりにも放置しすぎた。ふと生じた違和感が拡大していき、感情が冷たいものに変わって以降、彼は歩み寄る努力をしなかった。その感情はシズコに伝わり、シズコも表面的な付き合い方をするようになった。あの再起動の一件が彼の態度を変える契機となった。彼はもう一度関係を築き直す努力を始めたのだ。一緒にいるときはできる限り声を掛けた。外出を避けるのを止め、共に連れ立って散歩することまでした。それに伴いシズコの態度も徐々に変化していき、そのことが阿南の感情をさらに優しくする。こうして二人の関係は新たな境地に達しつつあった。

 阿南は立って、シズコの前に行き、あぐらを掻いた。

「なあ、シズコ。君はぼくが思ってたより利口なんだね。いいことだ。そうやって、もっとぼくを喜ばせてくれ。ぼくも君を満足させるように努力するつもりだ」

 シズコは微笑みながら頷いた。

「それで一つ質問がある。君はどんな名が好きだ?」

 シズコの表情は訝しげなものに変る。「どういうことですか?」

 阿南は真剣な眼差しをシズコに送った。「ぼくは死んだシズコのことを吹っ切ろうと思う。阿南シズコは死者だ。君は違う。君に血は通っていないが、ぼくを愛し、励ましてくれる別のものだ。いつまでも死者に憑かれていては駄目だ。あの世のシズコもそんなことを望んじゃいない。だから、君はもうシズコじゃなくていい」

 それはシズコにとって思いもよらない申し出であった。そもそもシズコは亡き阿南シズコの複製たるべく製造されたのであり、シズコを演ずることが基本的プログラムなのだ。言わばシズコのアイデンティティに関わる問題なのである。混乱したシズコが再び口を開くまでに長い間があった。

「...でも、私はシズコさんになるために造られたんですよ」

「そんなことは忘れていいんだ。君は君自身として生きればいい」

「生きる...。私、生きているんでしょうか?」

「君はものを考え、自分の判断で行動し、意見を言える。ならばそれは生きているということだ。少なくともぼくはそう思う」

 シズコは沈黙し、物思いに耽った。あまりに意外な出来事のために、思考の整理がつかない様子だ。

「ぼくは君自身と新たなスタートを切りたい。素のままの君とだ。阿南シズコの身代わりとではなく」

 ようやくシズコは口を開いた。「でも、私ができることは何も変らないんですよ」

「それでいい。君は何も変える必要はない。これはぼくの心の問題なんだ。ただ、君の協力が必要だ」

「あなたの命令には従いますわ」

「命令じゃなく、お願いしている」

 シズコはにこりと笑った。幸福感の漂う笑顔だった。

「あなたがそれがいいというなら、そうしてください。でも、新しい名前はあなたが考えてください。私、とても判断できません」

「分かった。考えてみる」

「でも、私がシズコでなくなったら、ただのアンドロイドになってしまうじゃありませんか。本当にそれでも構わないんですね?」

「ただのアンドロイドで構わない。ぼくはね、シズコ。それが何によって立つかは重要じゃないと思う。大事なのは言葉と行いなんだ。考えてみてくれ。身の回りにはアンドロイドが沢山いて社会を支えている。この世界を守っているのは、人間じゃないチルドレンと呼ばれる女の子たちだ。ヒトよりもずっと純粋で、気高い意志の持ち主たちがいる。そういう時代にヒトという種の枠に拘る必要はないんじゃないだろうか。すべてを等価値に見ていいんじゃないだろうか」

「...難しいですが、何かとても素敵なことを仰ったんだと思います」

 二人は互いを暖かい眼差しで見つめあった。この瞬間、向き合っているのは種を超えた、単なる『男』と『女』であった。

 阿南はちらりと腕時計を見た。もう出かけなければならない時間だ。シズコの肩を叩いて立ち上がった。

 シャツの脇に拳銃の入ったホルダーを下げた。上着を着ると一見何もないように見える。

 いつも通りシズコは玄関まで見送りに来た。阿南はシズコの頬を撫で、告げた。「じゃ、行って来る。晩めしはいらないから」

 微笑むシズコを残して阿南は廊下へ出た。エレベーターを待ちながら、様々な女の名前を思い浮かべた。昔好きだった女の名前にしようか。イクコ、アカネ...。ふいにハルカの名が浮かんだ。ハルカ?まさか!阿南は苦笑して首を振った。

 阿南はマンションを出て幹線道路まで通じる道を歩いた。ふと頭の上から「あなた」と聞きなれた声が聞こえ、顔を上げた。シズコが窓を開けてこちらを見ている。彼は軽く手を振った。シズコも微笑みながら大きく手を振った。

 それが阿南の見た、生けるシズコの最後の姿だった。

 

 

 高級感のある個室で、阿南は山辺が来るのを待っていた。彼らが使う会合の場としては異例の豪華さだ。和机の上には既に鍋と突き出しが用意されている。彼はおしぼりで手を拭きながら、山辺が来るのを待った。

 個室の襖が開き、山辺が姿を見せた。長髪が揺れ、耳のリングが煌いた。

「今晩は、工藤さん」

「やあ、川島君、久しぶり」

 仲居がてきぱきと注文を取り、鍋の下のガスレンジに火を点け、出て行った。

「今日はどうしたんですか。こんな高級なところに呼び出したりして」

「たまに君を慰労してやろうと思ってね。遠慮しないで、どんどんやってくれ」

 ビールのジョッキが運ばれてきて、二人の前に置かれた。二人は早速それを手にして乾杯した。麦芽の旨みとほど良い冷たさが阿南の喉を通る。山辺も心から旨そうにジョッキを呷った。

「くぅ。旨い。やっぱり本物のビールはいいや。合成ものにこの味は出せませんよ」

「まったくだ。ほら、どんどんいけ」

 阿南も山辺もジョッキを傾ける。たちまちどちらのビールも半分ほどになった。山辺は口の回りについた泡を拭いながら阿南に言った。

「いいんですか。こんな高い経費を使って」

「いいのさ。これくらいの役得がなきゃやってられん」

 実の所、この場の代金のうち半分は、阿南の持ち出しであった。そこまでして山辺を歓待したい理由が阿南にはあった。

 山辺がスパイの顔になって阿南を見た。懐から茶封筒を取り出し、阿南の前に差し出した。

「これが最近判明した、新しい信徒のリストです。集会に出てこない隠れ信徒って奴ですね。上から出た文書を回覧しているようです」

 阿南は中身をちらりと眺め、懐にしまった。上着は着たままだった。

「ご苦労さん。他に情報は?」

「檜垣らしき男について、親しい連中に訊いていたんですが、それらしい情報を得ました」

 阿南は身を乗り出し、手帳を開いた。

 その男は、5年前に初めて集会に現れた。粗暴な男で、教団内で親しくなった者はいなかった。名前は『檜山』を名乗っていたが、教団内では偽名を使う者は珍しくなかったので、それがその男の本名とは思われていなかった。最初の頃は頻繁に集会に参加していたが、4年前から急に姿を現さなくなった。山辺が集会で目撃した時も、その信徒は男が久しぶりに現れたことに驚きを感じていた。

 阿南は手帳を閉じ、懐にしまいこみ、考え込んだ。檜垣が4年間消えていた理由は何か。教団から離れていたのか。その可能性は低い。おそらくどこか秘密の場所で、コマンドとしての訓練を受けていたのでは。

「実働部隊のキャンプについては噂もないか?」

「さあ、そんな話は聞かないですねえ」と言って、山辺は焼き鳥の串に齧りついた。

 鮪の刺身を噛みながら、阿南は鍋の蓋を開けた。盛大な湯気が立ち上がり、色とりどりの食材が見える。

「鍋が煮えた。遠慮せず食ってくれ」

 山辺は嬉しそうに小皿を取り、鍋の中に箸を入れた。つみれや豆腐、ずわい蟹などをてきぱきとつまみ上げ、先に阿南の前に置く。「どうぞ」山辺は微笑を浮かべた。「すまんね」自分の分を取り出す山辺を見ながら、阿南はこれから彼に言わねばならないことを思い、ちくりと心が痛んだ。

 鍋の中身は半分ほどになった。阿南はビールの量を控えめにしていた。大事な用件を酔って告げるわけにはいかなかった。世間話が途切れたところで阿南は切り出した。

「実は、今夜は君に一つ教えることがある」

 阿南の真剣な表情を見て、山辺も真面目な顔になった。

「なんですか?改まって」

「近日、リリス教徒の一斉摘発をやる」

 山辺は衝撃に打たれた。「...と、言うことは」

「最早あいつらを泳がせておく段階は過ぎた。地道な捜査では埒が開かん。警察と合同で、把握しているリリス教徒を全員しょっ引く。一箇所に押し込めて徹底的に訊問をやる。うちのトップが決めたことだ。もうどうにもならん」

 山辺は無言で阿南を見つめた。これがどういうことか、意味は明らかだ。

「分かってくれ。テロリストは一刻も早く逮捕しなければならん。現状を打破するにはこれしかないんだ」

 押し出すように山辺は言った。「それであの三人組が捕まるとは限りませんよ」

「それはありうる。しかし、次の行動を抑止することにはなるだろう」

 長髪に両手を埋めた山辺は、うつろな視線を下に落とした。

「おれも失業ですか。まいったな。おふくろに仕送りできなくなっちまう」

 阿南の宣告にはまだ続きがあった。つらさを押し殺して彼は告げた。

「大変すまないが、君も逮捕することになる」

「なんだって」顔を上げた山辺の目は大きく見開いていた。「俺が逮捕ってどういうことですか!どれだけあんたらに尽くしてきたか!」

「これは君のためだ!」

 大声を上げた山辺に合わせて阿南の声も高くなったが、すぐに声を潜めた。

「考えてみろ。しょっちゅう集会に出ていた君が逮捕されなかったらどうなる?たちまちスパイだったことがばれてしまう。人手不足の世の中、末端の信徒なら数年で出てくる。程度によっては半年ぐらいのもんだ。そいつらが君をほっておくか?教団のネットワークは生き残ると思ったほうがいい。あいつらが裏切り者をどう扱うか、君も知識はあるだろう」

「最後まで偽装し通すってことですか」

「そうだ。そこまでやらなきゃ画竜点睛を欠く」

 山辺は傍目にも落胆して視線を落とした。その前で阿南は足を組み替え、深々と頭を下げた。

「本当に申しわけない。この通りだ」

「あんたの責任じゃないんだ。頭を上げてください」

 山辺の言葉に救われた思いで、阿南は姿勢を元に戻した。

「それはいつやるんですか」山辺がぽつりと言った。

 感情を抑えた声音で阿南は答えた。「ここ3日のうちはない、とだけ言っておこう。日程はトップシークレットだ。早目に身辺整理をしておけ」

「大してすることはないなあ。俺、恋人とかもいないし」

 うつろな目で箸をもてあそぶ山辺を見て阿南は同情を禁じえない。スパイと雇い主の関係とはいえ、3年間付き合った相手だ。情が移るのも当然だった。憐憫の籠もった眼差しで山辺を見つめた。

「君はよくやってくれた。改めて礼を言う」と言って阿南はまた頭を下げた。

「俺の方こそ世話になりました」山辺も合わせておじぎをした。

「特別手当が出てる。受取ってくれ」阿南は懐からいつもより格段に厚い封筒を出し、山辺の前に置いた。「できるだけの便宜は図る。刑期は極力抑える。だから、面倒を起こすな。出所したら仕事も世話してやろう」

「助かります」山辺の口元にやっと笑みが浮かんだ。「考えてみれば、木下さんがいなけりゃ、俺、まだムショの中ですから。元に戻るだけのことですよね。でもなあ、お袋が可哀想で」

「君の母上には少ないが援助をさせてもらう。うちが表立ってはできないから、君自身が送金する形を取る」

「木下さん...」山辺は口を開けて阿南を見た。「あんた、いい人だな」

「馬鹿いえ」阿南は視線をそらしてジョッキを握った。山辺もジョッキを取り、阿南の前に差し出した。二つの酒器が打ち合わさり、高く澄んだ音が室内に響いた。

 

 

 阿南は料理屋を出て、一人夜の街角に立った。山辺は先に帰した。子飼いの情報提供者を切ったばかりの彼は、ジョッキを3杯空けたにも拘わらず、酔いを覚えていなかった。頭の中では山辺の来し方行く末がぐるぐると渦を巻き、妙に意識がはっきりとしていた。

 周囲はまだ人通りが多く、ネオンの光がまばゆい。阿南は夜風に当たりながら、雑踏に紛れて歩を進めた。山辺の母親のことに思いは及んだ。息子の更生を心から喜んでいたことを知っている。ただのアルバイトにすぎない彼の職業が、母親には堅実な会社の営業マンとして伝わっていると聞いている。その子が社会の敵の一員として逮捕された時、彼女はどれほど嘆くだろう。

 そうした情の絡んだ考えが延々と浮かび続け、いい加減嫌気が差した阿南は信号待ちをしながら深呼吸をした。もっとドライにならなきゃだめだ、と彼は思った。おれは命のやり取りもあり得る組織の一員なんだ。非情な対応が当たり前だ。それでも、おれはおれなりにあいつに応えてやった。おれ達はあいつを利用したが、あいつもおれ達を利用した。それが途切れるだけのこと。

 プロの捜査官としての自意識を取り戻した阿南は、いつもの習慣に従って、目立たぬように回りを観察した。男が横断歩道の向こうに三人、後ろに二人。いずれも若い。知った顔はない。

 信号が変った。阿南は何気なく歩いた。彼は自宅のある市の南部まで、路面電車を利用して帰るつもりだった。終電までは十分すぎるほど時間がある。停車場はずっと先だ。右手に書店がある。彼はふいに立ち止まり、ショーウィンドウに飾られた新刊本を眺めるふりをした。視線を素早く横へ走らせた。視界の隅に、半町ほど向こうで男が立ち止まるのを捉えた。男はあわてて横を向いた。

 阿南は眉を顰めた。俄かな緊張が酔いを完全に吹き飛ばした。おれは尾行されている。

 基本動作を忘れなかったことが幸いした。彼は心を静めて書店の中に入った。店内に客は少ない。入り口近くの雑誌コーナーに行き、週刊誌を手に取り、立ち読みするふりをしながら、ガラス越しに外を見回した。

 通りの向こうに中肉中背の男が一人、こちらを伺っている。さっきとは別の、ワイシャツを着た若い男だ。サングラスを掛けているのがいかにも怪しい。

 素人だな、と阿南は思った。プロならこうも簡単にはいかない。週刊誌を置き、店の奥に進んだ。入り口に気を配るのを忘れない。頭の中ではこの場をどう対処するか思考が駆け巡る。対抗手段としては拳銃一丁があるに過ぎない。応援を呼ぶ手もあるが、今から最速で駆けつけたとしても30分は掛かるだろう。相手は二人以上、どう見てもこちらの不利だ。

 安全第一、ここは逃げる。

 阿南は店の入り口に注意を払いながら、レジで暇そうにしている店員の男に声を掛けた。「ねえ、君。悪いけど裏口に案内してくれないか。実は向かいの通りに金貸しがいてさ、今顔を合わせたくないんだ。悪いが頼めないだろうか」

 二十歳前後の色白の店員は、一瞬唖然とした顔をしたが、すぐににやりと笑った。「いいすよ。こっちです」

 店員はレジをもう一人に任せ、奥まで行き、本が積み上げられた倉庫に入った。阿南はその後に続いた。トイレや事務所を横目に、狭い廊下を通り、細いドアに辿り着いた。

「ありがとう。改めて礼をしに来るよ」

「気にしなくていいすよ」

 若者は楽しそうに笑い、廊下を引き返した。阿南はドアを開け、表通りよりはずっと静かな裏通りにすべり出た。特に怪しい人影はない。できるだけ速く遠くへ行く必要があった。阿南は急ぎ足で電車の停車場とは逆方向へ向った。敵方の裏をかく積りだ。そこへ折り良く一台のタクシーが向こうからやって来る。幸い、客を降ろしたばかりなのか、空車だ。阿南は幸運を感じながら、手を挙げた。

 タクシーが阿南の前に停まり、後部の自働ドアが開いた。彼は素早く中に入り、ネオ・ネルフ支部の住所を告げた。自働ドアが閉まり、車内は密室になった。

「残念ながら、そこには行かない」

 運転手がこちらを向いていた。その手の中にある銃が阿南の胸を狙っている。阿南は咄嗟に胸のホルダーから銃を抜こうとした。「動くなっ!」男の鋭い声が車中に響き、阿南の手が止まる。「手を挙げな」阿南は顔面蒼白になりながら男の指示に従った。頬に疵のある目の細い中年男だ。彼はその顔をどこかで見たような気がした。

「あんたが行くのは地獄だ」

 プシュッと運転手の銃が鈍い音を立てた。

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