リリスの子ら

間部瀬博士

第9話

 阿南は脇腹に猛烈な痛みを感じ、眠りの幸福から辛い現実に戻った。

 まず目に入ったのは丸型の照明と三人の男の顔だった。もう一度同じ箇所が痛んだ。右側にいる男の 蹴りが入ったのだ。阿南は苦悶の呻きを上げながら、横向きになり、背を丸めた。正面の男が足を引いてまた蹴りを放とうとしているが、彼に抵抗の手段はなかった。両手を背中の後ろに回され、手錠を掛けられているからだ。鳩尾に男の靴が強かにめり込み、胃液が逆流した。

「目が覚めたか。ネオ・ネルフの犬め」

 阿南の頭の方にいた男がしゃがみ込んで憎しみの篭った声で言った。男は阿南の頭髪を鷲掴みして彼の頭を上げさせた。ひどい痛みに阿南の顔が歪む。床に座った姿勢にさせられた彼の前に、他の二人もしゃがみ、彼はようやく全員の顔を見ることができた。

 頭がはっきりとした阿南は、それらが初めて見る顔でないように思った。数瞬、正面の男を見つめてようやく気づいた。あの似顔絵の顔だ。「檜垣!」さらに、他の二人もいる。

「それからお前ら!」

 あれほど捜した飯田軍曹殺害犯の三人組と遭遇したのだ。だが、阿南は捜査官としてではなく、捕われ人として彼らの前にいる。

「久しぶりだね、だんな」そう言ったのは頭を五分刈りにした、さっぱりした顔立ちの男だ。

「貴様か!」

 憎しみを込めて叫ぶ阿南に対し、男は侮蔑の色を顕わにせせら笑った。阿南があのショッピングセンターでハルカから引き離した男だ。当時の印象とはかなり異なるが、阿南ははっきりと見分けた。男の目が憎しみを湛えて光った。

「そうさ。あの時はよくも痛めてくれたな。百倍にして返してやるから、覚悟しときな」

「へへっ。兄貴は執念深いからなあ」

 地下の駐車場で助けに入った男が続けた。顎鬚を蓄えたその顔は、やはり似顔絵と異なる印象を与える。

 そしてただ一人身元が知れた犯人、檜垣が吊り目を一層吊り上げて、阿南の胸倉を掴んだ。彼も眼鏡を掛け、頭を七三に分けた、一見サラリーマン風の容姿にしている。彼らは一様に手配書とは異なる風体に改めている。

「木下。いや阿南。てめえが今日までしてきた事を後悔させてやるぜ。10万人分の信徒の怨みがお前に叩きこまれるんだ。生きて還れるなんて思うなよ」

 檜垣の顔に阿南の吐いた唾が掛かった。檜垣の顔は瞬時に赤く染まった。

「この野郎!」

 固い拳が阿南の顎を撃ちぬいた。仰向けに倒れた阿南を男達は蹴った。その蹴りが十発を超えたところで、阿南は再び気を失った。

 

 

 彼が再び目覚めた時、回りには誰もいなかった。全身痛みのない箇所はなかった。身を捩るのも大きな苦痛が伴い、うめき声が洩れた。

 阿南は晴れ上がった瞼を開けて周囲を見回した。そこは家具一つないコンクリートむき出しの小部屋で、最初に目覚めた時と同じ部屋だ。彼はその壁際に転がさ れていた。両手は相変わらず拘束されている。服装は上半身はシャツ一枚、下半身は拉致された時のままだ。出入り口の鉄製のドアには、覗き穴らしく、目の高 さに蓋がついていて、ここが牢獄だということを明瞭に示している。

 冷たい床に頬をつけながら阿南は自身に起きたことを思い返した。

 タクシーの運転手が銃を撃った。意外にも痛みがなかった。自分の胸に一本の小さな矢が、赤い羽を煌かせて刺さっているのが最後の映像だった。麻酔銃を使われたのだ。

 周到に組まれた罠にまんまと嵌ったことを、阿南は激しく悔いた。素人くさい尾行は囮に過ぎなかった。本命はタクシーの方だった。運転手役の男は尾行をまい て隙のできた彼を易々と捕えた。おそらくは囮役と密に連絡を取り合っていたに違いない。あるいはもう一人監視役がいたか。

 あれから何時間経ったのだろう。外界から隔絶されたこの部屋では、今が何時頃かも分からない。時間の感覚がまるで無かった。

 今さら悔やんでも始まらない、ともかくここから生きて逃げ出すことだと阿南は思った。だがそれは、針の穴を通り抜けるに等しい難事業だということも分かっていた。

 ドアの向こうから足音が聞こえ、阿南に緊張が走った。ドアの蓋が開いて中が覗かれる。阿南は咄嗟に目を閉じて寝たふりをした。鍵を開ける音が室内に響いた。

 入って来たのはあのタクシー運転手と檜垣だった。檜垣は無造作に阿南に近づき、脇の下に手を入れて引き摺り起こした。

「寝たふりするんじゃねえ。また殴られたいか?」

 これ以上痛めつけられたくないので、阿南は目を開けた。檜垣はちっ、と舌打ちし、頭を小突いた。

「さっさと立てコラ。今ここで殺すぞ、てめえ」

「素直にした方がいいよ、阿南さん」運転手が冷やかに言った。「こいつは怒ると手が付けられなくなるからな」

 阿南はよろよろと痛む体を持ち上げた。檜垣の腰にズボンに挟み込んだ拳銃のグリップが見えた。あまりの戦力差の大きさに、彼は悄然となった。両脇に男達が腕を入れ、彼を歩かせた。阿南は運転手の顔を見ながら言った。

「お前、真柄ジロウだな。この前第二で摘発された銃器隠匿、その犯人グループの一人だ」

「へっ。知ってるのか。だが怖くもなんともないね」

 真柄は酷薄な嗤いを浮かべ阿南を引き摺った。ドアの向こうは暗い廊下で、両脇にはいくつも小部屋がある。彼が監禁されていた部屋と同様、ドアに覗き穴があ り、これらも牢獄の役目を果たしているのだろう。廊下の向こうは広い空間のようだ。そこに横からの光があり、内部がぼんやりと見える。そこで何をされるの か、容易に想像がついた。阿南にとっての地獄がすぐ近くにある。

 

 

 男二人に連れられて、阿南は薄汚れた地下室に出た。照明は協力なライトが二つ、スタンドに立てられているだけだ。内部は広く、天井も高い。あちこちに用途不明の器具やロープが転がっており、いかにも拷問部屋といった風情だ。

 部屋には三人の男がいて、傷だらけの阿南を嗤いながら見守っている。

「唐沢、手伝え」

 真柄が前にハルカの肩を掴んだ男に言った。こいつ、唐沢というのか。阿南はその名を心に刻んだ。

 檜垣がポケットから鍵を取り出し、唐沢に渡し、唐沢が阿南の手錠を外した。阿南はその瞬間、振り切ろうとしてもがいたが、両脇の男達の力は万力のように強 い。唐沢を加えた三人掛かりで、阿南を鉄製の椅子まで引き摺り、強引に座らせた。男達はさらにもがく阿南の両腕・両足を椅子の肘と脚に革ベルトで拘束して いく。

 本格的な拘束椅子に縛り付けられ歯噛みする阿南を、三人のテロリストは荒い息をしながら見下ろした。二本のライトが阿南に向けられ、彼はあまりの眩しさに目を瞑った。真柄が彼のすぐ傍に立った。

「さあ、阿南さん。これからあんたに色々質問をさせてもらう。たぶん、あんたは抵抗する積もりだろう。だがな、それはいずれ損だったと思うようになる。とても耐え切れない苦痛を味わうことになるからだ。さっさと喋ればそれだけ早く楽になれる」

 阿南は憎しみも顕わに言った。「どうせ殺す気でいるんだろう。早く殺せ。その方がお前らも手間が省ける」

「ははっ。おれ達の拷問を甘く見るなよ。おれは嘘は嫌いだから言ってしまうが、あんたは確かに殺される。けどな、そのうちあんたは頼むから自白させてくれと乞い願うようになるんだ。話すから早く殺してくれとな。くくっ。くくくくく」

 忍び笑う真柄を見て阿南は背筋が寒くなる。この男は明らかに嗜虐者だ。

 その時、奥の扉が大きく軋む音を立てて開いた。誰かがやって来る。部屋の中の男たちは、逆行の中にあるその姿を見て俄かに緊張した。皆気をつけの姿勢を取 る。阿南は最初、唐沢の陰になって、その姿が見えなかった。扉が閉まり、元の明るさに戻った部屋にこつこつと靴音が響く。その男がライトの中に入った。阿南もその男を見た。足元まである銀のガウンを纏った男。特別の地位にあることは明らかだ。

「貴様...、美濃浦か!」

 一瞬間が開いたのは、男の容姿があまりに手配書と異なるからだった。その男は鶴のように痩せていた。

「その通り。リリス教教祖・美濃浦だ。意外そうな顔をしているな」

 かつての美濃浦ダイゴは体重100kg級の巨漢として知られていた。手配書にある写真では丸々と太り、長髪の顎鬚を生やした顔である。それが今は頬がこ け、髪は短く、髭もなくさっぱりしている。変化のないのは目つきだった。人の心の奥まで見透かすような、曰く言い難い神秘を湛えた目だ。

「ふむ。なかなかいい眼をしている」

 美濃浦は意味ありげに阿南の目を覗き込み、掌をそれに向けて伸ばした。阿南はぞっとしながら顔を引く。保安部員の眼球にどんな使い道があるか、熟知していた。美濃浦はほくそ笑みながら手を引っ込め、続けた。

「かつての私とは正反対だろう。人間が他人になりすますのは意外と簡単なことなのだ。特徴を一つずつ消していけばいい。長髪を短髪にし、髭を剃る。これだけで も効果があるが、完璧を期すには体つきを変える必要があった。私の巨体は有名だからね。逃亡生活の不自由さもあったが、何より私の意志力がものを言った。 僅か半年で55kgまで落としたよ。こうなってから、わざと何人もの警官と話してみたが、気づいた者はゼロだった」

 教祖が2072年の非合法化以来、10年の長きに亘って捜査の手を免れてきたのは、このためだったのだ。阿南はありったけの憎しみを込めて美濃浦を睨んだ。

「この愚民めが」教祖は不快そうな顔をした。

「リリスの恩寵を知らぬ痴れ者。お前達は悪魔の手先だ。来る真のインパクトによって無明の闇を彷徨うこととなろう。イア・リリス」

 教祖は瞑目して胸の前で合掌した。その他の者達が一斉に同じ姿勢を取り、叫んだ。イア・リリス!

「時間を取らせた。真柄、始めよ」

 にやりと笑った真柄は部屋の隅から小さなテーブルを運び、阿南の真横に据えた。粗末な木製の机だが、天板が異様だった。黒々とした染みに覆われ、真ん中辺 りには直径5mmほどの穴がいくつも開いている。唐沢が重そうな金槌と五寸釘を持ってきた。

「腕を押さえろ」真柄の指示に従い、檜垣が渾身の力で腕を押さ え込む。その間に真柄は革ベルトを外した。

「くそっ。触るな」

 阿南はありったけの力を入れて抵抗した。だが、真柄と檜垣二人掛りの力に は抗し切れず、右腕はテーブルの上に持ってこられた。真柄と檜垣はそのまま強引に押さえつける。阿南は息を呑んだ。唐沢は金槌を構え、五寸釘を手の甲に当 てようとしている。咄嗟に阿南は握り拳を作る。

「野郎っ!」唐沢は強引に指をこじ入れ、人差し指を掴み、持ち上げた。

 阿南は墜に苦痛の悲鳴を上げた。指があり得ない角度に曲がった。骨が折れたのだ。痛みに力が抜けた隙に檜垣に指を広げられ、上から押さえ込まれた。

「今だ。やれ唐沢」

 キン、と乾いた金属音が響いた。阿南は五寸釘が手の甲に食い込む瞬間を見た。血しぶきが舞い上がった。阿南の喉から絶叫が迸った。

 唐沢は狂ったように金槌を振るい、釘は掌を突き抜け、机の板に達した。なおも金槌が釘の頭を打つ度に、数倍の痛みが阿南を襲う。やがて釘は机の天板を突き 抜け、頭の部分が甲に接した。机の下には釘の先が5cmほど飛び出している。血が大量に溢れ天板を覆っていき、端から床へ、ぽたぽたと滴り落ちる。

「どうかね?キリストになった気がしないか?」

 美濃浦が酷薄な笑みを湛えながら阿南に言った。阿南はあまりの痛みに言葉を返すこともできない。三人の信徒は机から離れたが、阿南の右手は机に固定されて寸分も動かない。人差し指は倍の太さに腫れ上がっている。

「君は実際の磔刑はどうだったか知っているかね?絵画では全て掌に釘を打ち込まれている。だがね、本当は手首に打ったんだ。そうしないと掌が裂けて落ちてしまうんだな。我々は君を垂直に立てるわけじゃないので、これでいい」

 美濃浦は笑いを引っ込めて真剣な顔つきをした。

「だが拷問はこれで終わりじゃない。始まったばかりだ。これからもっとひどい苦痛を君は経験することになる。そうなる前に質問をしてやろう。君のためにな。まず一つ目。君のネオ・ネルフにおけるネットワークのIDとパスコードを教えてくれ」

 阿南は苦痛に歯を喰いしばりながら、敵の意図を読む。信徒にも当然ハッカーがいるのだろう。セキュリティレベルの高い阿南の情報を得られたらどれほど貴重な情報が集まるか。

 苦痛を耐えながら阿南は答えた。

「誰が言うか。ペテン師め」

 美濃浦は鼻で笑った。

「そうだ。公安二課長ともあろう者が簡単に屈しちゃいけない。では質問を変えよう。C計画とは何だ?」

 C計画?阿南は初めて聞く言葉に耳を疑った。

「何だそれは。聞いたこともない」

「嘘はいかんなあ、阿南君」美濃浦は頭を掻いた。

「折角の温情をふいにしたな。仕方がない。始めろ」

 美濃浦は真柄に合図をした。狂気の宿る目つきをした真柄が、腰の後ろから前に回したのはガスバーナーだった。真柄は阿南の目の前でライターを使い、バーナーに点火した。熱気が阿南の顔を灼く。さしもの阿南も恐怖に顔を引き攣らせる。

「くくく。熱いか。これで顔を焼いてやろうか。くかか。安心しな。そんなすぐ死んじまうような真似はしない。もっとじわじわと痛ぶってやる。こうやってな」

 真柄はしゃがみ、机の下にバーナーを差し入れた。炎が舐めたのは、阿南の右手を縫いつけた五寸釘の先端だった。

 数秒としないうちに阿南の絶叫が部屋中に轟き亘った。釘を伝わった熱が阿南の肉を襲ったのだ。彼の苦悶の叫びは止むことがなかった。

「止め」

 美濃浦が冷静な口調で真柄を止めた。バーナーが引かれ、痛みは緩やかに元のレベルに戻っていく。

「苦しいかね、阿南君。だが、想いたまえ。10年前、筑波の第3収容所で何があったか。3,091人の罪のない信徒が無惨な殺され方をした。君も政府側の一員として、万分の一でも責任を取るんだ」

「あれは信徒の暴動が原因だ」

「そんな公式発表を信じる者は誰もいない。さあ、答えろ。君のIDは?パスコードは?C計画とは何だ?」

 阿南は残る力の限り絶叫した。

「絶対、言うもんか!!」

 教祖は目で真柄を促した。真柄の手にあるバーナーが再び動く。万の針に刺されたような苦痛が阿南の手を蹂躙する。あたかも絶叫だけが救いであるかのように、阿南は叫ぶ。

 再び教祖が中止を命じた。教祖は同情的な態度で阿南に迫った。

「さあ、言ってしまえ。言って、楽になれ」

「くそくらええええええっ!!」

 叫ぶ阿南の目にはなおも反抗の色があった。教祖はふと目をそらし、阿南の右手を見た。

「おや、いかん。君、爪が伸びているじゃないか。私が始末してやろう」

 檜垣がにやりと笑い、教祖にラジオペンチを差し出した。受取った美濃浦は慣れた仕草で、ペンチを親指の爪にあてがう。

 ぶちっ、と音がして、爪は親指から離れていった。

 

 

 結局阿南はその後2時間、拷問を耐え抜いた。

 右手の五本の指は全て爪を失った。

 阿南は両腕に手錠を嵌められ、元の部屋に戻された。右手は簡単な手当てをされ、包帯を巻かれていた。治癒させるためというより、死なせないためである。拷問を止めたのも、出血がひどく、失血死を懼れたからだ。

 壁の隅にもたれ、痛む手に苦しみながら、阿南は天井を見上げていた。しばらくは何も考えられなかった。明りにまといつく蛾を眺める間にゆっくりと思考力が戻ってきた。忘れていた空腹が甦ってきた。

 手も足も出ない今、できることは考えることだけだ。

 そう思った阿南は、まず現状の分析から始めた。まず、このアジトはどこか?麻酔銃の効き目はせいぜい3時間、普通に眠ったとして、目を覚まさせられたのは 次の日の朝と見ていい。腹の減り具合もそれに合致する。だとすれば、この場所は第四新東京市から車で数時間の距離の範囲内ということだ。航空機に乗せられ た可能性は、警備を掻い潜るリスクを考えれば、まずないと見て差し支えない。

 あの飯田軍曹殺害事件の容疑者三人組が揃っていた。このことをどう 考えるか。やつらはネオ・ネルフに対するテログループの最前線にいると思われる。とすると、ネオ・ネルフ関係者が最も多くいる第四新東京市こそがやつらの 活動拠点にふさわしい。檜垣が不運な土橋上等兵に成りすましたことを考えて見ても、おれはまだ第四を出ていない。

 ここまで考えて阿南は戦慄した。やつらは最後におれの右目を繰り抜くだろう。

 不吉な思いを斥け、彼は救出の可能性を考えてみた。今頃はおれの行方不明で保安部は大騒ぎになっているはずだ。彼らがおれに辿り着く道筋はあるか。

 これまで蓄積してきたリリス教徒の情報がある。保安部と警察合同の一斉検挙が早まれば、一縷の可能性は出てくる。相沢次長らの政治力があればそれも不可能ではないだろう。だが、大きな組織ほど動かすまでに時間が掛かるのだ。その時までおれは耐え切れるか。

 自ら脱出の方策を探るに如くはない、と阿南は思った。さもなければ、彼は高い確率で悲惨な死を迎えるだろう。

 思いはこうなった原因に移っていった。誰かがおれを売った。山辺か?それもあり得る。あの時、おれと飲みながら、内心どんなことを考えていた?それとも、 既に侵入したスパイか?どちらかと言えばそっちだ。何たる迂闊さだ。なぜもっと慎重に動かなかった?おれほど標的にふさわしい人間はいないじゃないか。

 山辺の身がどうなったかが気になる。彼が裏切ったとは考えにくかった。あの時、見張られていたのは阿南だけか?山辺にも尾行がついたと考える方が妥当ではないか。と、すれば今頃山辺は...。

 やがて思考に倦んだ阿南は回想に逃避した。シズコやハルカ、マサコたちチルドレンの顔を思い浮かべた。女たちを想うことで、右手と全身の痛みを忘れようとした。

 シズコ、すまない。もう会えないかもな。お前の唄をもっと聴きたかった。

 そのまま時が流れ、阿南の空腹はひどくなった。極力動かず体力の温存に努めた。取りとめのない思いが浮かんでは消えた。

 突然、鍵を開ける乾いた音が阿南の瞑想を破った。ドアを軋ませて入って来たのは檜垣だった。両手に大きめの鍋を持っている。美濃浦や真柄らもいる。五人の男達が入り込み、独房は急に狭くなった。

「どうだ、休息できたかね、阿南君」教祖がおだやかな声色で言った。

「こんなのは休息に入らない」

「それは生憎だった。だが、筑波の収容所はもっと酷い所だったそうだ。信徒の苦しみを噛み締めたまえ。ところで、腹が空いただろ?」

「気にしなくて結構」

「いや、食べたほうがいい。君も男なら脱出の手段を考えているはずだ。だったら、空腹のままではいけない。兎に角、体力をつけねばな。そうだろ?」

 阿南は檜垣が持つ鍋をちらりと見た。いい香りが漂ってくる。 ぐう、と腹が鳴った。口中に唾が湧き上がる。

 教祖の言う通り、体力は必要だ。何を食わされるか問題があるが、どうせこのままでは死ぬ。抵抗する気は無くなった。

「ろくなもんじゃないだろうが、食っても構わんよ」

「それがいい」と言って、教祖は檜垣に目で合図した。

 檜垣はアルマイトの鍋を阿南の前に置いた。蓋を取ると湯気が上がり、脂の浮いた茶色のスープに肉や野菜が見えた。豚汁らしい。檜垣はしゃもじで小鉢に中身を掬い入れた。味噌の香りが阿南の食欲をそそる。

「なあ、おれ達はなかなか親切だと思わないか?捕虜にこんなサービスをしてやるとはよう」

 言いながら檜垣はスプーンで肉片を阿南の口の前に持っていった。

「手錠を外してくれないか?自分で食いたい」

「遠慮すんなって」

 阿南は諦めて肉を口に入れた。経験したことのない味だった。くせのない淡白な味わいだ。なんの肉だろう。しかし美味だ。

「何の肉だ?」

「イヌの肉さ」檜垣は淡々と答えた。阿南は犬肉を食べたことがなかったので、特に疑問を抱かなかった。

 檜垣は次々と食材を阿南の口に運んだ。空腹が堪えていた阿南はどんどん咀嚼し、嚥下する。回りの者達はその有様をぎらぎらと目を光らせ、にやにや笑いながら眺めている。

 阿南は食べるのに夢中で、その異様さに気づかなかった。鍋の中の具があらかた無くなり、最後のスプーンが阿南の前に差し出された。

「これで終わりだ。どうだ、旨かったか?」

 スプーンの上の乗ったものを見た時、阿南は脳天に杭を打ち込まれたような衝撃を受けた。

 それは人間の耳だった。それも、阿南が知っている耳だ。耳たぶに金色のリングが嵌っている。山辺ショウイチが常に着けていた−−

 阿南は声を限りに絶叫を張り上げた。それは幾度も狭い部屋の中に木霊した。回りのリリス教徒は堰を切ったように笑い出した。

「わはは。食いやがった。こいつ、仲間の肉を食いやがった」

「やっぱりこいつ、外道だぜ。ぶはははは」

「人でなし、人でなし」

 阿南の目から大粒の涙が流れた。絶叫の後はしばらく声も出せなかった。その打ちひしがれた姿を、リリス教徒たちはなおも面白がった。阿南は胃がひっくり返るような感覚を覚えた。続けて猛烈な嘔吐がこみ上げてきた。

「うわっ、汚ねえ」

「この野郎!」

 唐沢が脇腹に蹴りを入れた。ひっくり返った阿南は吐き続け、吐寫物で顔を汚した。

「醜態だな。阿南君」

 教祖は冷酷に言い放ち、阿南を見下ろした。

「貴様らは狂っている」 涙と反吐で顔を濡らしながら、ようやく阿南は言い返した。

「こんな事をして恥ずかしくないのか。貴様らは人間じゃない。ケダモノだ!最低のクズだ!」

「んだと。こん畜生!」檜垣や唐沢らが一斉に阿南を殴り、蹴り始めた。阿南はなおも喚いたが、やがて声を失いその場に横たわった。

 失神という唯一の避難所に逃げ込んだのである。

 

 

 阿南の眠りは長く続かなかった。

 ずきずきと痛む右手が、彼の意識を辛い現実に引き戻した。部屋の中は真っ暗になっていた。男達は彼をいたぶるのを止め、放置して出ていったのだ。コンクリートの床が頬に冷たい。

 苦痛の呻きを上げながら、寝返りを打った。後ろ手錠はそのままだ。

 漆黒の闇を見つめながら今自分が置かれた立場を確認していく。まだ死んでいない。生きている。この床の感じでは同じ部屋にいる。あれからどれぐらい時間が経った?反吐の臭いがしないのは、あいつらが掃除したってことか。

 考えるのが苦痛になってきた。

 もう死んだ方がいい。それがおれのため、組織のため。明日は拷問が再開される。耐え切る自信はない。今すぐ死ぬのが最善だが、それもできない。舌を噛みたいところだが、顎が痺れてだめのようだ。

 山辺の顔がふいに浮かび、目に涙が浮かんだ。

 すまん、山辺。おれが殺したようなもんだ。スパイに誘ったりしてなけりゃ、今も元気でいるはずなのに。

 阿南は暗闇の中、声を上げて泣き始めた。弱く、長い声音が狭い室内で反響した。この時、阿南の望みは一刻も早い死であった。

 突然、部屋の隅で何かが光った。

 驚いた阿南は声を収め、光の方を見た。

 そこに、学生服姿のチルドレンが立っている。

 阿南は呆気に取られてその少女を見つめた。悲しそうな顔をした十代前半のチルドレンが、ぼうっとした白い光に包まれて彼を見ている。阿南は数瞬で自分が見ているものの正体を察した。これは痛みに耐えかねた脳が見せる幻覚か、さもなければ死に際に見るというそれか。

「チルドレン。いやファーストチルドレン。迎えに来てくれたのかい?」

 不明瞭な発音で阿南は呼びかけた。少女は服装や髪型からファーストチルドレンと分かる。写真そのままの姿だ。伝説の人物と話すのも一興、と思い阿南は微笑んだ。涙は既に枯れていた。

「いいえ。あなたと話をしに来たの」

 少女はぽつりと答えた。阿南は意外に思った。このまぼろしは口を利く。

「そうかい。君の年代と話が合うかなあ」

「世間話をしに来たのじゃないわ」

「そうかい。だけどね、チルドレン。おじさんはもう死にたいんだ。それが世のため人のため。どうせなら今すぐあの世に連れてってくれないか?」

「弱気なことを言わないで」

 ファーストチルドレン・綾波レイは一歩近づいて座り込み、阿南の顔を覗き込んだ。

「あなたに死んで欲しくない。あなたには大切な役目があるから」

「ぼくの代わりならいくらでもいる」

「いいえ、そうじゃないの」

「分からんなあ」

 阿南はレイの意図が掴めず、怪訝そうな顔をした。意見する幻覚など聞いたことがない。

「あなたは、多分、必要な人間。ここで死んで欲しくない」

「ぼくがチルドレンを守っていることを言っているのか?君がわざわざここに来た理由を教えてほしい」

「今はまだ言えない」

 レイは口を噤んで阿南を見つめた。阿南の目つきは真剣なものに変った。今この場にいるものの正体が何か、確信が無くなって来た。

「分かった。では、この手錠を外してほしい。あのドアの鍵を開けてほしい」

 レイは悲しげな顔をして首を横に振った。

「できないの。私には体がないから。あるのは言葉と意志だけ」

「だが、ファーストチルドレン。そうでもしなければ、ぼくは拷問にかけられ、いずれ死んでしまう」

「いいえ、チャンスはあるわ」

 レイの瞳から、強い意志の放射が感じられた。言葉に力が篭った。

「諦めてはだめ。生きる望みを強く持って。一つ大事なことを教えます。拷問部屋にロッカーがあったのを覚えてる?」

 確かに部屋の左隅に洋服を入れるロッカーが四つ並んでいた。

「ああ、あった。覚えてるよ」

「その右から2番目にあなたの上着が入っている。ここに連れて来られた時のままよ。真柄が自分の物にしたの。あなたの拳銃も掛かっている」

 拳銃と聞いて阿南の目が拡がった。もしもそれを使うことができたら。生き残るための僅かなチャンスが生まれる。だが、この状況下でそれに触れる機会が来るだろうか。阿南には到底無理としか思えなかった。

「ありがとう、ファーストチルドレン。大いに参考になった。仮に、奴らが僕を自由にしたら、早速使うことにする」

「あなたは降りようとしている」意外にきつい声色に、阿南はぎくりとした。

「諦めたらすべては終わり。生きる意志を持つの。でなければ残るはずの命も残らなくなる」

「そうか、分かった。僕は生きる。生き残って見せる」

 レイの激励に、僅かに力が甦るような気がした阿南はしきりに頷いた。

「もう一つ大事な事を教えます。明日の朝、必ずチャンスが来ます。あなたは必ずそれを生かして。きっとうまくいくから」

「具体的に、どうすればいい?」

 レイは目を伏せて首を振った。

「そこまでは分からない。私にはそれ以上見えない」

 予知能力?この娘は未来が見えるのだろうか。阿南は目の前にいる少女がますます不思議になった。

「分かった。意志をしっかり持って、臨機応変に行動するよ。それは誓う。ところで失礼な質問かも知れないけど、訊いていいかい?」

「なに?」

「君は幽霊なのか?それとも、僕は幻覚を見ているのか?」

 レイの頬が小さく膨らんだ。

「そのどちらでもないわ」

 怒らせたか。阿南はつまらない質問を後悔した。

「ごめん。こういうのは初めてなんで」

「別にいい。それより、もう話せなくなるわ。ここではあまり長く姿を保っていられないの」

 阿南は焦って、体を捩らせた。まだ話していたい。たった一人、この場に残されるのはいやだ。

「待ってくれ。もっと話が聞きたい」

「もうだめ。代わりに少しだけ役に立ってあげる。私にできるのはこんなことぐらいなの。ごめんなさい」

 レイの細く、白い指が包帯に包まれた阿南の右手に伸びた。阿南は急に身を乗り出したレイが、背中の方で何をしているのか分からなかった。

 ふいに右手から痛みが引いた。

 阿南は今この時、奇蹟が起きていることを確信した。

 体を起こしたレイは、続けて目を丸くした阿南の額に触れた。だが、彼は何も感じなかった。代わりに眠気が急速に迫ってきた。

「おやすみ。適格者」

 その言葉は阿南の耳に入らなかった。レイの薄れゆく体の前で、彼は寝息を立て始めていた。

 

 

 阿南は唐突に目を覚ました。

 周囲は相変わらず闇だ。右手を筆頭に、体のあちこちが相変わらず痛む。頬が濡れて冷たい。うつ伏せに眠ったので、唾液が溜まったのだ。

 もぞもぞと動いて位置をずらし、姿勢を楽にした。ありがたいことに眠ることができた。おかげで頭がはっきりとしていた。冷静にわが身に起こったことを振り返る。

 あれは、本当にファーストチルドレンだったのか。

 阿南は唯物論者であった。霊魂の存在など信じたことはなかった。よって阿南の第一感は、あれが幻覚だったということだった。しかし疑問は残る。あれほど鮮 明な幻覚があり得るのだろうか。叱咤激励した上に、銃のありかまで教えていくなどというのは。あの瞬間、痛みが消えたのはなぜだ。必ずチャンスはやって来 る。少女はそう予言した。あれを信じるべきか。あんなのが当ると言い切れるか。

 阿南の迷いは短かった。信じて損はない。まぼろしの指示に従って行動する馬鹿が一人ぐらいいたっていい。

 両手を背後に拘束する手錠は、交差させてからはめ込む型のもので、足をくぐらせて手を前に出すことはできなかった。だが、この姿勢でもできることがある。

 阿南は痛みに耐えながら床に正座し、体をそらした。左手の指を目一杯伸ばして靴の踵に触れた。元から履いていた革靴だ。取り上げられなかったのは幸運だった。

 踵の一角を押すと、一部がばねの力で横にずれた。それは秘密の道具箱だ。阿南は慎重に手探りで箱の中のものを摘み出し、ズボンの腰に挟み込んだ。

 扉の向こうから足音が聞こえた。阿南は慌てて道具箱を踵に押し込み、床に横たわった。部屋の明りが点灯し、続けて覗き穴が開いた。間一髪のタイミングだった。

 覗き穴の向こうから、眩しさに目をしばたたく阿南を誰かが見ている。

「起きてるな。死んでなくて良かったぜ。へへ。あと少しでみんな集まるからよ、楽しませてもらうぜ。がたがた震えて待ってな」

 阿南は情けない顔をして男を見返した。ここで敵愾心を見せてはならない。

 間もなく本日の地獄が開幕する。

 

 

 男達が三人、独房に入って来た。飯田殺しの三人組だ。

「さあ、起きな。今日も楽しくやろうや」

 三人は阿南の体を抱え、引っ張り上げた。檜垣は憔悴しきった彼の表情を見て確信を持った。この男は直に落ちる。

 その間、阿南は自分が見たものの重大さに息を呑んでいた。

 檜垣は黒いスタジアムジャンバーを着ている。その胸にくっきりと文字が浮かんでいるのだ。

『White Sox』と。

 やはりお前か、檜垣。阿南は憎しみの目を向けるのをじっと堪えた。

 拷問部屋には既に、銀のガウンを纏った美濃浦が待っていた。前日と違い、天井の照明が灯り、内部は明るい。部屋には他に真柄を入れた三人の男がいて、教祖の後ろに控えている。全部で7人の敵がこの部屋にいる計算だ。

「お早う、阿南君。昨夜はよく考えたか。辛い拷問をされるのは損だぞ」

 三人組は阿南を昨日と同じ椅子に繋いだ。前回のような抵抗はなく、易々と拘束される様を見た教祖は、満足げに笑い、一歩近づいた。

「昨日の君は素晴らしかった。あの拷問に2時間も耐えるとはな。最高記録だよ。そんな君にご褒美をやる」その言葉に、うなだれていた阿南は反応し、教祖を見上 げた。

「我々は君を殺すと言った。だが、それは撤回しよう。もし喋ったら、君をこのまま捕虜として生かしておく。ちゃんとした扱いをしてやる。どうだ、私の慈悲が分かるかね?」

 教祖の目を見た阿南は嘘だ、と確信した。その目が物語るのは狡猾さと狂気だった。

「生憎だがその提案には乗れない。ご褒美というなら、早いとこ殺してくれ」

 美濃浦は微笑を引っ込め、不機嫌そうな顔をした。

「そうか。どうしても痛ぶられたいというのか。不本意だが、仕方あるまい。唐沢、檜垣、真柄、始めよ。今日は左手だ」

 呼ばれた三人が目を光らせて動いた。唐沢が昨日と同じテーブルを運ぶ。阿南はその様子が見ていられず、きつく目を瞑った。

 どうなっているんだ、ファーストチルドレン。これじゃ昨日と同じだ。チャンスは本当に来るのか?また、この拷問を耐えきらなきゃならないのか?

「待て。動くな。静かにしろ」

 突然、教祖が叫んだ。室内がいきなり凍ったように、男達は動きを止めた。

 ずっと遠くでサイレンが鳴り響く音が、微かに聞こえてくる。

「使徒警報だ。誰かラジオを点けよ」

 一人の男が部屋の壁にしつらえられた棚からラジオを持ってきた。早速聞こえたのは、男性アナウンサーの淡々とした声だった。

『−− ください。繰り返します。本日午前8時10分、富山湾に姿を現した使徒は進路を南に取り、ジオフロントに向けて飛行中です。進路がこのままですと、当第四 新東京市上空を通ることになります。使徒がこのままの速度を維持すれば、8時40分頃には当市に到達します。市民の皆さんは今すぐ所定のシェルターへ避難 してください。繰り返します。−−』

 

 

 その生き物は地球上の生物進化の系統からは、かけ離れた姿形をしていた。

 第130使徒の全体像は海に住む水母と似通っていた。腹部らしき場所からは無数の白い触手が垂れ下がっていた。長いものは30m、短いものでも20mの長 さがあり、それらがびっしりと腹部を覆っている。中央よりになるほど長いものが多くなる。周辺部には長く太い触手が8本、等感覚に並んでいる。とりわけ長 いのは前方と思われる場所から伸びたもので、長さは100mを超えていた。それらは赤茶けた色の鱗で覆われ、それぞれの鱗には針のような剛毛が突き出して いる。先端には紫色の指に似た組織が6本生えていて、時折開いたり閉じたりしている。

 使徒の胴、または頭部(水母で言えば傘に当る部分)は、人 間の脳に酷似していた。その皺のよる様はそう連想させずにはおかなかった。色は汚水を思わせる灰色で、見る者に言いようのない不快感を与える。触手の先端 と同じような組織が密集した箇所があり、隙間から暗い空洞が垣間見え、口腔の存在を伺わせる。そのすぐ上には、差渡し10mはありそうな巨大な一つ目が赤 い瞳を煌かせている。そこがこの使徒の顔と考えられた。目の上からは深い溝が後部まで続いている。頭のところどころに、正面ほどではないが大きな赤い目が 不規則に開いていて、奇怪にも上空を飛ぶ戦闘機に合わせてくりくりと動いている。

 

 その胴ないし頭部は長さが100m、幅が80mにも及ぶ巨大さであり、あたかも空中要塞が地上を睥睨するかのようである。不幸にもその姿を見た者の中には、遂に世の終わりを告げる天の使いが降臨したのかと、恐れ慄く者も少なくなかった。

 

 

 いつものように迎撃に出た戦闘機群は、いつものようになんの戦果も上げられなかった。知りえたのは敵が並以上に強いATフィールドを持つということぐらい であり、その戦闘力はまったくの未知数であった。それは戦闘機群に対しては反撃のそぶりさえ見せず、ただ悠々とジオフロント方面へ向けて侵攻していく。間 もなくこの世の地獄が出現しようとしている。

 

 

 ハルカはエントリープラグの中で、使徒戦を前にした興奮を鎮めようと深く息をし た。今回の戦いは前2回とは違った趣があった。空中で使徒を要撃するのだ。ハルカにとっては久々の空中戦である。既にエヴァ8機はF型装備への換装を終 え、超大型輸送機の格納庫に収まっている。

 リーダーとして迎える初の実戦を前に、ハルカの心の中では、様々な思いが飛び交っていた。リーダーとしてどうあるべきか?若手は大丈夫か?チヒロは以前の勘を取り戻したか?

「リーダー。なんか固い」ウィンドウが開き、短髪のチヒロが言った。ハルカははっとしてチヒロの顔を見た。

「あ、そ、そうかな」

「リーダーはいつも余裕かましてなきゃ。後輩が不安に思うよ」

「そうね、ごめん」

 ハルカは気分を変えて笑顔を作り、全機への通信を開けた。

「さあ、これから楽しい空中散歩よ。みんな、飛ぶの好きよね?」

 後輩たちは声を揃えてはい、と答えた。

『離陸準備完了。まず1号機から出る』キムが告げる声が聞こえた。

「了解」ハルカは答えてインダクションレバーを握り締めた。一つだけ言いたいことがあった。それは、ハルカが亡きキヨミの遺志を継ぐことを表明する言葉だった。

「みんな、生きて還るわよ」

 機体が揺れ、輸送機はゆっくりと飛行場の中央へ進んだ。既に直径120mに及ぶジオフロント中央口は完全に開き、青い空を頭上はるかに仰ぎ見ることができた。

 

 

「使徒様が来られる。使徒様が−−」美濃浦は両手を合わせて部屋の中をうろうろと歩き回った。この市には久々に現れる使徒だった。リリス教徒にとって聖なるものと、間近にまみえる機会が到来したのだ。彼は興奮していた。

 やっと立ち止まった教祖は信徒達を見回した。

「これは神の啓示だ。お出迎えせねば。シェルターなんぞに入っていられるものか。すぐに外に出よう!」

 信徒達は喜んで歓声を上げた。

「まず群集に紛れて真柄の家に行こう。あそこは郊外で市の北側だから、お出迎えに丁度いい。無人になったところで適当な場所に出て、使徒様に拝謁するのだ。おお、喜びに胸が震えるわ」

「こいつはどうします」檜垣が椅子に縛り付けられた阿南を指した。教祖は顔を顰めて阿南を見た。

「こいつだけ置いていくわけにもいくまい。檜垣、唐沢、お前達二人は残れ」

「えー、見張りですかあ」と、唐沢が不満そうな声を上げた。

「気の毒だが、諦めてくれ。いずれまた機会は来る」

「ちぇ。分かりましたあ」

 使徒の目的はリリスと接触を果たすことにあり、進路は常に一直線にジオフロントを目指すものであるため、これまで百を超す戦闘が行われたにも関わらず、民 間人の被害は少数にとどまっていた。第四新東京市では、使徒戦の度に警報が鳴らされ、市民はシェルターに避難するのが慣わしになっていたが、ここ10年と いうもの人的被害はなく、自分たちは安全だと思い込んでいた。そこに巣食うリリス教徒も例外ではない。

「他の者は私に続け。いざ、使徒様の下へ。神のみ使いにお目通りを願おうぞ。イア・リリス!」

 イア・リリス!と信徒達は唱和した。教祖はガウンをひるがえして出口へ急いだ。四人が後に続く。扉が閉まると、室内には阿南ら三人が寂しく取り残された。

「あ?あ、行っちゃった」

「ま、しゃあねえな」

「拷問の開始が延びて良かったな。ええ、阿南さんよ」

 阿南はめまぐるしい展開に唖然としていた。拷問は先送りになり、七人の敵がいきなり二人になった。あの少女が言ったチャンスとはこれだったか。

 唐沢は煙草に火を着け、空き缶を灰皿代わりにして喫み始めた。檜垣は机に座り、足をぶらぶらさせている。阿南は時間を計っていた。五人はもう外に出たはず。

 弱々しく顔を上げながら言った。

「なあ、お願いがあるんだ」

「なんだよ」檜垣が答えた。

「小便させてくれ。朝からずっとしてない。もう洩れそうなんだ」

「ちぇ、も少し我慢しな」

「もう駄目だ。頼む、させてくれ。出ちまう。ここら辺がびしょびしょになるぞ」

 檜垣は顔を顰めた。余計な後始末はしたくなかった。やれやれと肩をすくめて立ち上がった。

「しょうがねえ。おい唐沢」

 唐沢が煙草の火を消し近寄って来て、椅子に備え付けの拘束具に手を掛けた。檜垣は腰から拳銃を抜き、阿南に向けて構えた。

「妙な気を起こすんじゃねえ。分かってるな」

 拘束が完全に解け、阿南はゆっくりと立ち上がった。苦痛に顔が歪む。よろよろと便所へ向けて歩き出す。便所は部屋の隅に設けてあった。前日も使ったので、 場所や要領は分かっている。阿南は視線を左右に振った。四つ並んだロッカーの位置を確認した。それが彼の生命線だ。檜垣たちは油断なく阿南のすぐ後ろにぴ たりと付いている。

 阿南は歩くのも辛いといった風情で、一歩一歩進んでいった。

「さっさと歩けよ、コラ」という唐沢の声も無視した。

 ここは体力があると思わせてはならない。あまりに大きな戦力差を縮めるには、敵の油断を誘うのが必須条件なのだ。

 やっと便所の粗末な木製のドアの前に立った。ドアは当然の如く開け放しにされた。

「ほら、とっととやれ」

 檜垣と唐沢はドアの両脇に立って、汚い便器の前にいる阿南を見張った。阿南は左手でファスナーを上げ、手を突っ込んで泌尿器を掴み出した。

 彼らが阿南に手錠を掛けなかったのは、これが理由だった。他人の一物に触りたくなかったのだ。

 阿南は実際に尿をほとばしらせた。血が混じって茶褐色になっていた。長い放尿の後、膀胱を空にした阿南は、いきなりううっ、と呻いて床に座り込んだ。見張りの二人は驚いて身を乗り出した。

「おい、どうした!」

 狭い便所の壁に背中を付けて、阿南は苦痛に歯を喰いしばった顔を見せた。見張りは心配そうにその顔を覗き込む。その間、左手は密かに動いてズボンの腰に挟んだ道具を握りこんだ。

「急に腹が...」

「ふん。そんなの知るか。早く立て」

 檜垣は拳銃をズボンの間に挟み、阿南の右腕を抱え、引っ張り起こす。阿南は足に力を入れて立ち上がった。

 その刹那、檜垣は大きく目を剥き、口をあんぐりと開け、息を呑み込んだ。

 檜垣の胸に、阿南の放った飛び出しナイフが柄本まで食い込んでいた。鮮血が溢れ、ジャンバーに大きく赤い染みが広がった。

 阿南は檜垣の体を掴み、振り回して唐沢にぶち当てた。唐沢の顔に檜垣の頭が命中し、唐沢は鼻を押さえてよろめく。

 檜垣の体を放した阿南は、うつ伏せに倒れた檜垣の腰にある拳銃を掴んだ。唐沢は見ているだけだ。

「動くな」

 銃口は唐沢の胸を狙っている。だが、唐沢に動揺の色はない。ありったけの憎悪を込めて阿南を睨む。

「撃てよ。撃ってみな」

 唐沢が拳を握りしめて一歩近づいた。阿南は遠慮なく引き金を引いた。

 かちり。

 拳銃から響いたのは、小さな機械音だけだった。唐沢の蹴りがまともに阿南の胸に入った。阿南は勢い良く後方に転がされた。唐沢は白い歯を見せて檜垣の体をまたいだ。

「へへっ。馬鹿め。弾は最初から入ってねえんだ。こういう危険は折込みずみってことさ。形勢逆転だな」

 阿南は右手の痛みを堪えながらずり下がった。唐沢が獣のように喚いて飛びかかった。阿南は体を捻り、かろうじてかわし、立ち上がった。

 体力の衰えた阿南の動きは鈍い。いち早く立った唐沢のストレートを顎にもらった。続けてフックがこめかみに決まる。阿南はくるりと一回転し、後方へ吹っ飛 んだ。どうにか態勢を取り、崩れ落ちるのは避けた。銃はどこかになくなっていた。両手を挙げてボクシングの構えを作った。

「へっ。その手で対抗できるか。無理無理。お前、死にたがってたよな。いいぜ。おれが今、ここで殺してやる」

 唐沢が猛然と突っ込んできた。阿南は遅い左ストレートを繰り出す。唐沢は簡単にそれを避け、阿南の鳩尾にパンチをめり込ませた。

 阿南は血を吐いた。さらに強烈なアッパーカットが顎を砕く。阿南はよろよろと後退し、バランスを失い後ろへ倒れる。後頭部が固い鉄板に当たり、鈍い音が立った。

 きわめて緩慢に動く阿南を見た唐沢は勝利を確信し、にやりと笑った。

「へへ、望み通りにしてやる」ズボンのポケットからバタフライナイフを取り出した。こ れで勝負はほぼ決まった。ロッカーに取り縋って立ち上がろうとする阿南を見守りながら、余裕を持って手首を振る。ナイフの刃先が煌いた。

 ファーストチルドレン、あなたを信じる。阿南の運命の刻だった。彼は震える手で右から2番目のロッカーを開けた。

 唐沢は阿南の不可解な行動をただ見つめるだけだった。こいつ、何を血迷った?やがて振り向いた阿南の左手にある物を見て驚愕した。

 阿南は銃を握っている。その先端は間違いなく唐沢の胸を捉えている。

 なんのためらいもなく、阿南は撃った。瞬間、唐沢の胸に穴が開いた。銃声が大きく室内に響いた。

 唐沢はゆっくり床に膝を付いた。口をぽかんと開け、目の焦点は合っていない。阿南は二歩近づき、もう一発撃った。額の真ん中に小さな穴が開き、血が飛び 散った。既に魂を失った唐沢の体は前のめりに倒れた。後頭部には、銃弾の貫通によってできた大きめの穴が見える。そこから鮮血が溢れ出し、床に丸く血溜ま りが拡がっていく。

 阿南の危機は去ったわけではない。ここはおそらく地下。地上には誰かが残っていると考えた方がいい。阿南は痛む体を引き摺り、出口へ進んだ。足音が聞こえた。幸い勘は当った。阿南は出口の脇にひっそりと身を置く。扉が勢い良く開き、若い男が飛び込んできた。

「おい、どうした。うわっ!」

 男は拷問部屋の惨状に驚愕して叫んだ。阿南の冷やかな声が男の肝をさらに縮めた。

「動くな」

 男は一瞬凍りついたようになった。

「手を挙げろ。すぐ撃ってもいいぞ」男はおずおずと両手を挙げた。阿南は向こうを向いたままの男の背中に銃口を付けた。

「上にまだ誰かいるのか?」

「いや、いない。おれが最後の一人だ」

「上に行け。少しでも妙な動きをしたら、すぐさまぶっ放す」

 男は唾を飲み込んで頷いた。阿南は一歩横に動いて男に道を開いた。男が大声で喚いた。

「撃たないでくれ、頼む!」

「大人しくしてれば撃たない」

 二人は密着して出口に向った。阿南の銃は男の背中に付きっぱなしだ。

 扉の向こうには階段があるだけだった。コンクリートの壁が剥きだしの素っ気無い空間だ。二人は靴音を響かせ上がって行った。上りきると2mほどある廊下の向こうにドアがあった。男はゆっくりとノブを掴んで開けた。阿南はようやく太陽の光差す室内の光景を見た。

 突然、阿南は銃杷で男の後頭部を殴った。男は床に両膝をつく。阿南はドアと男の間にある狭い隙間に身を躍らせた。

 床で一回転してドアの方を振り返ると、長身の男がバットを高く掲げているのが目に入った。その男は目を丸くして阿南を見ている。

 阿南の銃から、甲高い発射音が轟いた。銃弾は顎を砕いて脳を貫き、一瞬で男の命を奪った。銃を握った阿南の腕を、床に倒れた若い男が掴んだ。

「この異教徒 がああああっ!」男は凄まじい怒りの形相で銃をもぎ取ろうとする。男の力は強く、片手の利かない阿南は不利な立場に立った。

 南無三。阿南は包帯 に包まれた右拳を男の顔面に叩き込んだ。指先がちぎれるような激痛に阿南は悲鳴を上げた。それでもパンチの効果はあり、男の力が緩んだ。阿南は腕を振り切 ると至近距離から男の胸を撃った。一発、二発。男のTシャツが裂け、見る間に血に染まった。若い男は目を開けたまま力を失い横たわった。

 阿南は正座し、右手の痛みに涙を零しながら休んだ。二つの死体を見つめながら、荒い息が静まるのを待った。

 やがて息が整った阿南はのろのろと立ち上がった。若い方を見ながら呟いた。

「お前、やけに大声で撃つなと言ったな。あれでピンと来たんだ。上に仲間がいる。そいつに知らせるために喚いたんだってな」

 阿南はようやく周囲を見回した。がらんとした広い空間。シャッターの下りた広い窓。隅に空のショーケースが四つ、固めて置いてある。天井近くにある細い窓 から外の光が差し込んできている。何かの商店の跡だ。とうにつぶれて主のいなくなった廃墟。今ではリリス教徒の巣になってしまった。

 使徒警報は 鳴り止まない。阿南は一通り建物の中を調べ、安全を確認すると、迷わず次の行動に移った。まずは本部に連絡を入れる。それが本筋だろう。そのころには体の あちこちが悲鳴を上げていた。それでも何とか忌まわしい拷問部屋に戻ろうとする。上着がそこにあった。携帯電話もおそらくある。

 途中、忘れていた言葉を思い出し、虚空を見上げて口に出した。

「ありがとう、ファーストチルドレン」

 周囲には何の変化もなく、警報の音が聞こえるだけだった。阿南は視線を下に向けて階段を下った。

 

 

 エヴァンゲリオンを格納した8機の超大型輸送機は、低速でジオフロント上空と第四新東京市との中間空域を旋回していた。

『第130使徒は間もなく第四の上空に差し掛かる。奴が今いる空域まで来た時点で、一気に高空から奇襲だ。何か質問は?』

 栗林がいつものリラックスした口調で問いかけてきた。チルドレンは口々に答えた。

『特にありません』

『訓練通りにやればいいってことですよね』

「敵の攻撃手段はあの触手だけでしょうか?」ハルカが尋ねた。

『現時点で考えられるのはそれだけだ。あの形から考えて上部の防御は甘い。そこを一斉に突く』

「腹に生えた触手がなんの役割を持つのか気になります」

『どんな可能性があるか、BOSATSUが懸命に検討している。結論が出次第、報告する』

『あれ、よく見たら、クラゲに似てますよね』チヒロが割り込み、他のチルドレンが反応した。

『そうそう。脳味噌にも似てる』

『脳味噌クラゲって呼ぼうよ』

『あ、それ、賛成』

 栗林は軽く笑った。

『はは。いいネーミングだ。そう呼ぶことにしよう』

 ハルカも含み笑いをした。リーダーとしては概ね満足していた。これまでは順調に来ている。パイロット達も固さが見えない。

 ただ、胸の中には不安がわだかまっている。敵の正体が完全に分かったわけではない。特にあの無数の触手は何を物語るのだろうか。

 

 

『おお。阿南、生きていたか!』

 相沢次長の快活な声が聞こえて来た。阿南はまだリリス教徒のアジトにいて、上着を取り戻し、携帯電話を使っている。

「かろうじて。生きているのが不思議なくらいです。次長、大変な発見です。美濃浦がいました。それから飯田殺しの犯人達も。人を出せませんか?奴らは今、使徒を歓迎しに行ってます」

 相沢が息を呑むのが分かった。

『すごい!分かった。この機を逃がしてなるもんか。シェルターに引っ込んだ部員に連絡して、外に出させる。なあに、どうせ危険はないさ』

「これから外に出てここの位置を確認します」

 阿南は通用口を出て、当りを見回した。好天の中、太陽光の眩しさに目をしばたたいた。さすがに人っ子一人いない。無人の街に警報の音だけが響いている。信号機を見つけ、その下にさがった看板を読んだ。

「青木平1丁目。その交差点があります。ここはすぐそばの廃店舗」

『美濃浦たちはどっちに行った?』

「北です。一旦真柄ジロウの家に行くと言ってました。例の銃器隠匿事件の犯人」

『そんな奴までいたか』

「あいつら、手配書とは全然違う印象にしてます。美濃浦にいたっては体重55kgの痩せ男ですよ。よく観察しないと見分けられない」

『そうか。特徴をくわしく言ってくれ』

「それからマサト殺害も、檜垣の容疑が濃くなりました。あいつホワイトソックスの黒いジャンバーを着てました。例のXだ!」

『おお。上手くすりゃ、全部の事件が片付くな!大変な手柄になるぞ!』

「僕はどうしたらいいですか?残念ながら荒事はもう無理です。正直、ぶっ倒れそうなんだ」

『ああ、分かった。迎えをやる。どっか目立たないところに隠れていろ。アジトを見張っててくれるだけでいい』

「そう言ってくれると助かります」

 阿南は歩きながら、身を隠すのに適当な場所を選んだ。向かい側に一杯飲み屋が並んだ路地がある。そこが最も都合が良さそうだ。

 

 

 第四新東京市は外見上、無人の都市となった。どの道路も人影は無く、絶え間なく響くサイレンだけがこの場を支配している。だが地中の各所には追い立てられ た人々が、警報の解除をひたすら待っていた。最悪の場合、フォースインパクトが勃発し、この世の終わりが来る。その恐怖に苛まれる者も少なくない。信仰を 持つ者は神に祈り、そうでない者は各自なりの仕方で不安を払拭しようと努める。泣き叫ぶ我が子を懸命に宥める母親がいる。そのそばでは若いカップルが身を 寄せ合い、共にぶつぶつと何かを呟く。あえて大声で周囲とおのれを鼓舞する者。

「心配ない、ない。エヴァが負けるもんか!」そう言う者ほどせり上がってく る恐怖と戦っている。

 シェルターは多数の人々で埋まっていたが、総じて静寂が支配し、身動きする者も少なかった。彼らが危惧するのはエヴァンゲリオンの敗北だけであった。彼ら自身は安全なシェルターの中にあって、ただ結果を待つ他はない。自分達に直接危害が及ぶなどとは考えてもいない。

 

 

 誰もいない舗道に数人の男達が湧き出た。美濃浦を筆頭とするリリス教徒だ。彼らは8人に数を増やしていた。美濃浦はさすがに銀のガウンを脱ぎ、平凡な背広姿にしていた。

 教祖は傍らの真柄に尋ねた。

「この辺に監視カメラはないだろうな?」

「ないです。こんな寂しい郊外ですからね」

「いいぞ。おお、そこに公園があるな。あそこなら使徒様も目に止めやすいだろう」

 教祖は率先して無人の公園に入って行った。野球用のグラウンドの真ん中に8人は固まって立った。揃って使徒が飛来するはずの方向を見上げる。

 高空を戦闘機群が編隊を組んで飛び去っていく。もう使徒が見えていい時刻だ。

「あ、来ました!」

 信徒の一人が叫んで、遠い山の稜線を指差した。美濃浦は真柄が持つ双眼鏡を引ったくり、両目に当てて近づく物体を観察した。

 さすがの教祖も身に戦慄が走るのを抑えられなかった。

 それは彼の予想をはるかに上回る奇怪な姿をしていた。地獄からの使者とした方が妥当なおぞましさ。だが、使徒に違いはない。彼は一瞬感じた嫌悪の念を深く愧じた。

「使徒様はまっすぐこちらに向かってくるぞ。皆膝まずけ」彼を除く7人が、一斉に地に膝を付いた。美濃浦もそれに続いた。

「イア・リリス!」

 信徒らが同じ言葉を繰り返した。公園に幾度もリリスを讃える言葉が響いた。

 使徒の姿がいよいよ大きく見えるようになった。教祖の後ろに控える信徒達は明らかに動揺していた。誰もが初めて目にする恐るべき姿だった。美濃浦は内心の恐怖を押し込め、泰然とした風を装い続けた。従う信徒らは教祖の手前、一歩も動けなかった。

 使徒はますます接近し、その細部がはっきりとしだした。それはごく低空を飛んでいるのだ。

 教祖は遂に立ち上がり叫んだ。

「使徒様!我らはリリス様の子。御身のご来訪を寿ぎに参りました。なにとぞネオ・ネルフの子鬼どもを打ち滅ぼし、リリス様と我らによる新世界の到来をもたらしたまえ!」

 使徒は遂にリリス教徒らの直上に達した。その時、教祖・美濃浦でさえ予想しなかった変化が使徒に起きた。

 

 

「使徒停止!」

 キムが叫び、作戦指令室に動揺が走った。スクリーン上では、第130使徒を示す光点が、一箇所にとどまり、点滅している。

「おい、変だぞ!」

「どういうことだ!」

「故障か?」

 これまで一度もなかった使徒の行動パターンだった。リリスと関係のない地点に停止するとはどういうことなのか。指令室は疑問を口にする声で溢れた。

「監視強化!すぐにヘリを増援!急げ!」そう叫ぶ栗林の声には焦りが含まれていた。

 

 

「おお、使徒様が我らの声を聞き、この場にとどまられた。なんたる感激!」

 リリス教徒たちは確かに感動していた。奇蹟が起こり、今ここに使徒と人類との対話が実現しようとしている。誰もがそう思った。

 教祖は両手を広げ、大声で呼びかけた。

「使徒様!なにとぞ我ら同胞にお言葉を賜りますよう!」

 使徒は大触手を広げ、高度を下げた。腹に突き出た数百の小触手が一層迫った。やがて空中に静止した使徒を、美濃浦らは言葉もなく見守る。

 触手と触手の間隔が一斉に開き、傘が広がったようになった。次なる変化も、美濃浦達の度肝を抜くのに十分だった。

 白い触手の先端が蠢き、奥から目が飛び出た。兎のような真っ赤な目だ。それがすべての小触手で起きた。今、彼らは使徒の数百の目に見つめられているのだ。

 その光景の奇怪さは美濃浦をたじろがせ、彼は一歩足を引いた。だが、教祖の誇りにかけて逃げ出すことはしなかった。他の信徒も恐怖と戦いつつ使徒を仰ぎ見た。

 次に彼らはかつて聞いたことのない轟きを耳にした。それは使徒が発する、腹に響く低音の、長く揺れる咆哮だった。どこか慟哭を思わせる調子をもっていた。

「泣いておられる...」

 美濃浦は感に堪えず呟いた。使徒様は悲しんでおられる。

 そして、実際に目の縁に液体が溢れるのを彼は見た。使徒様の涙!畏敬の念を持って彼は合掌した。その涙が零れ落ちた瞬間、彼はそれに触れたいと思った。あれは聖なる涙だ。

 彼の願いは一瞬後に叶った。巨大な雨粒のような液体が彼を濡らした。

 瞬時に彼の上半身は消えてなくなった。代わって黄色い煙があたりに立ち込めた。残った下半身も地に倒れるとほぼ同時に消えた。使徒の涙は激しい雨となって地表を打ち、無数の穴を穿った。

 残りの信徒も教祖と同じ最期を迎えた。公園は使徒が落とす溶解液の雨を浴び、瞬く間に全く異なる様相に変った。

 

 

 作戦指令室では、誰もが眼前に繰り広げられる惨禍に動揺していた。

 キムの叫びには悲痛な色が混じった。

「使徒が街を攻撃しています!あれは溶解液だ!信じられない!」

 スクリーンには、ヘリから送られる使徒の様子が映し出されている。

 使徒は高度を220mまで下げ、白い触手から雨を降らせながら移動している。雨が落ちた場所はたちまち黄色い煙を上げ、崩壊していく。次々と建物は溶け崩 れ、さらには残骸までもが黄色のガスを放って形を失う。後には深い穴が残り、何やら黒くどろどろしたものが溜まっていく。

「このままでは第四が壊滅します。予定を変更して、すぐに攻撃を仕掛けましょう!」栗林が背後を振り向いて、フォン・アイネムに進言した。

 総司令は冷静に答えた。

「許可する。急行させろ」

 栗林は即座に輸送機群に向けて回線を開いた。総司令は傍らの信時に言った。

「敵は戦略まで覚えた。いよいよ容易ならざる相手になってきたな」

 信時のこめかみには汗が光り、言葉に恐怖が滲んだ。

「我らの補給路を断つ積もりか?」

「そう取るべきだろう。兵糧攻めと言ってもいい。まだ空路があるので、完全とはいかんが。ただ、このダメージは大きい」

「相手を選ばぬ無差別攻撃。そこまでやって来るとは!」

「敵も利巧になったということだ。そして、この攻撃の最大の効果は恐怖だ」

「恐怖?」

「そうだ。この世界に安全な場所など、どこにも無くなった、ということだよ」

 

 

 阿南が耳に当てる携帯電話から、相沢の切羽詰った声が聞こえた。

『阿南、作戦は中止だ。すぐにそこから逃げろ。使徒が街を攻撃してる。街を溶かしてるんだ!』

「何ですって!」さしもの阿南も生命の危険が迫っていることに動揺した。

「使徒が街を攻撃するなんてありえない」

『現にそれが起きているんだ。通りに出て、北を見てみろ』

 阿南は隠れ場所を出て、目抜き通りに出た。北を望見した彼は信じ難い光景を見た。

 奇怪極まる使徒の姿。その下から発生する猛烈な量の黄色い煙。幸い風は北向きに吹き、こちらに流れてこない。

「逃げるって、どこに逃げればいいんですか?」

『シェルターはもう完全閉鎖された。とにかく使徒から遠ざかれ。ビルに逃げ込んでも駄目だ。ビルごと溶かされるぞ!』

 阿南は目を剥いて使徒を見つめた。恐怖に背筋が凍った。それは原初的な、天敵に追われる下位動物の恐怖であった。

 使徒は真っ直ぐに阿南がいる場所に向ってくる。その姿はますます鮮明になり、雨音までが耳に届いてくる。

「通信終了!逃げます!」

 阿南はそれだけ言い、通話を切った。後は必死に通りを走った。ひたすらあいつから遠ざかること、それしか頭になかった。空腹と体中に残る痛みが、重いハンデになった。

 

 

 ハルカは唇を噛み、使徒への憎悪をたぎらせていた。第四新東京市はチルドレンにとっても大切な街だ。お気に入りの場所がいくつもある。その街が今、破壊されようとしている。

『作戦空域に達した。順次出すぞ』輸送機のナビゲーターの声が聞こえた。

「了解。1号機出ます」

 超大型輸送機の底部がゆっくりと開き、エヴァンゲリオン1号機は背中から空中にせり出した。

『1号機、検索具開放まで5秒。4、3、2、1。ゴー!』

 がくん、と一揺れした後、1号機とハルカは1万mの高空から宙に投げ出された。間を置かず体を捻り、ダイビングの姿勢を取る。左右を見回すと他の7機も僅かに遅れて降下していた。各機は手に得意の武器をしっかりと握りしめ、弾丸のように戦場へと飛び込んで行く。

「高度2千までこのまま落ちるわ。私から離れすぎないように調整してよ」

 了解、と7機が答えた。エヴァ8機は両手両足を大きく広げ、輪形を取り自由落下していった。目的地は第四新東京市上空。目指すは第130使徒の殲滅。

 

 

 使徒は落ち着きなく飛行コースを変えていた。最初阿南は使徒の進行方向を見定め、確実に進路から外れるように走り出したつもりだった。ところが、ビルの崩 壊音が意外に近く聞こえ、振り向くと、使徒がずっと近距離にいるのに気づき、色を失った。それは阿南がいる場所に見る見る迫って来る。

 立ち止 まっている場合ではない。阿南は憑かれたように走り続けた。息はとうにふいごのように荒く、関節が悲鳴を上げる。汗だくになりながら、後ろを振り返ると、 使徒の姿が細部まではっきりと見える。まるで阿南を追って来るかのようだ。溶解液の豪雨は衰えを見せない。下からはもうもうと黄色の煙が巻き起こる。建物 の崩落する音が、世界の崩壊を告げるかのようにいつまでも轟く。その音に混じって使徒の哭く声が嫋々と響き渡るのだ。それは愚かな人類の所業を嘆き悲しむ 声なのか。

 使徒と阿南との距離はますます近くなった。阿南の本能は今さら方向転換をしたところで間に合わないことを告げていた。彼はひたすら 真っ直ぐ前を向いて走った。心臓の鼓動は割れんばかりだ。体力の限界はもう、すぐそこにきている。溶解液が地を穿つ音がはっきりと聞き取れた。化学変化に よって発生した煙の臭いまでが感じられた。

 もうだめか、と思った阿南に希望の建物の形が目に入った。第四新東京駅。ジオフロントに通じる鉄道トンネルがすぐそこにある。

 最後の気力を振り絞って、阿南は足を速めた。駅舎には入らなかった。どうせ閉鎖されていると思った。阿南はさらに走って、金網のフェンスがある場所まで来 た。跳躍して右手をフェンスの頂に掛ける。激痛に悲鳴を上げながらもかろうじて支え、左手で金網を掴む。どうにかフェンスの上に登りきった阿南は駅舎の方 を見た。見えたのは溶解液の雨と黄色い煙だけだった。使徒はずっと上にいるのだ。つまり、すぐそこまで来ている。

 フェンスから飛び降りた阿南は、砂利を踏みしめ、鉄路に入った。下り坂の向こうにトンネルが見える。後はそこに飛び込むだけだ。

 ひた走る阿南の耳に、溶解液が立てるジュッという音が入って来た。彼は振り向きもせずに走った。ジュッ、ジュッという音が次第に近づく。彼の顔は恐怖に引き攣る。背中のすぐ後ろでジュッと音がする。

 次の雨滴はトンネルの庇が受け止めた。たちまち崩壊して阿南の背後に大音響を立てて落ちた。阿南は長く延びた庇状の構造物によって僅かな時間を稼げた。ト ンネル本体に入ってもまだ危機は続く。溶解液は地上近い部分を易々と溶かし尽くす。トンネル入り口はどろどろの黒い物体で埋まっていった。ガスが充満し、 吐き気を催すような臭いが阿南の鼻を衝く。

 暗いトンネルの中で、とうとう阿南は枕木に躓いて前のめりに倒れた。目から火花が出た。それでも、阿南は立ち上がり、前に進んだ。最早走ることはできなかった。半ば意識朦朧となりながら、よろよろと地下の深みを目指し、歩を進めた。

 

 

「高度2300、2100。みんな、行くわよ!ATフィールド展開!羽を広げて!」

 ハルカはインダクション・レバーを引き、ATフィールドを張った。1号機の背中からは、片方で50mに及ぶ白い翼が瞬時に飛び出した。他の7機も同様に羽を伸ばし、エヴァ全機は滑空に入った。はるか下には使徒の楕円に近い頭部が見えている。

 高空から見る地上の光景は、あたかも第四新東京市という一枚の葉が、害虫に食い荒らされているかのように見えた。黒い帯状の溝が市街地を飲み込み、長く長く伸びていく。

「あいつを中心に旋回する。みんな、私の後に続いて!」

 1号機は機体を傾け、左旋回に入った。その後を8号機が続き、順次所定の位置に着いた8機は使徒の真上を確保した。

 ハルカは座席上部からバイザーを引き出し、視界を覆った。使徒が蠢く様が小さく見える。

「全機ミサイル、ロックオンせよ」言いながらハルカは制御装置のつまみを操った。バイザーの中で、赤い三角が動き、使徒と重なった瞬間、装置のボタンを押す。三角が黄色に変わり、点滅した。僚機からは矢継ぎ早にロックオン完了の報告が入る。

 ハルカは彼我の位置関係をモニターで確認し、指令室に告げた。

「攻撃準備よし。行きます!」

『オーケー。健闘を祈る』

「みんな、いいわね?行くわよ。レディ、ゴー!」

 エヴァ各機は翼をすぼめ、垂直飛行に入った。猛禽が獲物を襲うかのように使徒に急迫していく。ハルカの眼前では、スクリーン一杯に広がった大地が急激に大きさを増していく。

「マシンガン斉射。ぶっ放して!」

 後衛4機が持つバレットマシンガンが火蓋を切った。使徒の頭部に弾痕の列が刻まれた。敵ATフィールドは中和されたのだ。

「全機ミサイル発射!」

 翼の根元にはミサイルが2本、標準装備されている。今、高空から16本のミサイルが打ち出され、白煙を引きながら使徒めがけて駆け下りていく。

 使徒の頭部で立て続けに爆発が起こった。一瞬、使徒は真っ赤なもので覆い尽くされた。それが収まったとき、使徒の頭部は赤くまだらに染まっていた。前回の使徒戦を教訓に考案されたペイント弾だった。中身は粘りつく液体で、目潰しとして効果が期待されている。

「高度500。後衛はその場で待機。前衛は私に続く。やっつけるわよ!」

 後衛4機は翼を広げ、中空で羽ばたく動作をした。ホバリングの状態でマシンガンを構え使徒を狙う。前衛はそのまま使徒めがけて急降下を続けた。手にするのは使徒戦の切り札、ロンギヌスの槍。

『ハルカ!一番槍は私がもらった!』チヒロの叫び声が聞こえた。チヒロが駆る8号機が他機より僅かに先行していた。

「ゆずった!」ハルカは叫び返した。使徒の皺だらけの頭部が視界いっぱいに拡がった。

 8号機は翼を大きく広げ急ブレーキをかけ、爪先を使徒に向けると、力一杯槍を突き刺した。やや遅れて1号機も同じように突きを入れた。2号機、3号機が続く。

 刺した瞬間の感触が異様だった。まるで手ごたえがない。豆腐に針を刺すような感じがした。

 チヒロが怪訝そうな声を出した。

『何?変だよ、これ』

『柔らかい』

『ぶよぶよしてるよ』

 ユリコとユキエも面食らったようだ。ハルカは予想外の結果に焦りながらも、指示を下す。

「第1次攻撃終了。一旦引き返す。羽ばたいて!」

 各機は大きく羽ばたき、高度を取ろうとする。だが、使徒の肉体の奥で変化が起こった。槍の穂先が突如握られたかのように、びくとも動かなくなったのだ。

『槍が抜けない!』ユリコの叫びが響いた。1号機は羽ばたきを強め、反動を得ようと使徒の肉に足を付けた。が、その足はずぶずぶとめり込んでしまう。はまった 足を締め付ける感触が発生する。ハルカはぞっとして足を抜かせた。抵抗する強い力があったが、かろうじて引き抜いた。

「こいつの体自体が罠よ!はまらないで!」

『触手がいくぞ!注意しろ!』栗林の叫びが届いた。使徒は長い触手をめちゃめちゃに振り回し、頭上に差し向けてきた。使徒の上部の目は塗料によって機能を失っていた。精度は欠くが、8本も振り回せば、どれかに当る確率は高い。

「仕方ない。離脱します。みんな、槍を放して。真っ直ぐ上に飛ぶ!」

 4機は一斉に上方に逃げた。一本の触手が1号機の足を打ち、バランスを失いかけたが、何とか立て直し使徒から離れた。

 大半を赤く染めた使徒の頭部には4本の槍が残された。この戦闘の間も、使徒の腹から落ちる溶解液の雨は止むことがなかった。使徒は大触手の蠢動を収め、地上の破壊を続行する。

 栗林が新たな作戦を伝えた。

『後衛の4機は使徒を包囲。距離を取りつつ銃撃を浴びせろ。前衛は上空に戻り、輸送機から別の武器を受取れ』

「了解」

 前衛の4機は上昇を始めた。途中ハルカはちらっと下を見た。真っ黒い塊の帯が覚えのある地域に達していた。あそこは例のショッピングセンターがあった辺りだ。ハルカは使徒への憎悪に燃え、黄色い煙にけぶる使徒の頭を睨んだ。

 使徒の左右と後方に位置を取った5号機、6号機、シオリの乗機となった7号機は比較的楽な戦いができた。側面の目が潰され、触手による反撃が闇雲なものに なっていた。夥しい弾丸が使徒の肉体を穿った。だが、はっきりとした効果は白い小触手が数本ちぎれ落ちたことだけだった。

 サヨコが乗る4号機は 難しい操縦をしながら使徒に射撃を加えた。4号機は使徒の正面にあって、後退しながら銃撃を行う。使徒の前面にある大目玉は健在だった。大触手を振り回 し、4号機を打とうと前進して来る。サヨコはそれを避けつつ、と言って離れすぎないよう、間隔を調整しながら操縦しなければならなかった。あまり離れると ATフィールド中和の効果が無くなるからだ。曳光弾が赤い火線を煌かせ使徒に殺到する。弾丸は確実に使徒の体に穴を開けていく。サヨコは眼球を集中的に 狙った。しかし、そこだけは特別に強いATフィールドが張られているのか、傷一つつかなかった。使徒はなおも悠々と無慈悲な雨を降らせ続けた。

 

 

 高度2千m付近には大型輸送機が待機していた。前衛4機は自機と同一の番号が表示された機を目指して飛んだ。

 1号機は1番輸送機の直下に位置取った。

「1番。真下50mにつけたわ。格納庫がはっきり見える。ソードを落として」

『了解。リリースする』

 直ちに1番輸送機からアクティブソードが投下された。1号機は落下するそれを発止と掴んだ。そのまま位置を保ちながら僚機が武器を補充するのを待った。

 2号機と3号機はデュアルソウを、8号機はハルカと同じアクティブソードを握った。ハルカはチヒロに通信回線を開いた。

「チヒロ、あの触手を切る自信はある?」

『いける』

 栗林から新たな指示が来た。

『前衛は後衛4機をサポート。1号機と8号機は苦戦している4号機の両脇に付け。2号機、3号機は5号機と6号機の横。いいな。行け!』

 4機はすぐさま急降下に入り、激戦が続く戦場へ矢のように突っ込んでいった。

 サヨコは2本の大触手への対応に手を焼いていた。それらは様々な角度から4号機に襲い掛かってくる。一度、4号機の頭部すれすれをかすめたことさえあっ た。4号機がこれまで無事でいられたのは、サヨコの巧みな飛行術のおかげと言ってよかった。4号機と使徒はすでにかなりの時間対峙している。サヨコの緊張 は限界に達しつつある。

『サヨコ、お待たせ!』

『私達がフォローするわ。安心しなさい』

「先輩がた!」

 サヨコの声が弾んだ。1号機と8号機は4号機の両横100mに位置取った。翼と翼が触れ合わんばかりの距離だ。

 使徒が速度を上げ、2本の大触手を大きく広げた。眼前の五月蝿い小鳥を薙ぎ払おうとしている。

「チヒロ!こいつを避けた後、突っ込むよ!」

『了解!いってやる!』

 使徒の大触手が横から猛烈な速さで迫った。3機は間髪入れず後退した。ハルカの視界の前を巨大な塊が一瞬の内に通り過ぎた。

 3機の前で2本の触手が交差した。そして前よりはゆっくりと開いていく。

「さあ、チヒロ。じきにいくわよ」

『いいわよ。リーダーに合わす』

 大触手の先端が1号機のすぐ前に差し掛かった。

「ゴー!!」

 2機のエヴァは最高速で使徒めがけて突っ込んだ。途中で僅かにコースを変えた。狙うは使徒本体ではなく、邪魔な触手だ。根元になるほど動きは遅い。1号機 と8号機は速度を緩め、ソードを振りかぶった。触手が開く動きが止まった。使徒は触手の先端を丸め、2機を掴もうとする。それは、ハルカたちが予想した動 きだった。鱗だらけの触手が近づいてくる。1号機はソードを両手に握り、接近し突き刺した。さらに機体を操り、触手を中心に回転した。青い血が迸り、翼を 濡らした。大触手はあっという間に寸断され、200m下の地面に落下していった。

 同じことが8号機の側でも起こっていた。2本の太く長い触手は墜落し、地響きを立てた。第130使徒は数瞬の内に主戦武器を失った。

『ハルカ、チヒロ。すごいぞ!よくやった!』栗林の明るい声が響いた。背景音に指令室の大歓声が重なった。

 1号機、8号機は使徒から離れ、再び4号機の両横に位置を取った。

 使徒は速度を緩めた。困惑しているようにも見えた。一つ目がせわしなく動いた。

 そして、やにわに飛行コースを変えたのだ。大きく右旋回し、高度を下げた。8機のエヴァは直ちに追随し、包囲網を維持しようとする。使徒の進行方向には市中を流れる川と斜張橋があった。幅のある河川敷が溶解液の餌食になる。と、いきなり溶解液の放出が止まった。

 使徒は市内最大の道路橋の真上で停止した。パイロットたちは使徒が何を意図しているのか掴めず、怪訝に思った。使徒のまだ健在な大触手が下りた。それらは蛇のように橋を支える二本の塔に絡みついた。

 ハルカたちパイロット、さらに作戦指令室で戦況を見守る全員、息を呑む光景が現出した。

 使徒は物凄い力を発揮し、塔を引き抜いたのだ。轟音が周囲に響き亘る。橋は中心部で折れながらも、ワイヤーでつながりながら、空中に差し上げられる。橋の残骸は使徒の頭上まで上がった。一つ目がぐりぐりと動き、ハルカが乗る1号機を捉える。

 使徒は凶暴な害意を孕んだ咆哮を上げた。指令室のオペレーターたちが一瞬怯む。そして使徒は数千トンはあろうかという橋を丸ごと放り投げた。巨大な塊が1 号機めがけて飛んでくる。ハルカは冷静に高度を上げてそれを避けた。吹っ飛んだ橋は1kmは離れたビル群にまで到達した。大質量同士の衝突は凄まじいエネ ルギーを生み、数棟のビルがあっという間に大音響を轟かせ、灰色の煙を沸き立たせて倒壊した。橋は跡形もなく瓦礫となって四散した。煙は勢い良く周囲を飲 み込み、ずっと消えずに残った。

 4機のエヴァは銃撃を再開した。遂に後ろ側に突き出た一本の大触手がちぎれて吹っ飛んだ。青い血が川の水に混じり、白煙を上げる。使徒はまた前進を開始した。その方向には市内で最も高い、市庁舎のビルがある。

 そのビルすれすれを使徒は飛んだ。ビルの前は広大な駐車場だ。驚くべきことに使徒はそこに降りた。数台の乗用車が一片に潰れた。そこから使徒は触手を器用に使って体を起こした。頭が反り返って、市庁舎ビルに四本のロンギヌスの槍が深く刺さった。

 言わば使徒は、高層ビルに背中を預けて迎撃する態勢を取ったのだ。

 これには指令室のスタッフも困惑せざるを得なかった。栗林は額に汗を浮かべてスクリーンを睨み、考え込んだ。やつは何を考えている?

『指令室。状況が変化しました。どうしますか?』

 ハルカの指示を促す声が聞こえる。やがて栗林は決断し、幕僚席を振り返った。

「地上戦に移行します。よろしいですね?」

「ここではそれが適切だろう。そうしたまえ」

 総司令の承認を得た栗林は、マイクを取って全機に命令を下した。

「全機、地上に降りろ。各自、適当な場所を探せ。さらにビル群を遮蔽物として接近する。位置は追って指示する。以上だ」

 ハルカの1号機はあるオフィスビルの屋上に柔らかく降りた。翼を畳み込み、重く感じられる機体を操って回りを見渡した。他の機も同じようにビルの屋上に降りていた。使徒の姿はここからでは一部しか見えなかった。

 1号機は端から足を下ろし、飛び降りた。振動によって周囲のビルを覆う窓ガラスが一斉に割れ、歩道を埋めた。ハルカにそれを気に留める余裕はなかった。

『マップを送る。各機頭に入れてくれ』キムの声と共に、線描の地図が開いた。エヴァ全機が赤くプロットされ、番号が表示されている。中央に大きな三角が点滅していて、使徒を表している。

『後衛はあまり近づくな。直ちに銃撃に移れる場所を確保。前衛は逆にできるだけ接近しろ』

 1号機は使徒から2ブロック離れた場所にいる。ハルカは1号機の姿勢を低くさせ、走らせた。大きなデパートまで機体を運び、端から首を出して市庁舎ビルの方角を見る。斜め前方に使徒の不気味な姿が見えた。それは腹の触手をだらりと下げ、休息しているかに見える。

 一歩後退した1号機は、大バーゲンセールと書かれた垂れ幕の横に片膝を付き、ソードを地に置いて、次の指示を待った。ハルカはマップで各機の動きを注視し た。チヒロの8号機は市庁舎ビルの反対側にいた。ユリコの2号機は1号機と対称をなす使徒の左側、ユキエの3号機は堂々使徒の正面位置に身を隠している。 後衛の残り4機は一回り後ろに位置を取った。

『ようし。位置取りはそんなもんだ。まず前衛がATフィールドを展開、敵フィールドを中和する。始めっ』

 栗林の命令一下、4機はATフィールドを展開する。

『後衛出ろ。撃て。撃ちまくれ!』

 一気に姿を現した4号機ら後衛4機は同時に火蓋を切った。曳光弾が繁華街を飛び交う。使徒の小触手が数本ちぎれ飛ぶ。

 と、使徒は目覚めたように腹の触手を立ち上がらせた。数百に及ぶ目が自分に逆らう子鬼ともを睨み据えた。そして咆哮と共に使徒は溶解液を放出したのだ。その勢いは凄まじく、遠く2ブロック離れたエヴァ4機まで易々と届いた。

 被害は正面に立った4号機、5号機が甚大だった。装甲各所に穴が開き、黄色い煙が立ち昇った。マシンガンの銃身が溶け、ぐにゃりと曲がって落ちた。

『きゃあっ』

『あ、熱い』サヨコとルミの悲鳴が聞こえた。

『まずい!下がれ!』

 栗林の下命は絶叫になった。予想だにしなかった敵の遠距離攻撃だ。後衛4機は泡を食って後退した。機体から黄色い煙がたなびいた。

 使徒の周辺は煙と臭いが充満した。使徒は広く扇形に溶解液を撒き散らしている。そこらじゅうがたちまちの内に黒いどろどろしたものに変っていく。高層ビルの鉄骨が溶け、音を立てて崩壊していく。

 ハルカは黄色い煙に視界を奪われ、平静を失った。どうすればいい?この場所もすぐに安全ではなくなる。自分も後退すべきなのか?

 チヒロには秘策があった。8号機は市庁舎ビルのガラス窓を指で突き破りながら、着実に登っていった。

『チヒロ!何をやってる!?』栗林の怒声が来た。チヒロは平気な顔で答えた。

「私に考えがあります!ここは任せて!」

『上から行くのか?いいだろう。任せる』

「感謝!」

 8号機はビルの屋上まで登りきると、すぐさま反対側に走った。屋上のコンクリートが重量に負けて、大きくひびが入った。使徒の真上に来た8号機は身を乗り 出して下を覗いた。使徒は盛んに溶解液を放出し続けている。周囲は黄色いガスで覆われた地獄谷の様相を呈し、ハルカが潜むデパートも半分が溶けてなくなっ ている。

 8号機はソードを逆手に持ち替え、身を宙に躍らせた。

 使徒の体が急速に迫る。チヒロが狙うのはただ一点、前面の大目玉だ。いかに強いATフィールドを張り廻らそうとも、落下エネルギーの加わったソードに破れないはずがない。空中でソードを構える。

 ソードの先端が使徒の目に激突した。目玉の前で八角形の干渉縞が広がった。が、それも一瞬、ソードはATフィールドを貫き、目玉に食い込んだ。刃先は根元まで見えなくなり、体液が飛び散った。

 使徒の苦痛を湛えた絶叫が周囲を揺るがした。8号機は頭部に機体が半ば見えなくなるまでめり込み、あせったチヒロは無茶苦茶に手足を動かさせて機体を起こ した。ロンギヌスの槍が見えた。それはビルにしっかりと突き刺さっている。8号機はそれを両手で握り、渾身の力で体を水平に伸ばした。

 使徒は8号機に背中を蹴り飛ばされた格好になった。バランスを失った使徒は前のめりに倒れる。自ら放った液に浸かった。しかし、分子構造の特性か、使徒の体は溶けない。液の放出は止まった。これで戦闘の帰趨はほぼ決まった。

 使徒の傍らに下り立った8号機は、どうするか迷った。ソードは目に突き刺さったままだ。

 1号機のハルカはこの好機を見逃さなかった。すぐさま1号機を走らせ、使徒に接近した。

「チヒロ、やったね!大手柄!」

『へへっ。すごいでしょ』

 だが、まだ使徒は死んでいない。目を失った使徒は大触手をやたらと振り回し、敵を牽制するが、勢いが弱い。その様は怯えているようにも見えた。使徒の前には溶解液が作った深く広い穴がある。

 2号機と3号機も現場に到着した。チヒロが楽しそうに提案した。

『ね、みんなでさ、あいつを穴に落としちゃおうか』

『あ、それいいかも』

『サヨコが触手の中にコアを見つけたそうよ。ひっくり返せば見えるよ、きっと』

 栗林が割って入った。

『気をつけろ。奴はまだ生きてるんだからな』

「よし。今のうちに触手を掴んで引っ張りましょう。みんな一斉に。レディ、ゴー!」

 4機は慎重に触手の動きを見極め、駆け寄って抱え込んだ。後ろ側を掴んだ1号機と8号機は翼を広げて上昇した。2号機と3号機はしっかりと触手を引っ張り 支える。使徒の体が尻を上にして縦になった。

「いちにのさん!」四機が呼吸を合わせて手を放すと、使徒は完全に裏返しになり、穴に落ちた。地面が槍を押し 出したために、腹から先端が突き出し、体液が噴出した。

 使徒は何百とある白い触手を蠢かせ、苦しみに喘いでいるようだ。目を襲った一撃が決定的だったのだろう。ハルカは一抹の哀れみを感じた。

『あ、あそこ。コアが見えた』チヒロの8号機が使徒の中央部分を指さした。ハルカも触手の草むらの中に赤い球体を認めた。

「終わらすわ。チヒロ、あっちの槍を抜いて、止めを刺して」

『私が?』

「勿論。あなたの獲物よ」

『さすがリーダー。分かってるじゃない』

 チヒロは機嫌良く8号機を、ビルに残った槍に向けて飛ばした。

 

 

 僅かに保守用の電灯が灯るだけの暗いトンネルに、阿南の靴音が響く。彼はコンクリートに囲まれた寂しい空間を、もう1時間以上も歩き続けている。

 溶解液によって発生したガスの臭いが濃くなってきた。風向きが変わって、地下に吹き込んできている。阿南には前を向いて歩くしか選択肢がない。どこかに地上へ通じる縦坑があるはずだが、それがどこなのか、阿南は全く知識を持っていなかった。

 下り坂はまだ続いている。下へ。下へ。阿南の朦朧とした頭の中にふと地獄落ちのイメージが湧く。行き着く先は地獄。現状にぴったり当てはまるのが可笑しく、にやりと口の端が捻じ曲がった。

 走れるものなら走っていた。疲弊しきった阿南には、足を前に出すのが精一杯なのだ。よたよたと夢遊病者のように鉄路の上を歩いていく。遂にここにいないはずの者を、彼は見る。

『ほら見ろ。独断専行の結果がこれだ。何事も組織優先だと言っただろ?』

 信時副司令は悠然としながら、にやにやと皮肉な笑いを浮かべていた。

「副司令。今はお説教しないでください」

『つらそうにしているな。助けてほしいかね。ま、君がメールの保管場所を教えてくれたら、救助隊を呼んでやってもいい』

「あんた、それでも上官か!」

 阿南が喚くと、信時はかき消すように消えた。

 おれは正真正銘の幻覚を見た。我に返った阿南は、いよいよ怪しくなった自分の精神状態に気づき、慄然とした。だめだ、しっかりしろ。気を確かに持て。諦めたら終わりだ。

 しかし、ガスは濃度を増し、着実に阿南の正気を奪っていった。

 次に現われたのも男だった。だが、ただの男ではなかった。首がなく、リード線が切り口からはみ出していた。さすがの阿南も大声を上げて立ち止まった。どことも知れぬ場所から男の声が聞こえてき た。

『僕の首を知りませんか? 僕は一体どうなったんでしょう。チヒロの傍にいるのは誰ですか? 僕はチヒロの元に帰りたい』

「マサト、もう駄目なんだ。君の居場所はもうない」

 首のないマサトは視界がないためか、ゾンビのように両手を伸ばして、阿南の方に寄ってくる。

『どうして?僕はマサトだ。本物のマサトなんだ。ねえ、あなた、チヒロに言ってくれませんか。そいつは贋物だ、ほんとの僕はここにいるって』

 やけになった阿南は叫んだ。

「知るか! お前は、そのう、死者だ! アンドロイドにもあの世があるのか!? だったらそこに帰れ!この世にろくな事はないぞ!」

 阿南は何もない空間に向って喚いた自分に気づいた。耳を澄ませば、どこかで水音が反響するのが聞こえてくるだけだ。ガスの臭いはさらに強く、息をするのも苦しい。

 ここにとどまるな、進め。阿南はまたふらふらと足を前に進めた。視界がぼやけた。ひどい耳鳴りがした。頭が割れるように痛み出した。

 銀のガウンに身を包んだ美濃浦が立ちはだかった。阿南は無視を決め込んで通り過ぎた。美濃浦は横について歩きながら質問の矢を浴びせる。

『まだとぼける気か。君が知らないはずがないんだ。さあ言え。C計画とはなんだ!?』

「知らない。本当に知らないんだ」

 呟きながら阿南は進んだ。呼吸はますます荒くなった。肺はしきりに酸素不足を訴えている。

 シズコ、待ってろ。おれは帰る。お前に新しい名前をやる。もう考えてあるんだ。

 美濃浦の姿はいつの間にか消えていた。ずっと先に光るものがあった。最初それはゆらゆら揺れて確たる形を持たなかったが、だんだんと女の形を取っていく。

 シズコか? どっちの? いや、今のシズコがここに来るわけがない。そんなことがあっていいはずがない。きっと前のシズコだ。そうなんだろ? おれを迎えに来たのか? そうか、それもいいかもな。おれは疲れた。人も沢山殺した。

 遂に阿南は膝から崩れ落ちた。コンクリートに頭をぶつけたが、影響はなかった。そのまま彼の意識は無明の闇に呑まれていった。

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