リリスの子ら

間部瀬博士

第11話

 11月12日午後1時、阿南は正式に医師の許可を得て退院を果たした。目覚めた時にいたアンドロイドの美人看護婦が、玄関まで付き添ってくれている。

「それじゃお大事に。まだ右手は完治したわけじゃありませんから、きちんと通院してくださいね」

「どうもありがとう。世話になったね」

 阿南は紙袋一つ持っただけの格好で、ミキコというその看護婦に礼を言った。袋には彼が第四で着ていた服装一式が入っているだけだ。他に彼が所有するものと言えば、今着ている制服と、ポケットに収まった小物しかない。生活用品はこれから買い集めることになる。とりあえず社宅があるので寝起きに困ることはないが、まず現金を調達しなければならない。リリス教徒に拉致された時に財布を奪われてしまい、一文無しになってしまっていた。仕方なく総務に掛け合い、給料の前借りをするつもりだった。

 彼が片付けなければならない問題はそれだけではない。喪失したマンションの事後処理。義理の両親や親戚との応対。残った住宅ローンをどうする。カード類の再発行手続きもしなければならない。その他諸々の雑事を考えると、頭が痛くなってくる。自分も被災者という立場になり、改めて戦災の恐ろしさというものを実感した。

 そういうわけで病院を後にした阿南は、真っ直ぐ中央管理棟に向った。生まれて初めて素寒貧という事態になり、心細さを覚えながら、それでもしっかりとした足取りで歩を進めた。

 彼は、私事はしばらく放り出すことで腹を括った。今取り組まなければならないのは、マサコ殺しの犯人を追うことだ。幸い守らなければならない家族はいない。シズコの死は痛恨の極みだが、公的には遺失物と同じ扱いだ。自責の念に苦しみながら、心の中で手を合わすことだけが、彼にできることだった。

 一刻も早く職場に戻りたいという意志に反して、多くの煩瑣な事務手続きが彼を待っていた。大きな組織ほどこういう場合の融通は利かない。結局この日は当座の資金を工面できず、一週間も待たされることになった。ロビーのベンチに座り込み、途方に暮れる彼を救ったのは、たまたま居合わせた瀬島一課長だった。彼の窮状を聞いた瀬島は快く金を貸してくれた。

 何度も頭を下げて礼を言った阿南に、瀬島の応対は優しかった。

「困った時はお互いさま。他に手伝えることがあったら言って。できるだけのことはするよ」

「ほんとに助かりました」

「なんせテロリストを一人で4人も殺った英雄だからね。役に立てて嬉しいよ。ところで、聞いたかい?美濃浦の最期を」

「えっ!」初耳だった阿南は驚いて声を上げた。「美濃浦が?どうやって確認したんですか?」

「今朝発表があった。あの使徒をヘリが撮影していた。その映像の中に、ほんとにちっこく、ひとかたまりの人間たちが映っていたんだ。警報がわんわん鳴っていたのにな。拡大して見ると、先頭の一人は手を振り上げて何か言ってるようだ。後の連中は座り込んでる。で、こいつらがあっという間に溶かされてしまった」

 阿南はにわかに興奮を覚えた。「間違いない。美濃浦の一党だ!」

「それで傑作なのはな」瀬島はにやりと皮肉な笑みを浮かべた。「それがあの使徒が降らせた最初の雨だった、ということだ。あいつら、いの一番に殺られたってことさ」

 阿南の顔に怪訝そうな表情が広がった。どこか、でき過ぎた話に聞こえた。

「どうした?何か変かい?」

「いや、どうも偶然とは思えないな」

「そうか?俺はたまたまそうなっただけだと思うが」

「僕は何か裏がありそうな気がする。あるいは使徒の意志が働いたか」

「だったら、自分を崇拝する連中を避けて、他から手を付けそうなもんじゃないか」

「そいつらはどこに?」

「広い公園のど真ん中だ」

「そんな役に立たない場所から攻撃を開始したのはなぜだろう」

「さあねえ。人間が見えたら放出開始、というプログラミングにでもなっていたかもな。まあ悩むほどの問題じゃない」

「そうかな。どうも最近の使徒は、リリスの指揮下にあるように思える」

「なら、有益なリリス教徒は避けていくんじゃないか?」

 瀬島の意見は真っ当なものだ。腕を組んで考え込んだ阿南にある恐ろしい考えが浮かんだ。

「もう必要がなくなったと思ったからでは?」

「リリス教徒がかい?それはないだろう」

「リリスは近く決着を付ける積もりだ。利用価値が無くなったと思い、捨て去ったとしたら?」

 瀬島は強張った顔で、喋り続ける阿南の顔をまじまじと見た。

「使徒から見れば人間などどれも一緒だ。偶然にせよ、愚かな崇拝者が目に入った。使徒は皮肉な喜びを覚える。まずこいつらから片付けるのも面白い」

 自分の推理を夢中になって述べる阿南を、瀬島は手を挙げて制した。

「憶測だらけの話はやめようぜ。リリスがおれたちや、外の世界のことを、十分把握していることはありうると思う。だが、いくら考えても結論は出やしないんだ。それよりもっと有益な話をしよう。前にネメシスの話はしたな?」

「ええ。動いているとか何とか」

「そいつは9割方ジオフロントにいると、俺たちは見ている」

 阿南の顔に翳が差した。派手に活動しているリリス教団と比べて、ネオ・ゼーレはずっと隠微な存在だ。存在を疑う声すらある。しかし、潜在的な脅威という点では、ネオ・ゼーレが上回ると見られている。

「その根拠は?」

「君をリリス教徒に売ったのはネメシスだ。ほぼ間違いない」

「そうだったのか!」

「昨日、第二にあるリリス教徒のアジトに手入れがあった。そこのパソコンにメールが残っていてな、君と山辺のことが、行動予定も含めて送られていた。発信者はネメシスと名乗っていた」

 阿南の胸に怒りが燃え上がった。やはり裏切り者が彼を、あの地獄に突き落としたのだ。そいつをこの手で絞め殺してやりたいとさえ思った。

「くそ!なんとしてもそいつ挙げてやる。おれが味わった以上の苦痛を与えてやる!」

 怒気を孕んだ阿南を、瀬島は肩を叩いて慰めた。

「気の毒だったな。ま、俺たちが頑張ってどうにかするよ。君は休んでいろよ」

「お心遣いどうも」

 阿南の鋭い眼光を見た瀬島は、この男が休む気など微塵もないということを容易に読み取った。その執念に畏敬を感じながら話題を変えた。 

「しかしひどい事態になったな。誰も信じられん。うちの課もだが、職場の雰囲気は最低だぞ。みな疑心暗鬼って感じだ」

「当然でしょう。誰にも可能性はある」

「特殊監察部は大忙しだ。俺も聴取されたよ。10日の行動を細かく訊かれた。クソ忙しいのに。まあ、こうなったらどこの部署でもいいから、一刻も早く犯人を挙げてほしいよ」

「縄張り争いをしている場合じゃない」

「まったくだ。じゃ、そろそろ行く。あまり無理はするな。それじゃ」

 軽く手を挙げて去っていく瀬島を、阿南は好意と感謝の念を抱きながら見送った。

 管理棟を後にする阿南には、美濃浦を始めとするリリス教徒たちが裁きを受けたことの満足感があった。そして思った。結局、Xはリリス教徒ではなかったのだと。檜垣をこの手で殺し、他のテロリスト仲間も潰えたが、またも事件は起こった。そして彼は、この件もあのXが引き起こしたという直感を抱いていた。そいつはまだこのジオフロントで密かに息づいているのだ。胸の内でXへの憎悪がたぎり立った。さらにネメシスこそがXなのではないかという考えが浮かび、それは彼の心の中で強く大きく育っていった。

 

 

 結局その日の午後は、買物と各方面への電話連絡でつぶれた。ようやく保安部のオフィスに顔を出したのは、5時を回ってからだった。そこには数人の職員がいるだけで、がらんとした印象を与える。机でパソコンに向っていた草鹿が、阿南に気づいて声を上げた。

「課長!出勤したんですか。今日は休みかと思った」

「そうもしてられん。何か判明したことは?」

「いいニュース。美濃浦たちが死んだようです。画像分析から分かりました」

「それは瀬島さんから聞いたよ。僕を売ったのもネオ・ゼーレのスパイらしいってこともな」

 草鹿は顔を曇らせた。「ええ。今や保安部全体が白い目で見られてます。今朝だって朝っぱらから特殊監察部のがさ入れですよ。ほら、いろいろなくなってるでしょ」草鹿は回りのキャビネットを示した。ガラスの向こうには、あちこちで書類が抜かれ、ずいぶんと多くなった隙間が見える。「パソコンの中身も徹底的に調べられました。一人ずつ訊問も。10日はいつどこで何をしていたかってね。裸にされたような気分ですね。今頃は裏づけを取りに走り回っていますよ」

「事件に進展は?」

「そんなわけで今日のところはないです」

「僕は昨日も早々に上がった。これまで判明したことをまとめて知りたい」

「ああ、それじゃ僕のパソコンから課長のに送ります。デスクへどうぞ」

 阿南は自分の席に着き、慣れぬ左手だけでパソコンを立ち上げた。『31stチルドレン殺害事件捜査概要』と表示されたファイルがあり、それを開いた。複数の担当者が共同してまとめ上げたものだ。

 まず最初に現われたのは『1.事件の発端』という見出しだった。死体発見の経緯に関する事柄だ。阿南はそこを飛ばし、『2.遺体の鑑定』に進んだ。

『——大河内監察医の鑑定は次の通り。

(1)死因

 被害者の遺体左胸部に長さ39mm、幅最大5mmの切創あり。傷は乳房の下端から第4、第5肋骨の間を抜けて心臓に達する。深さは121mm。その他遺体に顕著な傷を認めず。一般に、心臓に直接穴を開けた場合、速い場合は数秒で意識を失い、60秒以内に完全な死に至る。ほぼ即死したものと推定される。

 心房の切れ方から凶器は先端部の尖った鋭利な刃物で、軍用ナイフによる刺し傷が、多くの場合このような形状を取る。

(2)死体変化

 ア 死斑

 背面部に広汎な範囲で暗紫赤色の死斑発現を認む。発現部位を親指で圧迫すると退色が認められ、総合するに死後経過時間は8時間から24時間の範囲内と推定される。

 イ 死後硬直

 大関節から抹消関節まで全関節に認む。総合するに死後経過時間は8時間から24時間の範囲内と推定される。

 ウ 死体温

 直腸内温度を2度測定。測定値、遺体の形状、外気温の推移は別表の通り。これらを定数および変数としてシミュレートした結果、死後経過時間は2度目の測定時において死後19〜16時間と推定される。すなわち11月10日午後9時から翌日午前0時までの間に、被害者は死に至ったと見なされる。これは上記ア、イと矛盾しない。

(3)その他

 死体の乾燥、角膜の混濁、いずれも上記(2)ウの鑑定結果と矛盾しない——』

 

 

 この当りは昨日の時点で阿南も知った情報だった。後は適当に読み飛ばして次に進んだ。

 

 

『3.遺留品

(1)携帯電話(証拠品A)

 10日13時45分佐藤警備員が発見。発見場所、写真は別ファイル』

 

 

 阿南は一旦写真ファイルを開いた。ネオ・ネルフ職員用支給品の携帯電話が、雑草の根元に寄り添うように転がっている。これなら掻き分けない限り見つからなかっただろう。ストラップは下向きの本体の下に隠れていて見えない。

 

 

『——本機は内蔵メモリーから被害者所有の物と断定される。指紋は被害者以外のものはないが、何者かが触れなかったとは言えない。ストラップに付いたアクセサリーは、被害者が普段から付けていたもので、タダオ(被害者の配偶者)はこれを見て、本機を被害者のものと直ちに判断した』

 

 

 次に10月10まで遡った、通話記録が連なっている。いつ誰と話したかが一目瞭然だ。数は少な目で、掛かるより掛ける方が多い。掛ける先は養成所が多く、出先から連絡を取る必要があったということだろう。上から順に見ていったが、養成所関係者が殆どを占め、特に目を引く人物はいなかった。最後に10日まで来て、急にそれまでとは違った人物が現われる。草鹿と阿南だ。この日の通話はこれら以外にない。

 

 

 発82.11.10. 16:03:15〜16:07:31 宛 Kusaka Kouitirou 

 

 

 阿南の快復が嬉しかったのだろう。4分以上も話しこんでいる。次がいよいよ阿南の番だ。

 

 

 発82.11.10. 22:55:06 送信のみ 宛 Anami Takamasa

 

 

 『送信のみ』という語句が阿南の胸を痛める。この通話がならなかったのが、彼女の運命の分かれ道だった。阿南は深いため息をつき、気を取り直して続きを読んだ。

 

 

『(2)手紙(証拠品B)

 被害者の穿くズボンのポケットに、たたまれた状態で入っていた。葉書大。乱暴に入れられたらしく、多数の皺あり。指紋は被害者のもの以外は認められず。ごくありふれたコピー用紙に印字され、余白を鋏で切り取られている。写真は別ファイル』

 

 

 脅迫状と取れる手紙の文面は、阿南も既に知っている。問題はいつどのように、マサコがそれを見たかだ。

 

 

『本証拠品が被害者に与えた影響は察して余りある。チルドレンならびにパートナーからの聴取によれば、被害者は同日15時30分頃を境に、憂鬱気味の状態に態度を変化させており、この手紙が原因であったと思料されうる。調書は別ファイル』

 

 

 阿南はおや、と思い調書のファイルを開いた。彼がチルドレンから聞き取った事柄がきれいに整理された上に、時系列に沿ったマサコの行動表までが作られている。

「草鹿君、きみ、僕の調書をまとめてくれたのかい?」草鹿に向って聞くと、草鹿は微笑を浮かべながら答えた。

「ええ。やっておきました。変な所があったら言ってください」

「いや、完璧だ。ありがとう」

「どういたしまして」

 阿南はモニターに視線を戻した。調書は警備員、その他職員と続く。最後は大物のカウエル所次長だ。ひと月前に昇進を果たしたばかりだった。磯川警備課長が直々に聴取している。

 

 

『——昨日は教官本人や身内に不幸があったものが多く、訓練日程を組みようがなかったので、簡単なビデオ学習と自習のみにしました。私は殆ど執務室に篭り、溜まっていた書類整理に精を出していました。私が被害者に会ったのは、朝、昼、晩の食事時のみでした。朝は特に会話なし。昼は皿洗いの手伝いを申し出ましたが、遠慮されました。この時までは普段と変らぬ態度でした。夕食時は傍目にも悩み事がありそうな様子でしたから、元気がないねと声をかけましたが、被害者はなんでもないと答えたので、早めに寝るように言い、それ以上の会話はしませんでした。8時40分頃に一度外に出て、裏の倉庫の戸締りを確認しに行きました。何も異常はありませんでした。事務室の明りは点いていました。中の様子は分かりません。それから就寝する22時までの間、特に異常に感じたことはありません。

 本日、事件を知ったのは、朝7時30分。自室で着替えを終えたばかりの時でした。養成所前を警備していたアレン君が報告をしてくれました。それからは動揺するチルドレンたちを落ち着かせるのに努力しました。他に食事の手配も自分でやりました』

 

 

 あの鬼教官も大変だっただろう。阿南は同情の念を抱いて調書を読み終え、本文に戻った。

 

 

『 ア 被害者は何時この手紙を受取ったか

 被害者の穿いていたズボンは、当日の朝、自室のドレッサー(自室見取り図dを参照のこと)より被害者自身が取り出し、穿いたものと認められる。このことは、55thチルドレンおよび56チルドレンのパートナーが自信を持って証言している。すなわち、前日までは紺色のズボンを穿いていて、明らかにこの日穿いていたものとは違うということである。傍証として、自室洗面所にある洗濯機(自室見取り図k)に当該紺色のズボンが収まっていたことがある。前記2名に確認を取ったところ、前日まで穿いていたものと同一であるとの証言を得た。

 以上より当該手紙は10日のうちに被害者のズボンに収められたと結論される。

 イ 被害者の当日の行動

 養成所前を警備していた山本、ハッサン両名の証言によると、被害者は13時30分頃養成所を出て、14時5分頃同所に戻っている。それ以外に被害者が外出した形跡はない。この外出は保育員が毎日定例的に行っているもので、中央管理棟での郵便物受領が主な仕事である。移動には循環バスを使用。往復とも運転手が被害者を目撃している。中央管理棟職員バクーニン、同wrp602435(通称マサル)は13時47分頃、同棟1階の集配所において郵便物を取る被害者を目撃。ロビーに設置された監視カメラにおいても同時刻に被害者を撮影しており、この時被害者が郵便物を持ち帰った事実は確定した。外出の所用時間はこの間、被害者が他に寄り道をしなかったことを物語る。

 当該手紙がこの時受領した郵便物に混入していたかどうかは現時点で結論を出せないが、相当の蓋然性を持つものと思われ、今後の捜査はこれらの事実を精査する必要性が認められる。

 マサルの証言によれば、郵便物の厚さは1cm程度まであったが、封書についてはありふれたものとだったという記憶しか有していない。監視カメラによる画像では、右手に紺色のトートバッグを下げているのが確認でき、郵便物はこの中に入ったものと思われる。被害者が常時郵便物をこのバッグに入れて運んでいたことは、タダオも証言している。事務室のごみ箱からは3枚の使用済み封筒が発見されたが、いずれもジオフロント内部の課名が記載されており、各課に照会したところ、すべて発信者と内容が特定された。

 戦災のため、外部からの郵便は8日からストップしており、追跡調査の範囲はジオフロント内に限定される』

 

 

 阿南は集配所の内部を思い返してみた。壁面に4段に分かれた郵便箱がおよそ10列並んでいる。どれもスチール製の蓋が付き、開けられるのは鍵を持った各課の職員と集配所の担当者だけだ。蓋にはスリットが開いていて、小さなものなら誰でも投げ込むことができる。人の出入りは比較的多く、特に外部からの郵便が届く昼過ぎは多くの人間が集まる。脅迫者が目立たぬように手紙を投函するのは十分可能だ。目撃者を見つけ出すのは容易じゃないな、と彼は思った。

 腕を組んで考え続ける阿南に、一つ疑問点が浮かんだ。

 脅迫状に書かれた内容は真実なのか?

 真実とすれば『証拠文書』とはなんだろう。副司令が送ったメールだろうか。その記録はセキュリティレベルS、つまり部長、副部長クラスしか閲覧できない仕組みになっている。例外は阿南ただ一人だ。しかし秘密の場所に保管したプリントアウトを、他人に見られることは絶対にないという自信はある。だからと言って、情報漏れがなかったとは言い切れないのだ。副司令が打ったメールの記録が洩れる可能性は低いが、反政府組織にとってネタはそれ以外でもいい。例えば無数に飛び交うメールの中に、信時とマサコの情事に言及したものがあったらどうか。そういうメールをスパイが手に入れたなら、十分な材料になる。阿南はこの脅迫の内容は真実であっておかしくないと結論付けて概要に移った。

 

 

『(3)画像送信装置(証拠品C)

 養成所裏口付近をカバーする監視装置直下、地下水道を走るケーブルに装着。朝鮮製で通称ビデオカッター。諜報の世界ではポピュラーな道具である。縦12cm、横5cm、高さ1.5cm。二枚重ねの構造で、蝶番を持つ。これでケーブルを挟むと、瞬時に直前の静止画像を送信する。作動開始は解析結果から10日20時49分。

 この装置は一般人が入手するのは極めて困難で、諜報機関に所属する者か、闇マーケットを知悉する者だけが手にしうる品物である。よって、犯人は潜入した破壊工作員である可能性が極めて高い。

 指紋なし。シリアルナンバーは削り取られ、出所を辿る手段なし』

 

 

 この装置も阿南にとって悩みの種だった。どうしても説明のつかないことがある。

 首を捻りながら、まずは全体を把握しようと次に移った。概要は殺害現場の状況、事務室における捜査と進み、阿南はざっと読んで、目新しい事実がないかどうかだけを注意した。マサコの着衣からは犯人のものと思われる服の繊維が数本検出されていた。体液はなく、DNA型から追跡する道はない。一つ目を引いたのは、事務室にある固定電話の通話記録だ。

 

 

 受82.11.10. 8:45:52〜8:46:38 発 Hoannbu101

 受82.11.10. 10:12:25〜10:13:38 発 Maruetu

 発82.11.10. 14:05:45〜14:06:10 宛 Sirayuki

 発82.11.10. 15:07:29〜15:11:07 宛 Maruetu

 受82.11.10. 16:23:55〜16:24:21 発 Gijyutubu211

 発82.11.10. 17:24:17〜17:24:50 宛 Kinutaya 

 

 

 マルエツはジオフロント内に出店しているスーパー、シラユキは同じくクリーニング屋、キヌタヤは養成所に食材を卸している商社だ。マサコの仕事ぶりが伺える。保安部、技術部の後に付いている番号は内線番号だ。長めの通話と言えば15時7分のマルエツ宛のものだけで、後は短めに用件だけを伝えるものになっている。マルエツとの会話は、前日買った衣料品をめぐる苦情だったと記録にある。商品を交換することで折り合いがついたらしい。

 注目したのは最後のキヌタヤ宛ての電話だった。彼女はショックを受けながらも、かいがいしく仕事をこなしていたのだ。しっかりした女だという阿南のイメージを裏切らない。

 もう一つの通話記録は、マサコたちの居住室にある固定電話のものだが、これに関する記録は数が少ない。平均して日に1、2件。通話先は事務室のものと大差なく、たまにパイロットと話しているのが目立つくらいだ。事件当日は一本も通話がない。

 特に注目したのは次の記事だった。

 

 

『事務室の続き部屋(見取り図C)において、タダオは書棚からアルバム1冊が無くなっているのを発見した(見取り図D。状況写真は別ファイル)。彼は出張する8日には確かにその場所にあったと証言しており、8日夜から11日までの間に移動させられたと見なされる。彼によればそのアルバムは、チルドレンの日常を記録した写真多数が収められたもので、概ね一昨年から昨年にかけての映像とのことである。事務室および居住室を徹底的に捜索したが、発見できなかった。チルドレンならびに養成所関係者全員にこのアルバムの所在について尋ねたが、知る者は皆無であった。この件が事件に関係するかどうか、現段階では何とも言いようがない。ただし、継続して調査する必要はある』

 

 

 阿南は腕を組んで考え込んだ。異様な事態ではある。状況写真によれば、8冊並んだ白表紙のアルバムのうち、7冊目と8冊目の間がぽっかりと開いているのだ。もともと9冊あったアルバムから1冊が抜かれている。抜いた可能性が高いのはマサコ自身だ。それを殺害現場まで持参したのだろうか。あるいは犯人が忍び込み、盗み出したか。チルドレンが持ち出して、それっきり忘れてしまった可能性もある。阿南は洞察力を駆使して推論を試みたが、結論は出ない。

 結局この件は保留として、次に進んだ。記事はマサコの居住室内の捜査に入り、ここからは腰を据えてじっくりと読み進んだ。

 

 

『6.被害者の居住室

 捜査班は被害者の配偶者タダオの立会いの元、居住室を徹底的に捜査したが、目立った遺留品は発見できなかった。指紋は被害者と配偶者のものが圧倒的多数を占め、チルドレンのものと正体不明のものが少数発見されたにとどまる。外観上争った形跡はなし。血痕なし。床に落ちていた繊維は、被害者の服に付着していたものとは別種のものしか検出されなかった。髪の毛は多数発見されたが、人間のものは僅か数本にとどまり、この部屋に出入りした人間は非常に少ないと言わざるをえない。 

 結論として、この場所で犯行がなされた可能性は極めて低い。

(1)指紋

 該当者不明の指紋は以下の通り——』

 

 

 室内の精密探査から得られた手掛かりはゼロに等しかった。マサコは個人的な日記を付ける習慣はなく、メモの類いも特別なものは見つかっていない。業務日誌からも事件に関係のありそうな記述は見つかっていない。ただ、10日になぜ記帳しなかったのかという謎だけが残っている。 

 

 

『(5)パソコン

 被害者はデスクトップ型パソコン1台を所有(自室見取り図P)。配偶者によると、ネットに接続してはいるが、普段あまり頻繁に使用していない。

 ア メールボックス

 パソコン内に残るログによると、被害者は11月10日8時19分18秒に通電し、同20分03秒にメールを7通開封している。内容は以下の通り——』

 

 

 それらのメールはパソコンメーカーや接続業者からのものばかりで、何の参考にもならない。送信記録では、最も新しいものでも1ヶ月前に遡り、文書も『手掛かりとなるものなし』と結論づけている。ただ、受信文書は4日前から溜め込まれていて、マサコがこのパソコンに触る機会が少なかったことを物語っている。

 

 

『イ 保存文書等

 文書作成、表計算など、一応のソフトウェアがインストールされているが、保存文書は皆無。僅かに私的な写真数枚が保存されていたが、日付は古く、事件との関連を伺わせるものなし。

 ウ インターネット

 11月10日8時22分35秒にブラウザを開き、同46分18秒まで閲覧。URLは以下の通り。特に事件との関連を伺わせるものなし——』

 

 

 結局このパソコンから手掛かりらしきものは何も得られなかった。事務室にあるパソコンはかなり使い込まれていたが、プライベートでは利用頻度は少なかったと総括されている。タダオによれば、あまり興味を持っていなかったらしい。

 阿南は大事な点はメモを取りながら読み進んだ。記事は地下水道の捜査、殺害推定場所付近の捜査と続き、客観的事実から推論へと進んでいった。この部分を仕上げたのは相沢次長だ。

 

 

『9.推論

(1)犯行の経過

 最初に、犯人がこの日を選んだのはなぜか。被害者の配偶者は11月8日から第4新東京市に単身出張、被害者は10日まで単独で保育業務に従事していた。被害者に相談相手がいないことは、犯人にとって極めて都合のよい状態と言える。脅迫の事実を通報されるリスクが格段に軽減されるからである。裏を返せば、犯人はタダオの不在を知りえた人物ということになる。

 被害者は多くの証言でも明らかな通り、当日午後には甚大なる精神的打撃を受けた。彼女はかつて上層部某と愛人関係にあり、そのことで思い悩んでいたわけだが、この事実が世間に公表されれば、チルドレン全体の評判を落とすことにつながりかねず、証拠品Bが与えた影響は想像に難くない。公安二課員草鹿に掛けた電話は、同人の証言によれば、被害者の混迷ぶりを窺わせるもので、この推論を補強している。

 この手紙をマサコがいつ手にしたかは、現状同人が13時47分に取得した郵便物に紛れ込んでいた可能性が高い。なぜなら、養成所前で見張りをしていた警備担当の証言から、当日外部から養成所に来訪した者は皆無と考えられるからである。

 中央管理棟は人の出入りが多く、集配所は誰もが入室できる仕組みなので(当日もかなりの人数が集配所に入っている)、郵便箱に接触した人物を全て洗い出すのは相当困難を伴うが、やり遂げなければならない。集配所の係官バクーニン、マサル両名は常時郵便箱を監視しているわけではないが、今後より多くの目撃情報を求めていく必要があろう。

 犯人にとって幸運だったのは、被害者が午後8時以降単独行動を取り、目撃者がいないことである。居住室または事務室からは一歩も出なかったようだ。阿南公安二課長宛の電話から、22時55分まで生存していたことは確実。証拠品Bに記された約束の時刻が23時であることもこれを裏付ける。

 養成所裏口に据えられた監視カメラは、20時49分に無力化された。この約2時間10分の差が何を意味するかは不明。

 おそらく被害者は23時丁度からさほど経たぬうちに犯人と面会した。場所は養成所裏の森の中。犯人の要求は金銭の要求、スパイ行為の強要などが考えられるが、みだりに想像をたくましくしても益はない。

 いずれにせよ、被害者が犯人の要求を拒んだことは間違いない。口論の末に身の危険を感じた犯人は、口を塞ぐために凶行に及んだのだろう。大声を上げれば警備員に十分届く距離であり、犯人にとって相当程度危険があったはずだ。

 犯人の殺傷技術は熟練したものと言っていいだろう。無駄な攻撃をせず、一撃で命を奪っている。高度の戦闘訓練を受けたものと推察される。 

 殺害後、犯人は遺体を抱きかかえ、約300m離れた地点まで運んだ。途中、遺体から被害者の持つ携帯電話がこぼれ落ちた。森の奥深くまで運び、発見時刻を遅らせるためだったのか。ここで疑問なのは、犯人が出入りした地下水道になぜ運び込まなかったかである。もしも犯人が犯行の露見を遅らせたかったならば、死体を地下に隠匿するのが、妥当な手段だと思われる。このあたりの犯人の心理を解明するのが、事件解決への道かも知れない。

(2)犯人像

 犯人は狡猾かつ冷静、破壊活動に熟練した技能を持ち合わせている。一般職員には知り得ない地下水道の経路や被害者の醜聞を熟知し、殺害手段も洗練されていることから、ネオ・ネルフ内部に侵入した工作員であることに疑いの余地はない。

 さるパートナー・マサトの殺害事件、ならびにチルドレン控室侵入事件との関連も多いに疑われるところであり、同一犯である可能性は非常に高いと見られる。

 被害者と上層部某との特殊関係については、情報秘匿に縷々配慮してきた。この秘密を知る者が最も多いのは、言うまでもなく保安部である』

 

 

 最後の一句を阿南は苦々しげに見つめた。身内にスパイがいるのが濃厚になってきた。顔見知りに裏切り者がいるかも知れない。それを疑わなければならないのが悲しい。

 阿南はちらりとすぐ向こうで机に向っている草鹿を見つめた。

「草鹿君」

 我慢できずに声を掛けた。草鹿は「はい」と答えて阿南を見た。他にこの大部屋にいるのは、ずっと離れた場所にいる二三人だけだ。

「君は10日の11時頃はバーにいたと言ってたな」

「ええ。10時45分頃に店に入り、1時過ぎまで飲んでました。特殊監察部にもその通りに言いました」

「一人でか?」

「ええ。たまに憂さ晴らしをしたかったんで。店の女の子が可愛いんですよ。クミちゃんって言うんですが」

「あの子はアンドロイドだ」

「知ってます。課長もご存知でしたか。でも良くできた子だ。ちょっと見には気がつかない」

「そうだな」

 阿南はにやりと笑い、クミちゃんを思い浮かべた。童顔の、明るくはきはきした娘型アンドロイドだ。ずっと会っていない。

 草鹿はまず犯人ではない。阿南は、このアリバイはほぼ確定すると思った。目撃者はもっといるはずだ。コンビを組んだ者が裏切り者でないことに、ほっとするものを感じた。

「すまなかった。疑ったわけじゃないんだが、安心したくてね」

「いいんですよ。こんなことになったんですから」

 草鹿は穏やかに微笑い、また机に向った。阿南は視線を概要に戻し、読み返した。

 30分ほど熟読した阿南は、椅子の背に体重を預けて息をついた。さすがに目に疲れを感じた。目頭をこすりながら、先程から引っ掛かっていたある疑問について考えていた。

 そこで、大部屋のドアが開く気配がしたので顔を上げると、現われたのは相沢だった。常に精力的な彼も、さすがに疲労の色を見せている。阿南に気づくと早速近づいてきた。

「阿南、来てたのか。休んでも良かったのに」

「みんなが頑張ってるのに、僕だけ休むわけにもいかないでしょう」

「あまり無理するな。どうだ。もう夜も遅い。飯を食いに行かんか」

「いいですね。その前に一つだけ話したいことがあります。草鹿君も聞いてほしい」

「ほう。なんだそりゃ」

 相沢は手近な椅子に掛けて、阿南と向き合った。草鹿も手を休めて阿南の方を向いた。

「この捜査概要を読んでいて、どうも気になる点があります。何か足りない。なければならないものが出てきていない」

「それは?」

「犯人は郵便物に脅迫状を混入させたと考えられています。マサコに直接渡すのは困難だし、危険だからだ。事実、目撃者もいない。郵便箱に投げ込むのが、この際一番ありうる方法です。ただこれもリスクを伴う。あそこは人が大勢いますからね。ここで犯人が推測通り、郵便箱に入れたと仮定しましょう。草鹿君、君が犯人ならどうやる?犯人の立場になって考えてくれ」

 話を振られた草鹿は、真剣な顔つきになって考えた。

「ええと。僕ならまずあそこに人が集まる時間帯を選ぶ。他に用事がある振りをして集配所に入り、あたりを見回して、誰も見ていない瞬間に、何食わぬ顔で郵便箱に投げ込む」

「その脅迫状はどうする?作ったところから考えてくれ」

「ううん。...手袋をしながら小さく折りたたみ、小ぶりの封筒に入れる」

「そこだ。なぜ封筒に入れる?」

「そうしないと色々不都合があるから。紙っぺらだけを箱に入れるのは、もし見られた場合に目立ってしまうし、マサコも不審に思うでしょう。その場で読み始めるなんてこともありえます。あの箱に文書を入れる場合は、必ず封緘することになってますからね」

「そうだね。あの脅迫状は封筒に入っていたと見なしていい。だが、ここで一つおかしな点がある」

 黙って聞いていた相沢が、目を見開いて声を上げた。

「あ、そうか。言いたいことが分かったぞ!」

「対応する封筒が見つかっていないんです」

 阿南は冷静に答えを告げた。相沢も草鹿も声を失い考え込んでしまった。阿南が続けた。

「事務室のごみ箱から出た封筒はどれも出所のはっきりしたものだ。脅迫状に対応するものが出ていない。もちろん、他のごみ箱に捨てられた可能性はあります。その辺はどうなんでしょう。館内のごみから何か出てきていませんか?」

 相沢が答えた。「そっちの方はまだ未整理だ。早速明日調べさせよう。しかし、仮に郵便箱を使わなかったとすると、どうやって手紙を渡したんだろう」

「簡単です。マサコは往復に循環バスを使った。そこが犯人の狙い目だった。まず犯人はマサコを尾行し、彼女に続いてバスに乗り込む。脅迫状を手に握りこんだ犯人は、彼女の提げたトートバッグの隙間に手を差し入れ、バッグの中に忍び込ませる。一瞬の早業だ。彼女は養成所に帰り、バッグから中身を出した時点ではじめて、不幸の手紙の存在に気づく」

 草鹿は感に堪えぬという風情で話を聞いていた。と、急に相沢は目を見開いて声を上げた。

「そうだ!それなら辻褄が合うぞ!」

「なんです?」阿南は身を乗り出した。

「ずっと時間差が気になっていた。マサコが帰ったのが14時5分。態度に変化が現われたのが15時30分ごろ。この1時間半近い間隔は何を表すのか?郵便物に混ざっていたのなら、もっと早い時間に起こっていそうなもんじゃないか。彼女は大事な郵便を、バッグに入れたままほったらかすような女じゃない。気づかなかったんだ!バッグの隅に押し込まれた紙片は、すぐには認識されなかった。気づいたのはもっと後。どういう状況だったかは、はっきりしない。しかしどうだ?いかにもありそうなことだと思わないか?」

 阿南は疑問の一つが解決されたことに興奮を覚えた。「うん、次長。きっとそうだ!」

「バス停は監視カメラが捉えていたはずだ。画像に不審な奴が映っているかもな。こうしちゃいられん」

 相沢は固定電話から受話器を取り、内線で中央監視室を呼び出した。ひょっとしたら事件が動き出すかもしれない。阿南は期待に胸を膨らませながら相沢を見ていた。草鹿は尊敬の眼差しを阿南に送り、「やっぱり課長はすごい」と言った。阿南は苦笑して手を振るだけだった。

 それから10分経ったところで、中央監視室から電話がきた。画像があったので、これから送るというのだ。

「画像が来る。阿南のパソコンだ」

 相沢は上気した顔立ちで席を立つ。草鹿も後に続いた。二人は阿南の後ろに回り、揃ってモニターを見つめた。阿南は左手をぎこちなく操り、メールソフトを開く。間もなく着信があり、逸る心を抑えながら添付ファイルを開いた。

 画像は斜め上からバス停を捉えていた。停留所には三人の制服を着た士官が佇んでいる。そこへ画面下から軽装の女が現れた。髪の色、形からすぐにマサコと分かる。彼女はトートバッグを右手から垂らしながら、ごく普通の足取りで停留所に近づき、前からいる三人の後ろに立った。

 阿南は三人の士官の横顔を凝視した。顔見知りはいない。制服の種類から作戦部の者と分かる。彼らに何一つ不審な動きはない。

 そのまま1分が過ぎたところでバスが来た。マサコを含めた四人は順にバスに乗り込んでいく。阿南が自分の見込み違いかと思い始めた時、画面に変化があった。

 向こう側から足早に駆けて来る男がいる。がっちりとした体躯の制服を着た男。なにより特徴的なのはその顔。

「まさか...!」

 阿南は絶句してモニターを見つめた。後ろに立つ相沢と草鹿も唖然としていた。

 男はマサコの後ろに付き、バスに乗り込む。口が動き、彼女に何か言ったようだ。そして男の姿は車内に消えた。

 ヘンリー・カウエル所次長は嘘をついた。なぜか彼は、マサコと同じバスに乗り込んでいたのだ。

 

 

 作戦部所属オペレーターの島谷中尉は、公安二課からの呼び出しを聞き、例の件だなとすぐに見当がついた。31stチルドレン殺害に関わることだ。あの日、偶然同じバスに乗り合わせたことをはっきりと覚えていた。そして、その時起きた椿事についても。正義感の強い彼は、洗いざらい喋るつもりでいた。面接は作戦部専用の休憩所で行われる。その場に着くと、明るく落ち着いた広い部屋の奥に、捜査官が既に待っていた。

 阿南は名刺を差し出して挨拶した。「公安二課の阿南です。忙しいところをどうも」

「島谷です。できる限り協力しますよ。何でも聞いてください。まずは掛けて」

 二人は午後の閑散とした部屋で、テーブルを挟んで向かい合った。用件は島谷の予想通り、バスにいたマサコについてだ。

「ええ、鮮明に覚えています。彼女、一番後ろの席の窓際に座りました。横に座ったのがカウエル所次長でした。僕はその位置から3列ぐらい前の席に座りました。だから、話し声はそこそこ聞こえましたね。バスに乗ってたのは全部で7、8人ぐらいだったです。その中では僕が一番近かった」

「どんな話をしていました?」

「最初のうちは仕事の話でしたね。忙しくて大変だな、とか、食材の手配をこうしろとか。それが途中から雲行きがおかしくなった」

「ほう」阿南の目が鋭くなった。

「僕は耳がいいほうなんでね。小声で話していても、あらかた内容は分かりました。課長、僕はあんな奴がネオ・ネルフにいるとは思いもしなかった」

「なんですか?カウエルが何を言ったんです?」

 島谷は身を乗り出し、告発を始めた。それは阿南に怒りと深い疑惑をもたらすものだった。

 

 

 次の日の朝、カウエルが事務室の前に来た。中にいるタダオに声をかけた。

「おれは出かけるよ。技術部と打ち合わせだ」

「ご苦労様です。どのぐらいかかりますか?」

「午前中一杯だな。後を頼む。チルドレンをあまり遊ばせるなよ」

「心得てます。行ってらっしゃい」

 カウエルは巨体を揺らして出て行く。すっかり姿が見えなくなったところで、タダオは奥の部屋に通じるドアを開けた。

「どうぞ。カウエルさんはいなくなりました」

 奥から阿南と草鹿が姿を見せた。

「ありがとう。それじゃ早速始めよう。チルドレンとパートナーを分けて一人ずつ呼び出してくれ。やり方は前と同じで」

「承知しました」

 タダオは館内放送用のマイクを取り、スイッチを入れた。

「みなさん。急ですが、これから保安部の方がみなさんに話を聞きます。短い時間で済みますから、協力してください。それから、保安部の方の指示をようく守るように。とても大事なことです」

 

 

 日付は変り、11月15日午後4時3分。カウエルは表情を曇らせながら、養成所執務室の受話器を戻した。その黒い額から汗が一筋流れ落ちた。電話は事務室のタダオからだった。相沢と阿南が来て、話を聞きたいので是が非でも会いたいと言っている。断る理由もないので同意せざるを得なかった。

 彼は空ろな目で電話機を眺めながら、考えに耽った。何を訊かれるのか。あのことだろうか。どう答えるべきか。

 席を立ち、窓際に寄って、森の木々を見渡した。すぐにも彼らはやって来る。あせってはいけない。落ち着くのだ。なんとかなる。いや、なんとかしてみせる。大丈夫。大したことになりはしない...。

 50年近い彼の人生で、これが最初の危機ではなかった。いくつもの山場を乗り越えてきた自負が、彼にはあった。この事態も同じように乗り切ってみせる、と固く心に誓った。

 

 

「お邪魔しますよ」

 ドアを開けて相沢が姿を見せた。背後には阿南の長身がある。

「やあ、ご苦労様です。どうぞお入りください。大したお構いもできませんが」

 カウエルは椅子から立ち上がって相沢らを迎えた。その様子からは微塵も動揺は感じられなかった。部屋の隅にある応接セットを指して、二人を座らせた。

 コーヒーでも淹れますよと言って、カウエルは自らカップの準備をした。恐縮する相沢と阿南に向って、自分も飲みたいからと言い、三人分のコーヒーを用意した。人手不足は深刻で、カウエル自身が雑用をこなさなければならなくなっていた。

 テーブル上に三つのカップが置かれた。相沢がまず切り出した。

「どうです?養成所の運営は軌道に戻りそうですか?」

「そうですね、来週には元気な教官たちは戻り、欠員も補充できそうです。僕も少しは楽になるでしょう。今は何役もこなさなきゃならないので、些かしんどいですよ」

「ご家族は?」

「LAに女房と子供が。私は単身赴任でね。家もこの施設の中だから、今回は被害を免れました」

「良かったですな。今やこのジオフロントが、世界で最も安全かもしれない」

「スパイが捕まればね」

 その皮肉に相沢は頭を掻いた。

「おっしゃる通り。さて、今日伺ったのは、先日うちの者があなたから聞いた話で、少々確認をしなければならないことが出てきたからなのです。こちらの阿南課長から伺います」

 カウエルは鷹揚に頷いた。阿南は手帳をカウエルから見えないように開き、訊問を始めた。

「10日のことです。調書では殆ど執務室に篭って書類仕事に精を出したとあります。ですが、この養成所から全然出なかった、というわけではない。そうですね?」

「ええ。確か、1時頃から2時半頃まで、技術部との打ち合わせで外に出ていました」

「この前、磯川課長との話では言いませんでしたね」

「すみません。重要とは思わなかったんで、つい省略しました」

「重要じゃないと。まあいいでしょう。外で立ち番をしていた山本君、ハッサン君とも今、あなたが話したことを裏付ける証言をしています。そこでそのための移動ですが、循環バスを使いましたよね?」

「その通りです」

「帰りのバスで被害者と会いましたね?」

「はい」

 カウエルの表情は緊張に満ちたものになっていた。話は核心に迫ってきている。

「あなたと被害者はバスの最後尾の座席に座りましたね?」

「そうです」

「そこでどんな会話をしましたか。できるだけ詳しく教えてください」

 即答はなかった。カウエルは唾を飲み込み、視線を泳がせた。単に記憶を呼び戻している風には見えなかった。

「阿南課長」ようやくカウエルは口を開き、逆に聞き返した。「あなた、あの時バスに同乗していた人達から、もう話を聞いてるんでしょう?」

 阿南は鋭い視線をカウエルに送った。

「一通りは」

 カウエルはふーっと深くため息をつき、姿勢を崩した。緊張がほぐれ、さばさばした態度で口を開いた。

「あの時はどうかしてた。色っぽい美人と二人並んで座ったんで、気分が舞い上がったって言うか。言っていい冗談と悪い冗談の区別がつかなくなっていたんだ。結果、彼女を傷つけてしまった。悪いことをしたと思っている」

「所次長。私はどういう会話をしたかを訊いているんです」

「どうしても言わなきゃだめか?」

「ここは非常に重要なポイントなんです。あなたが31stチルドレン殺害事件に関わっているのか、いないのか。是非とも知らなきゃなりません」

 カウエルは両手を挙げて降参のポーズをした。

「分かりましたよ。最初の5分くらいはありふれた仕事の話だった。そのうちタダオがいないことが話題になった。僕は彼女の太腿に手を乗せてこう言ってしまった。『旦那が留守で寂しいだろ?なんならおれが慰めてやるぜ。本物の味を知ってるよな』そしたら、彼女、血相変えて叫んだんだ。『結構です!』」

 相沢と阿南の厳しい視線の中、カウエルは沈痛な顔をして目を逸らし、続けた。

「車内中の視線がこっちに集まった。僕はあせってごまかそうとした。『オーバーに驚くなよ。かるーいジョークだ。悪かったな』にこにこする僕に対し、マサコの方は窓の外を見つめている。そのうちに洟をすすり出し、目の端に涙を溜めているじゃないか。これはやばいと思った。次のバス停が近づいたんで、僕はストップボタンを押して立ち上がった。逃げるが勝ちと思ったんだ。えーと、確かこう言った。『ここで降りるよ。ごめんな。じゃ、また後で』バスが停まるまでが実に長く感じられたよ。背中に沢山の視線を感じた。着くや否や降りたね。それから用もない方向へ、わざと悠然と歩いた。バスが遠くに去ったのを確認し、またバス停に戻り、次のやつを待った」

 阿南は手帳を見て、同乗していた者達から聴取した内容との整合性をチェックした。些細な違いはあるが、大筋では一致している。とりあえず嘘はついていないようだ。

「彼女、バッグを持ってましたよね。覚えてますか?」

「ああ、紺色のでかいやつ」

「それはどこにありましたか」

「ううん。...彼女、窓に近い方に座った。僕との間には何もなかった。そう、あの子、自分の左側に置いていた」

「バッグの中身は見えましたか?」

「いや、見てない」

「今、証言したことに間違いはないですね?」

「ああ、自信はある」

 この辺も目撃証言と一致している。座席に座っていた間、窓際に置かれたバッグに、手紙を忍び込ませるのはほぼ不可能だ。

 養成所のごみから、目的の封筒は遂に発見されなかった。したがって車中のマサコの行動は、阿南らの最大の関心事だったのだ。

 これでカウエルが白と決まったわけではない。阿南の追求は続く。

「あなたは15年前の米軍時代、女性の部下に対するセクシャル・ハラスメントで告発されましたね?」

「そんなことまで調べたかい」カウエルは明らかに腹を立てた。「僕は確かに行儀のいい男じゃなかったさ。卑猥なジョークは今でも好きだ。だけどね、あの件は結局、無罪になったんだ。それも調べたんだろう」

「ええ。4対3の際どい判決だったこともね」

「いいじゃないか。僕はねえ、阿南さん、悪い人間じゃない。これまで何人優秀なパイロットを送り出したと思う?16人だ!僕はこれで世界を支えているんだ!」

「あなたの教官としての実績は、誰もが認めています。僕が訊きたいのはそんなことじゃない。事実だけです。あなたは冗談のつもりで被害者にあんなことを言ったんですか?」

「ああ、そうさ。本気じゃなかった」

「15年前もそうだった?」

「そうだよ!」

「彼女がどんな境遇にいたかはご存知ですよね。そんな相手に対して、度が過ぎる冗談とは思わなかったんですね?」

「後から思えば暴言だったよ。だから、あの場でも謝ったんだ」

「もし、他に誰もいなかったら?やっぱり謝ってましたか?」

「おいおい、仮定の話をしても仕方ないだろう」

「そうですか。まあいい。兎に角、被害者はあなたの申し出を断り、大勢の前で恥を掻かせた。それに対し、どう思いました?」

「どうって...。まずいことをしちゃったと思ったよ」

「怒りを覚えませんでしたか。この偉い教官の誘いを蹴った上に、大声を出して微妙な立場に追いやったんだ」

「おい、ちょっと待てよ」

 カウエルは質問の意図を見抜き、興奮の度合いを高めた。額に汗が浮き出し、口から唾が飛んだ。

「何か?おれがマサコを殺したってのか?冗談じゃない!おれはそこまで凶暴じゃないし、阿呆じゃない。なんでおれがマサコを殺すんだ!」

「あなたにはセクハラで軍事裁判に掛かった過去がある。今また告発されたら、キャリアに致命的な傷がつくかもしれない。昇進したばかりなのに」

「そんなこと、マサコがするわけないだろう!」

「そう思ったから、卑猥なことを言ったんじゃありませんか?何をしても大したことにはならないと?」

 カウエルは憮然としながらコーヒーをがぶ飲みした。冷静さを取り戻そうとしているようだ。やがて阿南を睨み据えて答えた。

「あの子は大人しい子だからな。そういう思いは心の片隅にあったろうさ。だけど、この際はっきり言うが、僕はマサコを殺してない。あの日は10時までずっと自室で本を読んで、それから寝たんだ」

「そのことを証明できる者がいますか?」

「いや、いない」

 無念そうにカウエルは視線を落とした。相沢と阿南はそんなカウエルの様子をじっと観察している。阿南は容赦なく訊問を続ける。

「先日の聞き取りでもそう言ってましたね。それでいいんですか?訂正する気はありませんか?」

「何が言いたい?」

「その前に。10日の3時半頃、あなたはマサコさんに会いましたね?」

 カウエルは大きく目を開けて動揺の色を現した。射抜くような阿南の視線に耐え切れず、目をそらした。

「そう言えば確かに会ったよ」

「あなたが事務室に入るところを目撃したチルドレンがいました。なぜ隠したんですか?」

「事件とは関係がないからだ」

「関係があるかないかは、こちらが判断します。所次長、聴取の前に、どんな細かなことでもいいから話してほしい、と言われましたよね?」

「ああ」

「捜査に非協力的な態度を取ったのはなぜですか?」

「忙しかったんだ」カウエルは腹を据えて阿南を見返した。「そのことは謝る。何事も包み隠さず言うよ」

 阿南は微笑を浮かべて友好的に見せた。相手を喋りやすくするためだ。

「そうこなくちゃ。まず、何が目的でマサコに会いに行ったんですか?」

 カウエルはさばさばとした態度で証言を始めた。

「バスの中のことでさ、泣かせてしまったから、良心が傷んでね。様子を見に行ったんだ。真剣に謝って、許して欲しかった」

「彼女、どんな感じでした?」

「普通だったよ。僕が何度も頭を下げたら、逆に恐縮してた。『もういいんです。気にしてませんから』と優しく言ってくれたよ。いい女だった」

「本当に。じゃあ、告発はないと思った?」

「ああ。安心して仕事に戻った」

「どのぐらいその場所にいました?」

「ほんの1、2分だろうな」

「所次長、あなたは食事のときだけ被害者に会ったと証言した。しかし、他に二度も会ったことを隠していました。忙しいだけが理由ですか?」

「いや、バスの件があったんで、そっちにまで捜査が及ぶとまずいと思ったんだ。申し訳ない」

「他に隠してることはないんですね?」

「ああ、もうないよ」

「嘘だ!」

 突然、阿南は叫んだ。それはカウエルの肝を縮めるのに十分だった。阿南は険しい表情でカウエルを睨み据えた。

「まだ嘘をついている。夜の話だ。10日の夜11時20分頃、2階の廊下を歩くあなたを目撃した者がいる」

「なんだって...」

 カウエルは呆然として阿南を見た。その表情の奥には徐々に忍び寄る恐怖の色があった。

「あるチルドレンの証言です。その子、夜中に尿意を覚え、トイレに行った。用を終え廊下に出ると、渡り廊下の向こう、つまり今我々がいる棟ですね、あなたの居住室もある。そちらから足音が聞こえたので、立ち止まり様子を見た。最近は物騒だから、警戒したんだそうです。あなただったと言っている。薄暗い廊下を右から左へ、つまり裏口のある方へ歩くあなたを見たと、はっきり証言したんです。部屋に帰ってから時計を見たら、11時20分だったそうです。いったい何をしてたんですか」

 畳み掛ける阿南に対し、カウエルは冷静さと気力を持ち直そうと必死の努力をした。

「ああ、あれか」ぴしゃりと額を叩き、苦笑を浮かべた。「いや、別になんでもないんだ。実は、なかなか寝付かれなかったんで、寝酒が欲しくなった。あいにく部屋には買い置きがなかったんで、この部屋にブランデーのボトルが置いてあったのを思い出し、取りに行ったってわけだ」

 阿南は大げさに顔を顰めた。「ブランデー?あなたはここで酒盛りをしてるんですか?」

「馬鹿言え。勤務中に飲んだりはしないよ。前に昇進祝いとして貰ったのを、ここに置きっぱなしにしてあったのさ。思い出したんだ。部屋に持って帰り、開けて飲んだ。おかげでぐっすり眠れた」

「なぜ黙ってたんですか?我々に嘘をついたことになりますね」

「嘘って...。あのねえ、僅か2・3分のことだよ。重要なことじゃないから省略したまでだ。忙しいから、早く切り上げたかったんだ」

「あなたは、はっきり寝たと言った。本当に寝付いたのは何時頃ですか?」

「多分、12時過ぎには」

「つまり犯行のあった時刻には起きていたということだ」

 カウエルは唾を飲み込み、沈黙してしまった。状況は一段と不利になった。こめかみの辺りで汗が光った。

 阿南は一呼吸置いて手帳に目をやり、次の矢を放った。

「あなたは米軍時代の20台前半、SEALSに所属して相当数の任務をこなした。戦闘のプロだった。当然ナイフの使い方も慣れている。当時の評価はAマイナス。誇っていい成績だ。今でも軍用ナイフを持っていますか?」

 カウエルの表情には、ありありと恐怖が現われていた。

「...あるよ。だがな、部屋の机にしまいこんだままだ。この20年、使っていない!」

「あなたが過去に起こした事件はそれだけじゃない。二度暴力沙汰で譴責処分をされていますね。一度は相手に2週間の怪我を負わせた。当時の評価には『かっとなると見境をなくすことがある』と書かれている。それ以来、あなたは軍の主流から外れた」

「そりゃ、若い時分は血の気が多かったよ。今はそんなことない。あんたはこう言いたいのか。おれがマサコに断られたので逆上し、深夜の森に呼び出し、ナイフで刺し殺したんだと。だったら脅迫状をどう説明する。おれがあんなもの書く理由がないだろう」

「いや、そんな単純な動機じゃない」

 阿南は一息ついてコーヒーを啜った。彼にとって、ここからが勝負所だった。

「あなたは養成所に帰り、大いに悩んだ。もしもマサコが告発でもしたら面倒なことになる。どうにかして口を塞ぎたい。それで10日の3時半過ぎ、マサコにこう告げた。今晩11時過ぎに話し合おうと。謝ったなんてのは嘘っぱちだ。その時、殺意まではない。だが、マサコの方は恐れた。悪くしたら猥褻な行為を強要されるかも知れないからだ。それからずっと不安な時を過ごした。11時過ぎ、あなたとマサコは森で会った。あなたは多分言葉を尽くして、昼間の行為を告発しないように頼んだ。ところが、マサコから返ってきたのは、冷たい拒否だった」

「おい、ちょっと待て」

「最後まで言わせてください。あなたは焦り、最後の手段に出た。軍用ナイフを見せ、凄んだ。大方こんな風に。『黙っていないと痛い目に会うぞ』力ずくで関係してしまえば口を塞げると思ったんだ。しかし、マサコの反応は過敏だった。恐慌を来たし、声を上げそうになる。近くには警備員がいる。あなたは急いで口を塞ぎ、心臓めがけてナイフを突き出した」

 カウエルは口をぽかんと開けて聴き入っていた。それからの反応が意外だった。くっくっと笑い出したのだ。阿南は口を真一文字に閉ざして彼を凝視している。

「くくっ。なかなか面白いストーリーだ。あんた、小説家になったらいいんじゃないか?妄想もいいとこだ。おかしなところがいっぱいあるよ。まず、どうして森なんだ?わざわざ外に出なくても、館内でいくらでも話し合いができるじゃないか」

 阿南は何の動揺も見せなかった。

「森で会おうと言い出したのはマサコの方だ。なぜか。館内では何かあった場合、助けを呼べない。しかし、外なら警備員がいる。危なくなったら逃げ出して、助けを求めることができる。大声を上げれば駆けつけてくれる。そこで窮地に立ったあなたは、小道具を使って監視カメラを無効化した。そのための時間は十分あった。映像記録では、あなた8時39分に裏口から養成所を出ている。倉庫の戸締りを確認するためだったと調書にある」

「そうだ。他にもいろいろ点検する場所はある。10分ぐらい外にいた」

「残念ながら、監視カメラはあなたが帰るところを撮っていない。49分に妨害されたんです」

「くそっ、ついてない!」

 カウエルは顰め面をしながら、膝を拳で叩いた。

「所次長、あなたが外出したタイミングで、丁度カメラがいかれてしまったんですよ。あなたが怪しいと、誰でも思いますよねえ」

「待て。まてまて。じゃ、あの脅迫状をどう説明する?」

「我々はあれをいつマサコが手に入れたか、かなり悩まされた。日中誰かがこっそり渡したに違いない、だがどうやって、とね。しかし、答えは単純。あれは、後でマサコのスラックスに入れたものだ。あなたは思わぬ事態にうろたえながらも自室に戻り、善後策を考え抜いた。そしていい方法を思いついた。脅迫状を偽造し、マサコのポケットに入れておく。そうすれば外部の者に目が向けられるだろう」

 そこで阿南は意味ありげに、奥のデスクに置かれたパソコンに目をやった。カウエルの額に汗が浮いた。

「パソコンで手紙を作ったあなたは森に戻り、遺体のポケットに手紙を差し入れた。封筒にまで考えが及ばなかったのは残念でしたね。それから遺体を抱きかかえて移動した。あなたぐらいの体力なら十分可能だ。死体を森に放置したのには、ちゃんとした意味があった。森で発見されれば、外部の者の犯行と見なされやすいということだ。見つかりにくい森の奥まで動かし、あなたは養成所に戻ろうとする。そこであなたは不安を感じた。途中、誰かに見られたら?その辺をうろつく警備員に見咎められる恐れがあった。そこであなたは地下水道を通ることにした。うまい具合に裏口の傍にマンホールがある。そこまで行き、蓋をわずかに押し上げて様子を伺い、誰もいないことを確かめて養成所に戻った」

 カウエルは冷えたコーヒーを口に含んで、からからに渇いた喉を潤した。額に浮いた汗が眉毛に向って流れ落ちた。

「まだあるぞ。監視カメラだ。あんな妨害装置をおれが扱えると思うか?装置はいつ入手した?」

「あなたがスパイなら可能だ」

「はっ、馬鹿な!おれがスパイだって!」カウエルは狂気じみた笑いを浮かべた。「はは。お笑い種だ。じゃ、あんたの推理を言ってみなよ。じっくり聞いてやるさ」

「さっきも言ったように、あなたは昔SEALSにいた。その時、戦闘員としてのばかりじゃなく、破壊工作のイロハも習ったはずだ。その件は当時の記録を確認済みです。その中に今回のような機器の取扱い方も含まれていた」

 カウエルは動揺も顕わに沈黙した。阿南の舌鋒はさらに彼を追い詰める。

「始めの頃は不思議でならなかった。犯人はなぜ妨害装置を外していかなかったのか?あれは僕も知っていますが、割と簡単に外して画像を元通りにできる。なのに、あんな高価なものをどうしてそのままにする?忘れたとは考えられない。あなたが容疑者として浮かんで、疑問は解消しました。外さなかったんじゃなく、外せなかったんだ。あれを外すと、裏口から帰る姿が撮られてしまう。犯人は養成所内部の人間だということを示唆していたんだ。あなたはあれを残しておかざるを得なかった。

 カウエルさん、あなたの同期は皆あなたより階級が上だ。あなたの不満は募る。おれだけがどうしてあんな子供の相手をしているのか?おれはもっと上にいていい人間だ。そこへ、某秘密組織から声が掛かる。あなたが協力してくれたら、これだけの見返りをあげよう。あなたは自分を認めない組織への不満から心を売り渡す」

「憶測だけだ!」カウエルの絶叫が部屋中に響き渡った。「あんたが言ってることはみんな憶測じゃないか。大体ここを破壊してみろ。下手すりゃフォースインパクトで人類滅亡なんだぞ!そんなことする馬鹿は、リリス教徒かネオ・ゼーレだけだ。おれがそんな狂信者だって言うのか!」

「スパイにもいろいろいる。むしろ情報提供に特化してる者の方が一般的だ。情報を小出ししている間は、ちょっとしたアルバイト気分でいられるさ。あんたはそんな大物じゃない」

 冷たく言い放つ阿南に、とうとうカウエルの理性は弾け飛んだ。立ち上がり、身を乗り出して阿南の胸倉を掴んだ。

「なんだと、この若造。言いたいこと言いやがって。お前が言ったのは全部推測じゃないか!証拠を見せろ。おれがやったという証拠を見せろ!」

 口角泡を飛ばすカウエルに対し、阿南は厳しい目でにらみ返すだけだった。ここまで黙って話を聞いていた相沢がやっと立ち上がり、二人の間に割って入った。

「まあまあ、所次長。ここは落ち着いて。座ってください。まだあなたが犯人と決まったわけじゃないんですから。あんな大声で叫んだら外まで聞こえてしまう。チルドレンが動揺しますよ」

 カウエルは相沢の言葉を聞きいれ、阿南を放して、椅子にどっかと腰を下ろした。視線は阿南に向けられたままだ。

 相沢が穏やかに言った。「確かに今二課長が言ったことは、こちらが描いたストーリーです。証拠はありません。でもまんざら的外れでもない。そう思いませんか?それをこれから検証してみましょうよ。あなたが無実なら、これからする捜索でも何も出ない。いずれあなたの言い分が認められます。我々は他を当ることになるかも知れません」

「捜索だと?」カウエルは怪訝そうな目を相沢に向けた。

「ええ。今からこの部屋、およびあなたの私室を徹底捜索します。これが命令書」

 相沢は懐から折りたたんだ一枚の紙片をカウエルに示した。彼の黒い顔から血の気が引くのが分かった。阿南は事務的に携帯電話を取り出し、ある番号を呼び出した。

「ああ、お待たせ。みんなこっちに来てくれ。捜索開始だ」

 

 

 阿南と相沢は養成所玄関前のロビーで立ち話をしている。先程まで、たまにしか顔を見せない榊原養成所長を相手に、話し合いをしていたのだ。榊原は突然の不祥事に困惑しきった顔をしていた。二階にあるカウエルの執務室および私室は、保安部員による捜索が行われているところだ。6時を回り、館内はひっそりとしている。そこへ、足音を響かせてやって来たのはタダオだった。

 阿南が声をかけた。「やあ、ご苦労様。どうだい、チルドレンの様子は?」

 タダオは普段と変らない態度で阿南に答えた。「さすがに動揺していましたね。今は夕食中です。おしゃべりが止まないので、注意しないと」

 実質トップが保安部の捜査を受けている。落ち着いていろと言う方が無理だろう。

「捜査の邪魔をされては困る。情報漏れも防ぎたい。二階のあの一角には、くれぐれも近づけないでくれ」と、相沢。

「夕食の後は集会所で、アニメの上映をすることにしました。100分もありますから、捜索が終わるまでは大丈夫でしょう」

「それはいい。なかなか気が効くな」

「あの子たちも参っていますからね。気分転換が必要と思ったもので」

 タダオは急に顔を引き締めて阿南に尋ねた。「カウエルさんが犯人だというのは確かなのですか?」

「まだ確定はしていない。現段階では重要参考人といったところだ」

「そうですか」と言ってタダオはかすかに顔を曇らせた。

 阿南は試しに聞いてみた。「君はカウエルが犯人だと思うか?」

「分かりません。僕はそういう推論は慣れてないので。でも、あの人が犯人だったら僕は幸せです」

「ほう、なぜ?」

「僕をこの世に縛り付ける理由がなくなります。僕そのものを、やっと消すことができる。その日が早く来るのを祈っているんです」

 淡々とした口調で深刻なことを言うタダオを、阿南は唖然として見つめる。そこへ、二階から警備員が一人降りて来た。相沢の前に立ったその男は二言三言、小声で何かを告げた。相沢の口元に会心の微笑が浮かんだ。

「出たか。これで決まりかもな。見に行こう」

 阿南は勢い込んで尋ねた。「何か証拠が見つかったんですか?」

「凶器が出た。ナイフだよ。ルミノール反応もあった。行ってみよう」

「やりましたね!」阿南の声が弾んだ。

 相沢と阿南はタダオを残して二階に向った。タダオはその場に残り、二人の背中を目で追った。そして正門の方を振り向き、外に駐車した1台のバスを見つめた。それは二階にいる保安部員たちが乗ってきたもので、今は数名の部員がカウエルと共にいる。カウエルは車内に軟禁されているようなものだ。

 タダオは車内の様子を伺い、保安部員の制服の間に、カウエルの黒い顔を見つけた。視覚の感度を上げて表情まで読み取った。さすがに不安げな様子だ。

 その顔はタダオになんの情動ももたらさなかった。ただ、彼の電子頭脳は、カウエルがこの養成所を去った場合どうなるか、という問題の答えを求めて活発に活動していた。

 

 

 相沢と阿南は警備員に案内されて、カウエルの居住室に入った。4名の捜査官が熱心に指紋の採取や、証拠の物色に当っている。奥の寝室で、山本と草鹿が鑑識係の話を熱心に聞いている。鑑識係はビニール袋を手にぶら下げていた。

「証拠が出たって」

 相沢の大声に気づいた三人が、一斉にこちらを向いた。草鹿が嬉しそうに答えた。「ええ、次長。ナイフですよ。血液反応もありました」

 鑑識係がナイフの入った袋を差し出した。鉄製の鞘も収まっている。刃渡りは20cmほど。幅は約3.5cmで、遺体にあった傷の長さとほぼ一致する。ステンレスの刀身はいかにも切れ味が良さそうな鋭さがあり、危険極まる凶器の装いを持っている。黒いラバーコーティングのグリップとの間には小さな鍔が突き出ている。

 鑑識係が説明した。「これには試薬がついています。この照明の下では何も見えませんが、暗い場所では青く光りますよ。こちらへどうぞ」

 そう言って鑑識係は、傍らにあるベッドの下の隙間に袋を置いた。阿南と相沢は膝を付いて中を覗き込んだ。グリップの根元近くに青い光の輪がある。刀身にも数箇所の光点がある。

 元の位置に戻った二人に、草鹿は嬉しそうに声をかけた。「もう確実ですね。犯人はカウエルだ」

「これはどこにあった?」と阿南が聞いた。

「あそこです」と、山本が言って天井を指差した。見上げた阿南の視線の先には、四角い蓋が開いて丸見えになった天井裏があった。

「僕があそこを開けて見つけました。すぐ手の届くところです」

 いかにもありがちな隠し場所だ、と阿南は思った。見つけてくださいと言っているようなものだ。

 鑑識係が解説する。「刃の部分は乾いた布で拭き取ったんでしょう。ですが、固まった血を完全には取れなかった。グリップもそうですね。おそらく鞘の内側からも検出できるはずです」

 これで血痕がマサコのものと特定できれば勝負あり。カウエルを有罪に持ち込める。阿南に深い満足感がこみ上げてきた。たおやかなマサコの顔が浮かんだ。仇は取りましたよ、チルドレン。

 相沢もほっとした口ぶりで言った。「意外とあっけなかったな。後はあいつを締め上げて自供に持ち込むことだ」

 部下の青木が隣の居間からやって来て声をかけた。「次長、課長、おめでとうございます」

「おお、ありがとうな」と阿南が答えた。

「いやぁ、一本目のナイフから血液反応が出なくてがっかりしましたが、二本目があって良かった」

「なに?」阿南の眉間に小さく皺がよった。

「いえね、最初、居間の机からあっさりナイフが出てきたんですよ。押収してあります。早速ルミノール反応を見たんですが、これが空振りで、血液は発見できなかったんです」

「ほう」

 カウエルは二本もナイフを持っていたのか。何かしら引っ掛かるものを感じた。

「それはどんな形だい?これと似たようなのか?」

「ええ。若干違いますが、同じファイティングナイフです。あれは昔SEALSが採用してたものです」

 草鹿が口を挟んだ。「そっちの方は思い出のある品なんで、大事にしてたんでしょう。実用には別のものを用意してたってことじゃありませんかね」

 まるで阿南の心を読んだかのように草鹿は言った。阿南はそれもあると思い、深く考えるのをやめた。

 

 

 タダオは時折二階の様子を伺いながら、事務室で待機していた。チルドレンは集会所でアニメに夢中になっている。彼は二階の捜索がどうなっているかに、強い興味を持っていた。彼の一番の関心事は、現在の苦しみをいつ終わらせられるか、だった。

 沢山の足音が階段から聞こえて来る。捜索は終わったのかも知れない。タダオは椅子から立ち上がり、ドアに向った。

 ホールに立ったタダオの目に入ったのは、手に手に段ボール箱を抱えた男達だった。箱の数は10個もあるだろうか。阿南や草鹿らもその中に混じっている。タダオは一人ひとりに「お疲れ様です」と声をかけた。

 捜査官は誰もが機嫌が良さそうだった。ぞろぞろと外へ出て行く。タダオの中に期待が生まれた。我慢できず、目の前に来た阿南に声をかけた。

「どうですか?やはりカウエルさんが犯人なんですか?」

 立ち止まった阿南は苦笑した。「残念ながら、今は何も言えない。事件解決は近い、とだけ言っとこう」

 そう言って阿南は去って行った。タダオはホールを出て、玄関口に佇んだ。相沢と阿南が大型バスの中に入った。バスの中は大勢の男達が立っていて、肝心のカウエルの姿は見えない。

 タダオはその場にとどまり、バスを見続けた。しばらくは何の変化もなかった。と、突然バスの中から、明らかにカウエルのものと分かる叫び声が響き、タダオははっきりと聞き取った。

『馬鹿な!それはおれのじゃない!おれは嵌められたんだ!信じてくれ!おれは無実だ!』

 バスが動き出した。タダオの前をバスが通過していく。やがてバスの後尾が見え、その窓の真ん中にカウエルの後頭部を見た。タダオは去り行くバスを見ながら、自らの停止の日が近いことを感じ、喜びとしか言いようのない感覚に浸っていた。

PREVIOUS INDEX NEXT
inserted by FC2 system