前へ
2016/10/01(土)
さて、一線を越えてしまったと言っても、このふたりの事である。
普段はこれまで通りベタベタしないサラッと淡白な仲の良さを保っており、事情を知るアスカが何故かヒカリやケンスケにも黙っていた為、友人達の誰にもふたりが既にそういう関係を結んでいるという事を悟られずにいた。

今日はいつものみんなで郊外の公園へ遊びに行った帰り、夕方になって帰って来た駅前で分かれ、それぞれの家路につく。

「それじゃ、今日はここで」
「うん、じゃぁね」
「ワシとケンスケは、ちょっとゲーセン寄ってくわ」
「そう。じゃ、また月曜日」
「おう」
「じゃあな」
「あ、アタシ、ヒカリんち寄ってくから、アンタ達先帰ってて」
「うん、じゃ、買い物して帰ろうか?」
「ええ…」

そしてシンジとレイはふたり、夕方の買物客で活気溢れる商店街の雑踏の中へと消えて行くのだった。


夕刻・コンフォート17
土曜の夜はレイが食事当番である。当然の様にシンジも手伝っているが、あくまでも手伝いに徹し出しゃばる事はしない。そうしてふたり仲良く台所に立つ様は新婚夫婦の様で微笑ましい。

今夜のメニューは鯖の味噌煮に里芋と人参の煮つけ、ホウレン草のおひたし、椎茸と春雨のお吸い物、それにお漬け物といった所である。
やがて、電子ジャーからご飯の炊き上がりのメロディーが流れ、料理の方も仕上げにかかる。

「そろそろ出来るね。テーブルの準備しようか。
 でも、アスカ遅いね。まだ洞木さんとこかな?」

「そうね、話が弾んでいるのかも…。
 少し待っていましょう?」

「うん、後から一人で食べるんじゃ寂しいもんね」

そんなことを話しているとダイニングのテーブルの上に置いたレイの携帯が鳴り出した。

プルルルル…プルルルル…(ちなみにレイは着メロの設定はしてない)

手に取り画面を確認すると、発信人はアスカの表示が出ている。

プルル・ピッ…

「はい…ええ…そう、わかったわ…。
 …何を言うのよ(ぽっ)。
 …ええ…ありがとう、アスカ」ピッ

「アスカから?何だって?」

「アスカ…今日はヒカリの家に泊まるって…」

「え?そ、そう…」

つまり、今夜は、2週間振りにふたりっきりという事だ。

「…………」

「……」

「…………」

「あの…」

「…なに?」

「しょ、食事にしようか?」

「…ええ」


そんな訳で、アスカ抜きで夕食を始めたシンジとレイであったが、やはりどうしても今夜はふたりきりだという事を意識してしまう。

「あの、今日は、楽しかったね」
「そうね…」
「ほら、つり橋でのマナの怖がり様。
 抱き付かれて困っちゃったよ…って、あの…ごめん」
「…謝る事はないわ。シンジさんは悪くないもの」
「そ、そう…そうだよね、はは(汗)」
「………」
「そうそう、お弁当も美味しかったよね」
「…シンジさんが作ったのだもの」
「そ、それはそうだけど(汗)」
「………」

とかなんとか、ぎこちない雰囲気のまま夕食を終えたふたりは、デザートの抹茶アイスを平らげるとリビングのテーブルに移って宿題を片しにかかる。

が、やはり集中出来ない。

(今夜はレイとふたりきり…)
そう思うとどうしてもレイを意識してしまう。

シンジが向かいに座っているレイをチラッと見ると、レイもシンジを見ていたのか目が合ってしまい、珍しくうろたえたように目を逸らす。心なしか頬が少し赤い様な気もする。

(もしかして、レイも意識してるのかな?)

そう考え始めると、もう一度彼女を抱きたいという気持ちがますます強くなり、もう宿題なんかには手が着かない。

(ぼくはレイを、汚らわしい欲望の対象としてしか見てないのか?
 違う!!そんな事ない!
 ぼくは、レイを…愛してる。
 彼女を傷付けたくない)

彼女を抱きたいという気持ちと、それにより彼女を傷付けてしまうかもしれないと言う不安。
レイがそれを求めていないなら、無理に事を運べば彼女を傷付ける。
だが、逆にもしレイがそれを求めているのなら、踏み止まる方が彼女を傷付けるのではないか?

彼女の気持ちが分からない不安がシンジをますます落ちつかなくさせる。

(もし、レイもぼくを求めてくれるなら…。
 でも、それが、ぼくの勝手な思い込みだったら…。
 そんな事を言って、もし拒絶されたら…)

不安が募る。

またチラッとレイを見るとまたもや目が合ってしまい、ふたりして慌てて目をそらすと言うありさま。

(でも、レイの様子も、何だか…)

レイも目線が落ち着かず、なんだかそわそわしている様子だ。
いつものレイらしくなく、シンジを意識しているような素振りに、シンジは胸がドキドキして来た。

シンジは思い切ってレイに声をかける。

「あの…」

「…なに?」

「しゅ、宿題、今日はここまでにしようか?なんか、集中出来ないし」
(ああっ、違う、こんな事を言いたいんじゃないのに)

「…そうね…」

(ん?何だかレイの様子が…ガッカリしているような?これは、もしかして…)

「…………」

(いや、しかし、でも、そうなの?ぼくの言葉を待ってるの?)

「…………」

(よし!ここは、当って砕けろだ!)

ついにはそう決意してみたものの、胸の鼓動は高まり、妙に喉が乾く。

ゴクリ…

貼り着いたようになった喉を潤す為唾を飲み込むが、その音が妙に大きく感じてしまうシンジであった。

「あ、あの…」

「…なに?」

「その…今夜……いいかな?」

シンジの言葉に、ぼっと顔を赤らめ、コクリと頷くレイであった。

そして、頬を染めたままシンジを見つめ、微かに笑みを見せるレイは、本当に可憐で美しく、『なにが?』と聞き返しもしない事に、一瞬(質問の意味、分かってるのかな?)と思いつつも、シンジはしばし惚けたように見とれてしまうのだった。

「私…お風呂に入ってから、シンジさんの部屋に行くから…」

「う、うん。じゃ、後で」

レイの言葉に我に返り、涌き立つ気持ちを抑えて部屋へと戻るシンジであった。


シンジの部屋
「レイ…遅いな…」

かれこれもう1時間ほどになるのになかなかレイがやって来ない。

自分の部屋に帰って手早くシャワーを使い、既に髪も乾いたシンジであるが、レイは身繕いに時間がかかってるのか、それとも、気が変わって今夜は来たくなくなってしまったのか…。

シンジが自分の部屋で独りレイを待ってやきもきしていると、携帯が鳴る。アスカからだ。

『もしもし、シンジ?レイもそこに居るの?』
「え?あ、レイはお風呂に入るって言うから、ぼくは自分の部屋に戻ってるんだけど」
『ふ〜ん?いつもより大分早いんじゃない?』
「そ、そうかな?あ、今日は9時からのドラマが無かったから、その分早かったんだ」
『…ちょっと待って、あの娘、いつお風呂に入ったって?』
「え?…もう1時間位前かな?」
『今、レイのケータイに電話したら出なかったからそっちにかけたんだけど、
 ほんとにそっちに居ないのね?』
「いないよ?どういうこと?」
『寝るには早い時間だし…まだお風呂?
 変ね…あの娘、そんなに長くお風呂に入ってた事ないわよ』
「え…」
『シンジ、お風呂でのぼせてたりしないかちょっと様子を見て来て』
「で、でも…」
『デモもストライキも無いでしょ?!早く!』
「う、うん、わかったよ。このまま繋いでおくから」

シンジは携帯を切らずにそのまま手に持ってレイの部屋に向かう。

(なんか、この前と似たシチュエーションだな…)
などと思いながら、自分でもレイのことが心配になって来てしまい、足早に隣りの部屋に向かう。

玄関から入るなり、レイを呼んでみる。

「レイ?」

返事が無い。

そのままダイニングに入るとバスルームからシャワーの音が聞こえたので、シンジはホッとする。
だが、それもつかの間、シャワーの水音には変化が無く、人の動く気配が感じられない。

またもや不安になったシンジは恐る恐る脱衣所に入ると、ドア越しに声をかけてみる。
「レイ?レイ?大丈夫?」

だが、レイの返事が無い。

「おかしい、アスカ、返事が無いよ…」
『何やってんのよ!ドアを開けて確認すればいいでしょ?!』
「うん、今…」

さすがに気恥ずかしさより不安が勝ち、シンジは躊躇する事なくドアを開ける。

ガチャ

「!!レイ!!」

シンジが見たのは、降りしきるシャワーの飛沫の中に横倒しになって背中を丸めて倒れているレイであった。
濡れるのもかまわず慌てて走り寄り、レイを抱き起こす。

「つ、冷たい…」

シンジはレイの身体のあまりの冷たさにギョッとする。
慌てて頚動脈に手を当て、脈を見るが、指先に鼓動を感じられない。

「嘘だろ…レイ…
 目を…目を開けて…返事をしてよ!
 レイ!!」

レイの肩を持って必死に呼びかけるが、その首は力なく項垂れ、その目が開かれる事はなかった。

「なんでだよ、なんで…
 レイ、起きてよ…
 レイ!レイーっ!!」

レイを抱き締め慟哭するシンジに降り懸かる冷水のシャワーが、シンジの身体をも冷やして行く。だが、それ以上に、シンジの心はレイを失う恐怖に凍り付こうとしていた。


『もしもし?シンジ?レイがどうかしたの?シンジ?シンジっ?!』

脱衣所に落ちたシンジの携帯から、アスカの声が虚しく響いていた。



新世紀エヴァンゲリオン++

第弐拾五話: 命 


深夜・NERV医療部ICU(集中治療室)
「仮死状態?」
レイが収容された治療カプセルの前に立ち、訝しげにリツコに聞き返すミサト。

「そう。心停止には至ってないけど、鼓動は1分間に数回。
 微かに自律呼吸もしてるけど、体温は極度に低下しているわ。
 脳波は微弱なδ波を描いている。
 各種刺激に対する反射は有ることは有るけど、反応は弱いわ」
手元のカルテを見ながら答えるリツコ。

その言葉にミサトは緊張した表情を見せる。
「生きてるのよね?」

リツコはチラッとミサトに目を走らせると、またカルテに目を落とし、溜め息混じりに答える。
「一応は、ね」

あの後アスカの急報でレイは NERV保安部員により本部・医療部に収容されたが、当直医では手に負えない為リツコが呼び出されていたのだった。
リツコは産休を取り帰っていた実家から最近自宅マンションに戻り、子育てをしながらの在宅勤務を始めていたのだが、急な呼び出しに一緒に連れて来た子供は、今は本部内の託児所に預けている。

働く女性が多い NERV本部では、0才児から預けられる託児所が24時間体制で子供達の面倒を見てくれるのだ。

「一応?…原因は?何か判ったの?」
「ダメね。今まで無かった事態だわ。
 レイは意識を失っているのに、無意識のうちにATフィールドを展開している。
 心電図や脳波は採れるけど、スキャナはアクティブもパッシブも役に立たない。
 身体に触ることはできるから触診は出来るけど、それだけじゃ何も解らないわ!
 どうしろって言うの?!」
語気を荒げるリツコだが、それは何もできない自分への歯痒さ故であろう。

リツコは医師ではないが、ATFに阻まれろくな検査が出来ない為、元E計画責任者として呼び出されたのだった。

「レイ…まさか…」
ミサトの脳裏には『造られた生命』であるレイの身体の寿命に対する懸念が湧き上がっていた。

だが、リツコは別の事を考えていた。そう、いかにしてレイを救うか。そのことを…。
それにはまず、レイの身体が今現在どうなっているのかを正確に知る必要がある。
前回の定期診断の結果は全く異常が見られなかったので参考にもならない。
「こうなったら…そうね、シンジ君を呼んで…。
 いつかの実験、憶えてるでしょ?」

そう、シンジなら、レイのATFを無力化出来るはずである。

「そうか、シンちゃんなら…(ハッ)シンちゃんは?!」

本来ならここに居てもいいはずのシンジの姿が見当たらない。
保安部員がレイと一緒に本部に連れて来たはずだが…。

「錯乱していたから鎮静剤を打って、今は眠らせているわ。
 明日まで目を覚まさないでしょうね」
「そう…そっか、彼が倒れているレイを発見したんだって?
 ショックよねぇ…」

シンジの心中を思ってか痛々しい表情のミサトは、思い出したように顔を上げる。
「アスカは?」

アスカは電話で異常事態を察知し、本部に連絡後、タクシーで直接本部へ来ていた。

「今はシンジ君に付き添ってるわ。
 あの娘も大分ショックを受けてたみたいね」
「そりゃそうでしょ?私だってショックよ!
 今まで元気だったのに、突然!」
「そうね。私にも予測出来なかったわ。
 シミュレーションの結果からは…」
「世の中、そうそう計算通りにはいかない…ってことか」
苦虫を噛みつぶした様な表情で、吐き捨てる様に言うミサト。

「とにかく、レイの容体は現状で安定しているから、
 シンジ君が目を覚ましたら検査を再開しましょう」

コンソールに向かい、シンジを介してのスキャンに必要な器材のリストアップを始めるリツコであった。


翌朝
(…ここは…どこだろう?)

目を覚ましたシンジは、頭上に広がる見慣れぬ天井に、今現在自分がどこに居るのか分からなくなっていた。

(…この天井は知ってる。
 そうだ、NERVの病院の天井だ!レイは?レイはどうなったんだ?!)

慌てて身を起こして辺りを見回すと、隣りのベッドに昨日の服装のまま腰をかけて項垂れているアスカを見つける。

「アスカ、レイは?!レイは大丈夫なの?!」

シンジの問い掛けにノロノロと顔を上げたアスカの表情は憔悴し切って疲れが滲み出ていた。
その表情に、答えを聞くのが怖くなってしまったシンジは言葉に詰まってしまい、目を宙にさ迷わせる。

(まさか、レイが…)

アスカはシンジの顔を見ると、溜め息を吐き、疲れた口調で事実を告げる。
「生きてるわよ。ただ…意識不明。仮死状態だって…」

『生きている』と聞いて少しホッとするシンジだが、仮死状態とは穏やかでない。
眉をひそめて問い返す。
「仮死状態?…そんな…一体何が…」

「分かんないわ。今、リツコが調べてるけど、まだはっきりした事は…」

プシュ…

圧搾空気の音と共にドアが開くと、白衣のリツコが入って来た。
「おはよう、シンジ君。気分はどう?」

リツコも目の下にクマを作っている。どうやら一睡もしてないようだ。

「あ、リツコさん。レイ…綾波は、大丈夫なんですか?」
「まだなんとも言えないわ」
「そんな…」
「だから、あなたの協力が必要なの」
「え?ぼくの?ぼくにできる事なら何でもやります。
 だから、レイを、助けてください!!」

縋るような目で懇願するシンジを見て、リツコは目を伏せ、口元に自嘲的な笑みを浮かべる。
「シンジ君。レイを救えるのは、私達じゃない、あなただけかもしれないのよ…」

「え…」

(でも、NERVの持てる全ての力を注ぎ込み、出来る限りのことはする。
 それが、あの娘に対する償いですものね)
顔を上げシンジの目を見つめるリツコの瞳には、リツコの決意を表わすかの様に鋭い輝きが宿っていた。

「だから、一緒に来てちょうだい」
「はい!」

シンジはリツコの眼光にも気圧されず即答し、白衣をひるがえして部屋を出て行くリツコの後を追う。

「あ、ちょっと、アタシも行くわ!」

呆然と二人のやりとりを見ていたアスカは、慌ててその後に着いて行くのであった。


ICU
「エントリープラグ?」

ICUに入ったシンジはそこに据え付けられた装置を見てつぶやいた。

「そ、元はシミュレーションプラグよ。大突貫で改造したから見栄えは良くないけど」
リツコは作業員から渡されたチェックリストをチェックしサインしながら答える。

なるほど、垂直に立てられたプラグの回りにゴテゴテと装置が取り付けられ、物々しい雰囲気を醸し出している。

「レイは今あの中よ」

レイは既に治療カプセルからそちらへ移されているようだ。

「ぼくは、何を…」
「シンジ君にはこれを着てもらうわ」
「な…なんですか?これ…」

それはプラグ同様、ゴテゴテと何かの装置が取り付けられたプラグスーツだった。

「それを着たらあの中に入ってもらうわ。計測器としてね」
「計測器?」
「そ、困った事にレイが無意識にATFを張ってしまって体内をスキャン出来ないのよ。
 以前のレイのATFの実験、憶えてるでしょ?
 シンジ君ならレイのATFを無力化出来るはずなのよ。
 それに…弐号機の初陣の時の、アスカとのタンデム。
 あの時、初対面の二人が驚異的なシンクロを示したことは知ってるわよね。
 ホントに貴重なデータだったわ。
 LCLが人の心の壁を浸透する触媒の役割をする事が分かったの」

実際、そのデータを元にダミープラントが設計され、それ以前は技術が確立出来ていなかったレイの記憶のダミーボディへのバックアップも、LCLを介して行なう事で可能になったのだったのだが、そのことには今は触れない。

「つまり、LCLの中は人が心を通わせるのに最適な環境と言う訳。
 だから今回も可能な限り有利な条件で行なう為にLCL内で行なうわ」

「そうですか…解りました。やってみます」

シンジが別室で着替えている間、ICUでは急ごしらえのコンソールに取り付いたリツコとマヤそして医療部スタッフが慌ただしくスキャニングの準備に取り掛かる。

「赤木君、どうだね?」
すでに事情を聞かされているのだろう冬月が、ミサトと共に入って来た。

「はい、既にハードウェアセッティングは終わっています。
 あとはソフトウェアのインストールだけですが、それももう…どう?マヤ?」
「はい、今…終わります。
 システム・オールグリーン。
 待機します」
「あとはシンジ君が頼りですわ」
「ふむ…だが、無事スキャニングが終わったとして、そこから先は君たちの仕事だ。
 よろしく頼むよ」
「それはもちろん!全力を尽くしますわ」


しばらくして着替え終わったシンジが姿を表わし、簡単なブリーフィングの後、早速スキャニングに取り掛かる。

「シンジ君、足元に気をつけて」
「はい、大丈夫です」

プラグの回りに組み付けられた足場を登って入り口に辿り着いたシンジがプラグの中をのぞき込むと、久々に嗅ぐLCLの匂いが鼻を突く。プラグ内の照明で内部は明るく、LCLを通してレイの髪が見える。レイは頭を上にした直立姿勢で、プラグ中心を垂直に貫く仮設ポールにベルトで固定されているのだ。

(磔にされているみたいで、嫌だな…)
思わずレイが融合した時のリリスの姿を思い浮かべてしまうシンジだった。

「エントリーします」
「スキャナヘッドは精密機器、繊細だから、ショックを与えないように、ゆっくり、確実にね」
「はい」

シンジはレイが固定されているポールを挟んで両側に立つ別のポールに取り付けられたドーナツ状の足場に乗り移ると、プラグスーツの肩の部分に有るコネクタに信号ケーブルを接続し、ちょうど腕の高さに水平に設置されたリング状の固定具に両腕を廻す。
プラグスーツの両腕の内側から胸にかけてズラリと取りつけられた直径5cm×厚さ3cmほどのスキャナヘッドが固定具のはめ合い部に収まり、自動的に固定される。

「準備、出来ました」
「OK。では、第一段階に入ります。
 スキャンユニット下降。レイの胸の高さまで下げて」
リツコの指示にマヤが応える。
「了解、スキャンユニット下降。深度マイナス202」

軽いショックと共にシンジの乗った足場が腕を固定したリングと共に下降する。
足元からLCLに漬かり始め、やがて、水面が首まで来た時、シンジは思わず声を漏らす。

「うっ、冷たい…」
「そのLCLの温度はレイの体温に合わせてあるわ。
 心拍数が戻らない以上、無理に体温を上げると組織に損傷を与える可能性が有るから。
 その代わり、シンジ君には負担を掛けるけど我慢してちょうだい。
 あまり、長い時間は続けられないわね」
「そ、そうですか…」

思い切って冷たいLCLを肺まで吸い込む。胸が痛い。

(こんな中に、レイは…)

心も痛む。だが、レイの体組織の保全にはLCLの機能に頼るしかない現状では致し方なかろう。

ゆっくりと下降すると、リングの中心をレイの身体が通り抜け、シンジがレイと向かい合うように立つ位置で停止する。シンジの腕を固定したリングは、スキャナヘッドをレイの胸部を取り囲む様に配置する形になり、二人はほぼ同じ目の高さになる。

レイは、スキャンに影響しない薄い素材の貫頭衣を着せられていた。
その目は穏やかに閉じられ、まるで眠っているように見える。

(レイ…)

この腕で抱き締めたい…が、今は腕がリングに固定されているので、ただ見つめるだけしか出来ない。

(こんなに近くに居るのに、こんなに遠く感じるなんて…)

『シンジ君、何でもいいからレイに呼びかけてみて』
スピーカーを通じてリツコの指示が出される。

「あ、はい。
 レイ…レイ…ぼくだよ、シンジだよ、目を覚ましてよ」

「どう?何か変化有る?」
「いえ、今の所は、まだ…」
コンソールをのぞき込むリツコとマヤ。
ミサトやアスカは後ろの方で心配そうに様子をうかがっている。

『シンジ君、続けて』
「はい。レイ…レイ…」

「マヤ、ATF以外のパラメータも監視を怠らないようにね」
「はい、もちろん。音声、電流、磁束、光学センサー共、全て記録中です」

「リツコ、マイク貸して」
「アスカ?」
「アタシも呼びかけてみるわ」
「そうね。やってみて」

『レイ!さっさと目を覚まして帰って来なさいよ!
 でないと、アタシがシンジを取っちゃうから!』

アスカらしい物言いに、シンジは元気づけられる。

「アスカ…。
 ね、レイ、アスカはあんな事言ってるけど、本気じゃないんだよ。
 でも、アスカも、きみに帰って来て欲しがってる。
 他の皆だって…。
 もちろんぼくも…いや、他の誰よりも、ぼくは、きみに帰って来て欲しいんだよ。
 だから、目を覚ましてよ、レイ…」

「シンジ君…」
モニターしているマヤは、シンジのレイへの呼びかけに涙ぐんでしまっている。

だが、何度呼びかけてみても、状況に変化は見られない。

「ダメか…」
悲しげに目を落とすリツコ。

「レイちゃん…」
「レイ…」
マヤもミサトもアスカも、悲痛な表情でモニターを見つめるだけしか出来ない。

『リツコさん』

そこにシンジの呼びかけが有った。

「な、何かしら?」
リツコは慌てて応える。

『このリングを外していいですか?
 直接、レイに触れてみたいんです』

「いいわ、やってみてちょうだい。
 こんな事もあろうかと、そう設計しておいたのよ」

リングを使うのはスキャナヘッドの位置を最適配置に固定する事でデータ処理の効率を上げる為だが、ランダム配置でもデータ解析に時間がかかるだけで、スキャン出来ない訳ではない。
スキャナヘッドをリングに直接取り付けず、わざわざプラグスーツに取り付けたのはそういう使い方を考慮してのことであった。

『シンジ君、今ロックを外すから』

カシュン…

軽い音と共に、シンジの腕が自由になる。

シンジは邪魔なリングを頭上に持ちあげると、レイが固定されているポールごとそっと彼女を抱き締める。スキャナヘッドがゴツゴツするので、強く抱き締める訳にはいかない。

「レイ…」

そして、頬を触れ合わせる。

柔らかく、だが、ひんやりと冷たい、レイの頬。

「レイ…」

シンジの目から、涙がLCLに融け出す…。

「レイ…ここは寒いよ…目を覚ましてよ…
 一緒に家に帰ろうよ…ぼくらの家へ…」

(……い……り…く…)

「?!レイ?気がついたの?レイ?」
ハッと目を見開き、レイの顔をのぞき込むシンジ。

「どうしたのシンジ君?
 マヤ?」
「ATFに揺らぎ発生!
 ウィンドウが開いて内部が観測でき!あっ」

パチッ!バシュン!ブーン…

一瞬のスパークの後ブレーカーが働き真っ暗になる室内。だが、数瞬後、電源は自動的に回復する。
室内に絶縁体が焼けるきな臭い匂いが充満し、コンソールからも所々細い煙が漏れている。

「状況は?」
「パルスの逆流です。スキャナが破壊されました」
「シンジ君は?」
『リツコさん?何が有ったんですか?』
「無事なのね」
『ええ、ぼくは。
 でも…レイは相変わらず目を覚ましません。
 今、一瞬レイの意識を感じたと思ったのに、目を開けてくれなかった…。
 だけど、拒絶されたって感じじゃなかったから、希望は有ると思います』
「ええ、そうね、こちらの計測データでもATFのゆらぎを検出しているわ。
 でも、スキャナがダメになったの、今日はこれ以上無理だわ」

マヤが声をひそめて報告する。
「先輩、データストレージも…」
「なんてこと。せっかくのデータが…」
「サージ対策が必要ですね」
「早速改良品の設計に掛かりましょう」


だが、それ以降、日を改めて何回トライしても、再びレイのATFに穴を穿つことはできなかった。


1週間後
レイは今は再びLCLを満たした治療カプセルに横たえられていた。

「どれもこれもダメ、か…。
 ふぅ…参ったわね…」
この一週間、考え得るあらゆる手段を試してみたのだがどれも功を奏せず、さすがのリツコも顔に疲れを滲ませていた。

「八方手詰まり。お手上げってわけね…。
 レイ…どうしてなの…何故、シンジ君までを受け入れてくれないの?」
ミサトも可能な限り立ち会うようにしていたが、自分では何もできないことが口惜しく、歯噛みする思いだった。

「深入りしようとすると弾き返される…本能的な自己防衛反応ね。
 シンジ君すら受け付けないのは、意識が外に向いていないから外の状況を認識出来ないのかしら?
 でも、少なくともATFが健在なうちは、レイの心はここに存在する。
 つまり、生きてるって事よ。
 生きていてくれれば、生きてさえいれば、それは、可能性が有るって事…。
 諦めないわ」

それは、母親故の強さであろうか?ミサトはリツコに今までに無い強さを感じていた。

「リツコ…。
 今日はもう休みましょう。
 シンジ君も疲れているし、あなたも少し休みなさいよ。
 アキラ君、母乳なんでしょ?お乳の出が悪くなったりしたら…」

実際、マヤなどは、昨日貧血で倒れてしまい、今日は強制的に休ませていた。

「そうね、私も少し休むわ」
時計をチラッと見る。
「アキラも授乳の時間だし。
 そこまで一緒に出ましょう」
「私はシンジ君達を送って行くわ」
「ミサト…」
「ん?」
「あの子達の事…頼むわ…」
「分かってるって」

ピピ…

リツコはキーを叩き、レイのモニターを MAGIに任せると立ち上がり、二人連れ立って部屋から出て行くのだった。


本部内控え室
(…とは言ったものの、私にできることはあまり無いわねぇ…)
ミサトは控え室に向かう廊下の道すがら、二人にどう接したものか、考えあぐねていた。

溜め息を吐きながらシンジ達の待つ控え室のドアの前に立つが、無理やり明るい表情を作るとドアを開ける。
だが、ミサトはそこから溢れ出したシンジの怒号に唖然と立ち尽くしてしまった。

「ぼくは、無力だ!
 レイのことを護るなんて、格好つけてみても、
 結局、いざとなれば何にもできない、ただの子供じゃないか!!」
「シンジ、落ち着きなさいよ!」
「アスカはレイのこと心配じゃないんだろ?!だからそんなに落ち着いていられるんだ!」

『シンジ君!言い過ぎよ!』そう言って割って入ろうとしたミサトであったが、

バシッ!!

と良く響く頬を張る音に機先を制され、踏み入るタイミングを逸してしまう。

そこには、唖然とした表情で立ち尽くすシンジと、シンジの頬を張った右手を左手で握り締めてわななくアスカの姿が有った。

「こっ…このバカシンジ!!アタシが、レイのこと心配じゃないってぇ?!
 よくもそんなことが言えるわね!!
 アタシだって心配よ!!心配に決まってるでしょ?!
 だけど、そんなこと、ここでグズグズ言ってたって、何の解決にもならないでしょ?!
 レイは帰って来る!絶対帰って来るわよ!ここに!アタシたちの所へ!アンタの所へ!
 絶対…絶対帰って来るんだからぁ…」

俯いて肩を震わせるアスカに、シンジは取り乱して酷い事を言ってしまった自分の身勝手に気づき、自分自身が情けなくなって来る。

「あ…アスカ……その…ゴメン…」
「ぐす…謝るくらいなら、もっとシャキッとしなさい。
 すん…レイが帰ってきた時、胸を張って迎えられるようにね。
 そして、信じて待つのよ」

「そうよ。信じるしかないわ」

「!あ、ミサト…」
「ミサトさん…」

頭に血が上っていてミサトが来ている事に気付いてなかった二人は、その声に驚いて振り向く。
そこには、優しい笑顔を浮かべたミサトが立っていた。

「シンジ君、
 レイだって帰って来たいと思っているはずよ。
 だって、ここにはシンちゃんが居るんですもの。
 レイは今、自分の中の何かと戦っている。
 リツコも頑張ってるわ。
 確かに私達には何もできないかもしれないけど、あの子を信じてあげることはできるわ。
 だから、あの子の強さを信じて、帰って来る場所を温めて、待っていてあげましょう。
 こんなギスギスした雰囲気じゃあの子が悲しい思いをするだけよ。
 自分のせいで…って…ね」

話しながら二人の目前に歩み寄っていたミサトは、二人まとめてギュッとかき抱く。

ミサトの豊満な胸に押しつけられて二人ともたじろぐが、不思議と嫌な気はしない。
その温もりに包まれて、気持ちが落ち着くのを感じる。

「はい…」
「ミサト…」

(だから…帰って来なさい、レイ…)

そしてミサトは心の中で、そう呟くのだった。


そして、また数日が過ぎた
リツコ達スタッフの必死の努力やシンジ達の協力にもかかわらず、有効な打開策を見つけられぬままレイは依然意識を回復せず、容体は膠着していた。

あれからシンジもアスカも努めて明るく普段通りに振る舞うようにしていたが、それだけについ会話の端々に、ダイニングやリビングの空席に、そこに欠けている者の存在を意識してしまうのだった。
特に学校ではシンジの目の前にレイの席が有るのだから尚更だ。

学校や友人達には「急に倒れて入院中である」とだけ知らせてあったが、実際それ以上のことは分かっていないのだから仕方ない。
友人達も共通の友人であるレイを心配する一方で、シンジの落ち込み様にあれこれ気を紛らわせようとするのだが、成功しているとは言い難かった。
そんな友人達の気遣いに感謝しながらも、日々焦燥が募るシンジであった。


深夜
シンジは、夢の中でカヲルと話していた。
何処とも知れぬ夕焼け色に染まった海岸に二人、制服姿で並んで座っている。

膝を抱えて背中を丸め、俯き気味に打ち寄せる波を見つめながら、シンジが呟く。
「カヲル君…レイは…レイはどうなっちゃうの?
 もう、目を覚まさないのかな?
 そんなことになったら…そんなこと、考えたくないよ」

カヲルは両手を後ろに突き、足を前に投げ出すようにして座り、空を見上げていた。
プラチナブロンドの髪がサラサラと風にそよいでいる。
「シンジ君。彼女の身体のことは、僕にも分からないよ。
 ただ、信じて待つしかない。
 彼女の生命力をね」

「みんな、同じ事を言うんだね」

「信じられないかい?」

「信じたいよ。ぼくだって…。
 だけど、怖いんだ…レイを失うことが…。
 何もできないのが、辛いよ。
 レイの為に何かできればいいのに」

「何もできないのは、大人達もだろう?
 シンジ君を責める者はいないよ」

「そうじゃないよ、カヲル君。
 誰かがじゃない、ぼく自身が自分を責めるんだ。
 何か出来たはずじゃないのか?って…」

「そうか…。
 では、シンジ君。君にできる事を教えよう。
 神に祈る事さ。
 そんな者が居るのならね」

「カヲル君…」

アルカイックスマイルを浮かべたまま突き放したように言い放つカヲルに、困惑するシンジであった。


(綾波レイ…シンジ君がこんな思いをして待っているのに、何をしているんだい?君は…)

カヲルの紅い瞳に映るのは、何も無いオレンジ色の空間だけだった。


10/14(金)夕刻
今日もシンジ達の協力でレイの覚醒実験が行われたが進展は無く、疲れた表情の彼らを帰した後、リツコは本部内の食堂で食事を済ませると託児所からアキラを引き取り、通称「赤木研究室」と呼ばれる私室に戻っていた。

託児所から間に合わせに借りたベビーベッドにアキラを寝かせ、コンソールに向かうと、これまでの実験で得られたデータを呼び出し、MAGIに検討させる。

その間にコーヒーサーバーをセットし、パックの挽き売りのブレンドを淹れる。
リツコは愛用の猫印マグカップにコーヒーを注ぎ、一口すすると溜め息を吐く。

「ふぅ…あまりにも、データが少なすぎるわね」

立ったままモニターを睨みながら考え込む。

(あれから2週間か…。
 このままでは進展は望めないわ。
 何故なの?レイ…あなたはいったい…)

「あ…うあ…う…ふぎゃーっ!」

突然のアキラの泣き声に思考を遮られたリツコは、カップを置くとベッドに向かう。

「あらあら、どうしたの?アキラ?」

抱き上げてオムツの様子を見る。

「オムツは濡れてないし、ミルクはさっきあげたばかりだし…?
 よしよし、どうしたの?
 困ったわね、どうしたらいいのかしら?」

むずがるアキラをあやすリツコだが、さすがに子供の扱い方はまだまだ勝手が掴めないようで、なかなか泣きやまない。

と、そこに電話の音が鳴る。

プルルル…プルルル…

「アキラ、電話なの、ちょっと待っててね」

そう話し掛けながらアキラをベッドに戻すと、電話を取る。

プルル・チャ…
「はい、赤木です。
 …え?何ですって?レイのATFが消えた?!すぐ行くわ!!」

慌ててアキラを抱き上げ、託児所経由でICUへと向かうリツコであった。



























…そして…

























10/15(土)朝
カーテンの隙間から射し込む薄明かりに、レイはゆっくりと目を開ける。

その紅い瞳に映る天井は、かつて見慣れた病室の物。

どうやら自分は NERV本部の病院の一室のベッドに寝かされているらしいと認識する。

(?私…どうしてここに寝てるの?
 碇くんの部屋へ行かなくてはいけなかったのに…)

ぼーっとした頭でそんな事を考えていると、ふと風が運ぶ香りに気付く。

「…いい匂い…」

窓の方を見ると、少し開いた窓からカーテンをそよがせて微かに風が入ってくる。

「キンモクセイよ」

窓の反対側から聞こえるリツコの声に振り向くレイ。
「赤木博士…」

ベッド脇の椅子に座っていたリツコは立ち上がり、ベッドを迂回して窓際に寄ると、カーテンを開く。
「今の日本の気候に適応出来るようにした改良種よ。
 常夏の日本でも、ちゃんと10月には花を付けるわ」

「改良種…」
呟くようなレイの声。

「そう。造られた命…。
 でも、この香りは造り物ではないわ。あの花自身が創り出したものよ。
 いい香りね、とても…」

「………」

レイは窓際に立つリツコをじっと見ていたが、リツコは窓の外を見ながら話を続ける。

「日本には雄株しかないから、花は咲いても実は付けないけど…」

レイはその言葉に反応して顔を伏せ、寂しげな声で呟く。
「私と…同じ…」

リツコはレイの方に向き直り優しい表情を浮かべる。
「あら?あなたには、シンジくんがいるじゃない?」

「…でも……私は……」

「………」
リツコは表情を固くすると無言でベッドの脇の椅子に戻り、座って足を組むと、手に持ったバインダーを開く。
「あなた、どうしてここに寝ているか分かってる?
 急に倒れて、2週間も意識不明の昏睡状態だったのよ」

「え…?」
(そう言えば、私…何故ここに?
 シャワーを浴びていたら突然目の前が暗くなって…)

まだボーッとしている頭で自分の肉体に意識を向けると、身体が重く気怠く、まるで自分の物でないようにすら感じる。
無理やり上半身を起こすと、目眩いがして一瞬視界を失う。

(…私の身体に…何か…あったの?)

そう思うと、かつて感じた事の無い程の恐怖がレイを襲う。
ゾッと寒気を感じ、身体に震えが走る。

(…私…無に還る時が来てしまったの?…嫌!そんなの!!…怖い…)

レイはキュッと自分の体を抱き締めるように背を丸めながらも、震える声でリツコに問い掛ける。
「…私の…身体に…なにか…変調があったんですか?」

リツコは眉を顰めると、深刻そうな表情で話し始める。
「変調?…そんな生易しい物じゃないわ」

言葉を区切り、溜め息をひとつ吐く。

「ふぅ…。
 検査の結果が出たわ。
 落ち着いて聞きなさい」

ビクッと身を固くするレイ。
「…はい…」
緊張した面持ちで次の言葉を待つが、不安からか顔が青ざめている。

「まったく人間の無力さを思い知らされるわ。
 最新科学の粋を集めたこの NERVの頭脳を以ってしても、未だに解を得ていないのよ。
 それなのに…」

またもや言葉を区切り溜め息を吐く。

「ふぅ…。
 生命の力は偉大ね。自ら新たな命を生み出す力を発現させるなんて…。
 おめでとう、レイ。
 あなた、『女』になったのよ」

その意味が理解出来ず、キョトンとするレイ。

優しく諭すように言葉を重ねるリツコ。
「排卵が確認されたわ。
 半月後に初潮が確認されるまでは不確定要素が残るけど、まず問題無いわ。
 レイ、あなたも赤ちゃんを作れるのよ。子供を産めるの…」

「え?

 …私が?

 …子供…を?

 …産める…?」

その意味を確かめるように、言葉を噛み砕くように、一句一句呟くレイ。

自分が望んでいた事が叶う日が来たのだと、ようやく理解出来た時、レイの心から情動のかけらが溢れ出し、紅玉の瞳を潤すと、透明な雫を形作り、その白磁のような頬を伝わり落ちる。

「私が?…私が?…」

そう呟きながらポロポロと涙を落とす様は、ただただ可憐であった。


やがてリツコは椅子から立ち上がり、ベッドに腰をかける。そして、レイをそっと抱き締めると優しく声をかける。
「良かったわね、レイ…」

リツコからは、かつてのようなタバコの匂いもキツ目の香水の香りも感じられない。
代わりに、ほのかに甘いミルクのような優しい香りがした。
そして、その香りと共に与えられる優しい抱擁に、レイはシンジに抱き締められる時とはまた違う種類の心の安らぎを感じていた。

ちょうどその時、ミサトが入室して来た。そして、その光景に一瞬驚き目を見張る。
窓から射し込む柔らかな光と金木犀の香りに包まれ、レイを優しく抱擁するリツコの姿は、一枚の写真のような一幅の絵のような、暖かな情景であった。
自然と笑みが零れる。

リツコは入って来たミサトに気付き、顔を巡らす。
ドアの所に立ったミサトが優しい笑顔を浮かべているのを見て、自らも微笑みを浮かべ、再び腕の中のレイに視線を戻す。

しばし、暖かな時間が流れた後、レイはリツコの腕の中でモゾと身じろぎし、小さな声で呟いた。
「……ぁ…さん…」

「ん?」
リツコはその言葉が聞き取れず、聞き返す。

「おかあさん…。
 赤木博士…お母さん…って感じがします」

「おか…(汗)。
 そ、そう…」
(せめて『お姉さん』って言って欲しかったわ)

だが、母親の温もりを知らないレイにとって、自分を母親の様に思ってくれたのだと思うと、過去のレイへの仕打ちに対して、全てがようやく許された気がする。

「ありがとう…レイ…。
 あなたもなれるわよ、『お母さん』に。
 あなたは『女』になったのだもの」

「はい…ありがとうございます」

「もっとも、その前に別の意味でシンジ君に『女』にしてもらっていたようだけどね」

リツコの言葉に、真っ赤になって俯いてしまうレイ。

今回の精密検査でそれが分かったのだが、リツコもミサトも、レイとシンジの関係がそこまで進んでいるとは思ってもいなかったのだ。

「まぁ、いいわ、それを責めたりはしないわ。
 そのおかげでスイッチが入ったのかもしれないしね」

リツコの意外な言葉に、ベッドに歩み寄って来たミサトが問い返す。
「え?そうなの?リツコ」

リツコはレイを抱いていた手を解くと、立ち上がる。
「げに驚くべきは、生命の生きようとする力、増えようとする力って所かしら」

「たとえそれが造られた生命であっても…か…。
 でも、そんなご都合主義な事って…」

腑に落ちないような顔のミサトに、リツコは澄ました顔で答える。
「事実は小説より奇なりってね」

「だけど、さんざん心配させて、蓋を開ければ全くの健康体とはねぇ」

ミサトの言葉に小さくなってしまうレイだった。
「すみません…」

「冗談よ。ホント、良かったわ、たいしたことなくって」

「でも…まだ身体が変な感じです…」

これにはリツコが答える。
「それはそうよ、2週間も寝た切りだったんですもの。
 それに、血糖値がかなり下がってるし、貧血気味でもあるわ。
 ま、身体が完調になるまでは、しばらく入院してなさい」

「…はい」
本当はすぐにでもシンジ達の許へ帰りたいのだが、こればっかりは仕方ない。

「ところでミサト、シンジ君達は?呼んだんでしょ?」

「ん〜、タクシーで飛ばせば…」
チラリと腕時計を見る。
「そろそろ着くはずよ」

その時…

『く〜っ』

レイのお腹がが可愛らしい音を鳴らす。

リツコがクスリと笑みを零す。
「あら、現金ねぇ。目を覚ましたと思ったら、お腹が空いたの?」

レイは頬を染めて答える。
「…はい……碇くんのお弁当が…食べたいです」

「そう、でも、あなたはこの2週間ずっとLCLだけで過ごしてたのだから、
 最初は流動食で慣らさないとお腹がびっくりするわよ」

「そうだ、ここの厨房を借りて、お粥でも作ってもらったら?
 愛しのシンちゃんに」

ミサトの提案に、リツコも少し考えて同意する。

「そうね、それなら大丈夫ね。婦長に頼んでおくわ」

リツコがナースセンターに電話をしていると、ドアが開き、シンジ達が勢い良く入って来る。

「!!レイ…良かった…」
部屋に入るなり、ベッドの上に上半身を起していたレイがこちらに振り返るのを見て、シンジは膝の力が抜けてしまい、よろけてしまった。

「ちょっと、シンジ、大丈夫?」
シンジの後から入って来たアスカがシンジを支える。

「あ、ああゴメン、安心したら、急に力が抜けちゃって…。
 大丈夫、大丈夫だよ」

と言いつつも、フラフラしながらベッドに歩み寄ると、ベッドサイドに膝を突いてしまう。

「レイ…良かった…ホントに、良かった…」
涙声になってしまっている。

その様子に、シンジにどれだけ心配させてしまった事かと項垂れてしまうレイ。
「…ごめんなさい、心配を掛けてしまって…」

「いや、いいんだよ。無事だったんだから、いいんだ…」
シンジはそう言いながら這い上がる様にベッドに腰を下ろし、レイの手を取るとその紅い瞳を見つめる。

レイもその手を握り返し、シンジを見つめ返すのだった。
「ありがとう…もう、大丈夫だから…」

シンジはその手に取り戻した温もりを確かめるようにその柔らかな手に頬擦りし、白く細いたおやかな指に口付けする。

何度も…何度も…。

「良かった…良かった…」

そう呟きながら…。

レイは、そんなシンジを優しい眼差しで見つめるのだった。
この人は、こんなにも自分を心配してくれたのだ…そう思うと、たとえようのない嬉しさと、申し訳なさが込み上げて来て涙腺を緩ませる。
その潤んだ瞳の色は、深く、紅く。シンジへの愛しさに満ち満ちているかのようであった。


恋人達の感動の再会に気を遣って遠まわしに見ていたアスカが、そろそろ頃合いかと歩み寄り、ベッドのシンジの反対側に腰をかけ、レイの肩を抱く。
「無事帰って来てくれて、良かったわ。
 アタシも心配したんだから…」
そう言って、頭をコツンと合わせる。

「アスカ…ごめんなさい…」
そう言ってアスカを見ると、そこには優しい微笑みが有った。

今ではドイツの両親よりも家族らしいと言える二人の、その片割れが戻って来たのである。アスカは心底安堵を感じていた。

「アンタはちゃんと帰って来るって、信じてたわよ」

そう言って潤んだ目をしばたたかせるアスカに、レイは微笑みを返すのであった。

「ありがとう…」

そんな二人を眩しげに見ていたシンジは、思い出したようにリツコ達に向き直る。
もちろん、手はレイと握り合ったままだ。
「ところでリツコさん、レイの身に何が起ったんですか?」

シンジの質問に、リツコはちょっと考えるような仕草で目線を泳がせるが、すぐにレイに訊ねる。
「どうする?レイ。
 あなたの口から言う?」

「…はい」

「??」

「…私にも…赤ちゃん…作れるの…」
俯き加減で『ぽっ』と頬を染める姿が、なんとも愛らしい。

だが、シンジのニューロンネットワークはその言葉の分析に手間取っていた。
「え?」

「作れるように…なったの…」

「え…あっ!」
レイが言う内容を理解した途端、『ぼっ』っと音が聞こえそうな位に真っ赤になってしまうシンジであったが、やがて、心の底から染み出すように笑顔が浮かぶ。
「そっか…おめでとう、レイ」

「へぇ!良かったじゃない?!おめでとう、レイ」
アスカも嬉しそうである。

「ありがとう…碇くん…アスカ…」
そしてもちろんレイも、見る者の心をとろけさすような笑顔で応えるのであった。

「ふふ、今まで眠っていた力を、シンジ君が優しくノックして起してあげた…
 ってところかしら?」
リツコが口元に笑みを浮かべながら、意味深な台詞を吐く。

「それとも、荒々しく、だったのかなぁ?(にやり)」
ミサトはちょっちお下品だ(^_^;)。

「な…なんですか、それ?(汗)」

「あら、とぼけてもダメよ。
 精密検査で分かってるんだから」

「え?」

「レイが既にシンちゃんに『女』にしてもらってたって事」

「うっ…そ、それは…」
今度は青くなるシンジ。赤くなったり青くなったり忙しい事である。

「ん〜ふふふ。だけどレイってば、誰の赤ちゃんが欲しいのかなぁ?」
ミサトがニヤケ顔でレイに詰め寄る。分かり切った事をわざわざ訊く辺り、シンジをからかって遊ぼうという魂胆はミエミエだ(^_^;)。

「え…」
レイは、チラッと上目遣いでシンジを見ると、消え入りそうな小さな声でつぶやくように答える。
「………碇くん…(ぽっ)」

「ええっ!(真っ赤)」

期待通りのリアクションをするふたりに、それ以外の3人は思わず噴き出してしまった。

「あはは!何よシンジ、今さら」
「くくく…そうそう、シンちゃんったら、そんな大袈裟に驚く事ないじゃない?」
「ふふふ…そう…。でもね、レイ、まだちょっと早いわよ」

リツコの言葉に、レイは不満げな視線を向ける。
「でも、私は…」

承服しかねるといった雰囲気のレイに、リツコが優しく諭すように言う。
「レイ、そんなに慌てる事ないじゃない?
 ふたりともまだ若過ぎるわ。
 あなた達の貯蓄なら経済的には充分賄えるでしょうけど、
 あなた達にはまだまだ学ぶべきことが有るわ。
 まだ子供をちゃんと育てて行けるだけの力は無いんだから。
 そうね、少なくともシンジ君が18歳になって結婚出来るようになるまで待つ事ね」

「……解りました。待ちます…」(不承不承)

「だから、これからは避妊を忘れずにね」

「……はい…」(これまた不承不承)

「ちょ、リツコさん?!(汗)」

「何か問題が?」

「いっ、いえ!」
(って…お咎め無しってことは、いいのかな?)

「シンちゃん、誕生日の時渡したコンちゃん、使い方分かってる?」

「わ、分かってますよ!!」(真っ赤)

二人とも男の理性なんてものは信用していない。
であれば、最低限避妊だけはしっかりさせようという考えだ。
ま、二人の男性経験から考えれば、むべなるかな。

「「余計なお世話よ(怒)!!」」


「アンタ達ねぇ…」
ひとり呆れ顔のアスカであった。


そして、11月に入り…

レイは無事初潮を迎え、コンフォート17でのささやかな赤飯パーティーが執り行われる事になったのだった。


To Be Continued...

あとがき
さて、大分お待たせしてしまいましたが、ようやくここまで来ました。

アキラ君をレイに抱かせてやるはずだったんだけど、どう間違ったのか、出番が無くなってしまいました(^_^;)。

次回で第一部完となります。
残念ながら、赤飯パーティーやアスカ&ミサトの誕生パーティーはスキップさせていただいて、レイの誕生パーティー兼クリスマスパーティーとなります。

公開は当初予定より大幅に遅れて12月、クリスマス前を予定してます。


ぜひ、あなたの感想をこちらまで>[ kusu3s@gmail.com ]

目次へ戻る
inserted by FC2 system