壁の中の街で霧と踊る 三章

19

 光、熱、電磁波、振動、重力波、量子状態、そしてブラッドタイプ。
 今のネルフに用意できる全てのセンサが、プリブノーボックス内の"それ"を常に監視していた。

 最初に起きたのは熱量の増大だった。
 次に周囲の物質の固有時間、電子の周回速度が変化していく。
 再生部で加速されていたそれが、通常の物に戻った。

 アスカが停止させた通常の監視網とは別の細い回線を通り、数バイトの情報がマヤの端末ヘ走った。

 ただ揺れていた手が、一つの方向に向かい伸ばされる。
 重力計が空間自体の歪みを捕らえる
 唐突に現れたかすかな青白い輝き、光源無しに歪みから発生している光子。

 人気のないマヤの部屋でモニタに赤く警告が光る。
 端末からの応答を得られず、センサ群を統括するプログラムは電子上の緊張が高めていく。

 シンジとアスカは強化ガラスの向こう側からただ見つめている。
 自分達に向けられた白い手を。

 熱量増大の検知から66秒が経過。
 停止信号を受け取れなかったプログラムは、警報を鳴らす。
 本部全体に。


20

「そんな、見つかった?」
 アスカが焦ったように叫ぶ。
 実際には二人を見つけた事による警報ではないのだが。

 そして、シンジは警報にも、アスカの声にも気付かずにいる。
 じっと、ガラスの向こうを見ている。
 大きく目を開いて。拳を硬く握って。

―そんな、これって……
 思考はそこから先に進むことを拒否。
 放っておけば何時までもそのままだったであろうシンジの腕が引かれる。
「ほら、ボケてないで!」
 アスカに引き摺られて駆け出すシンジは、ドアをくぐる前に振り向き、

「!?」

 自分を追う様に、縋る様に、引き止める様に精一杯伸ばされた手に驚く。


21

 今でも夢で聞く事の有る音が、シゲルの耳に響いた。

 自分の立つ机の向こうで座っているコウヘイを見て、それが幻聴でない事に気付いた。
「これは……なんの警報だ?」
 不信そうに呟くコウヘイ。

 聞いたことがあるはずはない。
 かって使徒戦の時にしか鳴ったことの無いこれを。
 今はプラントに異常が有った時にしか鳴るはずの無いこれを。
―くそっ、なんだってこんな時に……
 シゲルはよりによって今起きた異常に苛立つ。

 突然やってきたアスカ。それに対して警戒感を募らせている旧戦自隊員達。
 そこに起きるには、あまりにも大きな問題だった。
 アスカ達がその場に居たことを知らないというのを差し引いても。

「何が有った?」
 自分に向けられたコウヘイの言葉で我に帰る。
 なんとか取り繕い、この場を収めようと考えたところに、駆け込んで来る皺のついた軍服の人影。
「大変です!あの二人が逃げ出しました!」
 室内の雰囲気が慌ただしくなる中、自分を見つめるコウヘイの視線をはっきりと感じていた。


23

―本格的な監視システムは死んだままのはずだけど……
 アスカは備え付けられたカメラを睨む。
 それは今は機能していないはずだったが、このエレベータが稼動している事自体は気付かれてもおかしくなかった。
「上に着いたらすぐ走るわよ」
 黙ったままのシンジにそう話しかける。
 自分を見もせずに俯いているその姿にいらつきを感じ、それでも何も言わずに扉に目を戻す。

 長い沈黙がエレベータの中に流れた。

「アスカは、知ってたの?」
 突然の声。
 下をむいたまま聞いたシンジに、向き直って言う。
「それが、ホントに聞きたいことなの?」
「え……」
 思いもよらない言葉に目を見開く、そんなシンジを見つめた。
 けれどその驚きを無視して、最初の質問に答える。
「あそこには何か有ると思ってたわ」
「アスカ、」
 平板な声で、シンジを遮って続けるアスカ。
「昔、この街を占領してた頃と比べて、大きく変わった施設はあれだけだったから」
 特秘回線から外に運ばれたMAGIのデータ。その解析結果をアスカは聞かされていた。
「おそらくはネルフがこの中で生産している合成食関連の物だろうけど、もしかしたら違うかもしれないって」

 無機物ので有りながらその構成物質の配置パターンは遺伝子配列に似た、この星を覆う何かに関係するものが。
 それを聞いたとき、アスカは心の中で笑ったけれど。
―使徒って言えばいいのに。
 そう思って。
 自分たちが戦ったモノが今も存在することを認めようとしないその態度が馬鹿馬鹿しくて。

「もっとも、まさか両方正解だとは思わなかったけどね」
「え?」
「……コアだったわ、アレ」
「でも、あの手は、」
「ああ、そう言う事も有るんじゃないの?『人に似た、けれど違う可能性の一つ』なんでしょ?」
 あの後に関係者に公開され、そして封印された使徒に関するレポートの記憶を引っ張り出してアスカは言う。
「ま、それを食べるってのはぞっとしないけど……あ、アンタも食べてたのよね」
 首を振るシンジ。
「そう、よかったじゃない」
 そう言って、アスカは動き続けていた階数表示を見る。

「でも、あれは……アスカは、知らないの?……」
 この後どう抜け出すかに意識を移していたアスカに、シンジの微かな声は届かなかった。

 減速が始まり、体が軽くなる錯覚。


24

―何をしてるんだろう、僕は。
 開き始めたドアをよそに、今更シンジはそんな事を考えている。
 けれど、それでも、どうすれば善いのかが解らなかった。

 ドアが開く。
 前に出るアスカと、それを追ってエレベーターから踏み出るシンジ。
「!?」
「あなた達……」
 そこには驚いた顔のマヤがいた。
「どいてくれる?」
 アスカは、昔何処かで聞いたような言葉を、持ったファイルごと手を胸元においたマヤに掛ける。
「そう、やっぱりあの警報はあなた達だったの」
「何なんです、アレは……まるで……」
 目を細めて自分を見るマヤに、震える声で聞いた。
「シンジ、今はそんなこと、」
「答えてよ!」
 叫ぶシンジ、顔を歪め、後少しで泣きそうな声で。
「なんであんな事するんです!それにアレは、」
「皆が、生きるため、ね。何もしないで死ぬのは嫌だから」
「そんなの、信じません」
―だって、あの時もそうだった。そんな理由で僕等は……
「それより、時間がないと思うわよ」
 一歩横に動き、道をあけて言う。
 何か雰囲気を変えたマヤの言葉。
「あの部屋の見張りが倒れていたのも見つかったし」
 シンジは改めてその顔を見る。
 何処か残っていた幼さ、それの消えたマヤの顔。
 なぜか見ていてつらさを覚える表情。
「旧戦自の隊員が動き出すのもすぐよ……青葉君じゃそう長くは押さえられないと思うもの」
「何を考えてるのよ」
 言外に逃げろと言うマヤ。いぶかしげな顔で言うアスカ。
「今は、まだ捕まって欲しくないの。それだけ」
「今は?」
 平然と答えたマヤを睨んでアスカはその言葉を繰り返した。

 そして、視線を外したアスカが、もう一度シンジの手を掴み走り出す。

 何時の間にか警報は止まり、騒がしさは去っていた。
 そのまま独り立つマヤを残して。

「貴方、何故シンジ君を連れてきたの?……気付いてはいないわよね、きっと」
 誰もいなくなった廊下でマヤは呟く。
「そう、気付いている筈ないわね。もしそうなら、逃げる必要なんてないもの。……だったら、私は……」


25

「まったく、しつこいって―の!」
 揺れる車をなんとか制御しながら叫んだ。
 バックミラーに写る迷彩のジープはその大きさを変えない。
 本部施設からです所までは順調だったものの、乗って来た車に乗ろうとした所で見つかった二人。
「だから、車は諦めようって……」
 再生しつつある木々の隙間を縫って走る車の振動の中でシンジが言う。
 何かを諦めた声で。ただ流されている自分を情けなく思いながら。
「うるさいわね!大体車無しでここから出るのなんて冗談じゃないわよ!」
 地表に露出し、それとほぼ同じ高さになっているとは言え、ジオフロントが歩いて抜けるには広すぎる事に変わりはない。
―よし、抜ける!
 緑が途切れ、焼け跡の残る剥き出しの地面が目の前に広がった。
「バッテリー駆動なんかに負けるもんですか!」
 直線での速度を考えればもう逃げ切ったも同然だった。
―後はこのまま外郭の裂け目を通って……
 そう考えながら、もう一度バックミラーを見る。
 助手席の男が自動小銃を構えている。
「シンジ伏せて!」
 叫び、思いきりハンドルを切った。

 連続した銃声。意外に軽い音。
 フロントガラスが白く濁る。
 視界を奪うそれを左手でなぎ払い、残った右手でカウンタを当てた。
 後輪が再び地面を掴む。

 シンジを見た。顔をしかめ、肩を赤く染めたシンジを。
「ちょっと、シンジ!」
 それに答える事も出来ずうめいている。
―ゴメン、ちょっとだけ待って。
 今、止まるわけにはいかなかった。

 アスカは車を走らせ続ける。
 下唇を噛み、険しい表情で。


26

「そう、それで二人は?」
 電話の向こうのシゲルの声。
 伝わってくる疲れに飲みこまれそうになりながら、マヤは話し続ける。
「B-3区方面でロスト?……ええ、まず見つからないでしょうね、あの辺りはだいぶ入り組んでるし……嘘!?」
 二人の乗った車が撃たれたと聞いて、受話器を持つ手に力が入った。
「……そうね、本当だと思うわ、あの隊長も苦労してるって事かしら……」
 発砲の許可は出ておらず、その隊員の暴走だったらしいと言う。
 それに同意しながらもどうしようもない苦さを感じた。

―また、殺す気なの。もうそんなのは嫌なのに。何時までこんな、

「え?ええ、聞こえてるわ……データをまとめたらすぐに……ええ、気を付ける、それじゃあ」
 電話を切る前にシゲルは、今日プラントで何が有ったかの解析を急いで欲しいと伝えてきた。
 そしてそれを誰にも気付かれないよう注意して欲しいとも。
―さすがに、これは見れないと思うけどな。
 プラント周りのデータはMAGIにすら入力されておらず、並ぶ端末の一つにしかリンクしていない。
 元々は外からのハッキングを恐れての処置だったのだが。
「ここの中の人間どうしでも、疑い合わなきゃいけないなんて」
 呟き、問題の端末のモニタに目をやる。
「……私が言うことじゃないけど、ね」
 誰にも知らせる気のないそれを見る。
 今日、二人があそこにいた時のログ。
 マヤの秘密の仮説を裏付ける証拠。

 それは希望だった。もしかしたら、最後の。
「誰の為の物か、それはともかくね……」

 そう独り言を言い、シゲルに渡す解析結果を創るための、辺り障りの無い理由を探す。
「人があそこに入っただけじゃ、何も起きるはず無いから……アスカがあの部屋で記録を探してた事に……」
 指が踊り、ログの書き替えを始めた。


27

 あの後、何台かの車と数人の人間を振りきり、アスカは車を崩れたビルの中に止めた。
 片面の壁が崩れたがらんとした空間。
 埃の積もったコンクリート。
 慌てて飛び降り、トランクからサバイバルキットを取り出す。
 助手席のドアを開け、気を失っているシンジに覆い被さるようにして袖を引き裂く。
 血にぬれる手。
 ぬるりとした感触。
 傷口が見えた。
 抜けそうになる体の力。
 それを押さえようと無理矢理声を出した。
「……なによ、かすっただけじゃないの……」
 震えた小さな声だった。

 何となく腹が立って消毒剤を思いっきり大量にかけても、乱暴に抗生物質を塗りつけても、無駄に何重に包帯を巻いても、シンジは目を覚まさなかった。

―ま、疲れたんでしょ、きっと。

 そして、アスカはそれを幸いに思った。
 自分のやらなくてはいけない事を見られなかったから。
 まだ、説明したくは無かったから。

 そして、しばらく時間が流れた。
 そろそろ目を覚ませば善いのにと思う。
 アスカは忘れていた、この街のことを。この街に出る霧のことを。


28

 日が傾き、霧が出はじめた。
―あ、そうか、霧が……
 やっと気が付いたアスカは、気を失ったままのシンジから目を逸らし、あたりを見渡す。

―さあて、誰が出てくるかしらね。

 緊張で体に力が入る。
 アスカがこの街にいた時にはまだ霧の出る範囲が狭かった。
 さらに、その殆どを病院で過ごしていたためにアスカは霧の作る幻影を見た事は無い。
「誰が出て来たって、別に構わないけどね」
 小声で呟く。
「ママだと、ちょっと嫌だけど」
 微かに笑って―しかし何処か寂しそうに―言うアスカ。
 回収された弐号機を始めて見た時。それがアスカが涙を流した最後だ。

 補完に消えた人々。
 その姿だけを映す幻。
 そんなモノを見たところで自分が何か感じるとは思わなかった。
 ここですごしたあの日々と同じに、外の世界も楽園では無かったから。

 ネルフ本部に居たという事実は、外でのアスカの立場を微妙な物にしていた。
 サードインパクトを阻止しようとすると同時に、それを推し進めた組織。
 国連の調査によって、その程度にはネルフの事が明らかにされていたから。
 自分の通った後を追い掛ける、ひそめた声。初対面の人間の何処か見下したような表情。
 うち捨てられた道化人形を見る目。

 そんな中でアスカが自分の立ち上がる土台にしたのは、過去。
 あの、戦いと暑さと偽者の家族と勝利と敗北とエヴァで創られた日々。
 忘れる事の出来ない記憶。
 それを、その中にいた自分を、アスカだけは信じている。
 信じる事に決めた。

 だから、今更誰の姿を見ても構わないとも思う。

―でも、コイツは……

 目線をシンジの顔に移す。
 あの頃より幾らか伸びた身長。少しだけ肉の落ちた顔。
 何処か擦り切れたような印象を受けた。
 あの頃よりも何か特別な物を無くしたような。
 もっともそれは、平穏と呼ばれる物かもしれないけれど
 きっと、閉じられたこの街で静かに暮らしていたのだと思う。
 自分が来るまでは。
「でも、それでもアタシは……」
―ここに来なくては行けなかった、そして、シンジを、

 その思考は、突然掛かった声で断ち切られる。

「何故、来たの」

 顔を上げその声の聞こえて来た方に振りかえる。
 崩れた壁の向こう、霧の中で揺らめく体をこちらに向けて立っている。
 整った表情の見えない顔。睨むように見つめる赤い瞳。なぜか右腕の無い姿で。

 綾波レイが。

―何だってアンタが出てくるのよ?
 霧が生み出す幻覚は、それを見る者の記憶と願望を何らかの手段で掘り起こす。
 そう、考えられている。
 だからアスカは、自分の前に現れたその姿が意外だった。
「何でアンタなんかが、」
「何しに来たの」
 アスカの呟きを遮って問いかける声。
「アタシが、大事だと思う事の為に」
 どうせ現実の相手ではないと言う思いが、アスカの口を軽くしていた。
「何故、あなたがそこに居るの」
 その体を霧と一緒に揺らがせながら聞いてくる。
―『そこ』?『ここ』じゃなくて?
 小さな引っ掛かり。
 この街のことじゃないと解った。なぜか。
 不信げな顔を作るアスカにさらに声が掛けられた。
「なぜ、あなたが、碇君と居るの」
 静かな声。微かに含んだ苛立ち。
―アタシが気にしている事だから?だからこんな事が聞こえるのかな。

 アスカは、それを自分の中から映されたものだと考えた。この姿を生んだはずの自分に代わって、聞いているのだと。
 だから、はっきりさせる為に、迷わない為に、どうしても諦められない事の為に答える。

「コイツが、必要だから」
―確かめるのに、ね。
 心の中で付け加え、唇を噛む。

 何時の間にか俯き気味になっていた顔を上げ、離れて立つなかば透き通った姿を睨むように見る。
 無表情と言っていいほどだったその顔が、歪んだ。
「そう、勝手なのね」
「何よ!?」
 反射的に言い返していた。
 本当に、言いそうな言葉だったから。
 答える声は響かず、二つの視線が合わさったまま時間が流れ、
「さよなら」
 と言い残して霧と共に消える。

 肩の力を抜き座り、湿った地面に顔をしかめる。
「無愛想な奴……アタシが、そう覚えてたからなんだろうけどさ」

 何となく肩透かしな気分でそう言った。
 霧の作り出す幻覚が声を出せるはずのない事に気付かずに。





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