綾波の名は綾波 2

Written by Kie


 

 II これってなぁに?

 

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<1>どこかにて

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 少年はその光景をみて愕然とした。見慣れているはずなのに、いつもじゃない感じが
する、形容しがたい寂寥感が目の前に広がっていた。402号室と記されたワンルーム
マンションには人の気配がなかった。血で湿っていたベッドも、神経を逆なでした唸る
冷蔵庫も、満身創痍のアンティークチェストもない。ただ、8畳ほどの洋間の中央、剥
き出しとなったコンクリート床の上に、砕けたビーカーの破片が散らばっている。

 少年は部屋の中央へと足をすすめてその破片の拾い上げると黒く煤けたコンクリート
の壁に投げつける。

 ちくしょう!

 綾波はどこにいるんだ…

 少年は外を目指し駆け出した。

 

 薄暗い部屋の中で少年と威厳をもった低い声が聞こえる。

「シンジ。おまえはもうエヴァに乗る必要はない」

「なっ、なんだよ父さん! 藪から棒に!」

「おまえは要らなくなった、それだけだ」

「初号機には誰が乗るんだよ! まだ、使徒は来るんだろ!」

「初号機は凍結する。必要があればレイを乗せる」

「綾波はどこだよ! 病院にいない。部屋にもいない。今どこにいるんだよ!」

「おまえが知る必要はない」

「会わせてよ!」

「会ってどうする」

「お礼がいいたい」

「礼を言ってどうする」

 

「……………」

 

 沈黙の中、静かにドアが開き、少年は足取りも重く外へ出て行った。

 それを待っていたかのように、物陰から一つの影が現れる。

「いったのか、碇」

「ああ」

「これで本当によかったのか?」

「これからは我々の問題だ。あいつには関係ない」

「ああ、そうだな」

 

「これでよかったのだな…レイ」

 闇に紅い光が輝き、消えた。

 

 少年はあてもなく通路を彷徨っていた。自分がエヴァに乗る必要がなくなったこと、
綾波レイという少女に会って何を伝えようとしたのかということ、突きつけられた現実
を自分の中で咀嚼する時間が欲しかった。通り過ぎるネルフの職員が自分に声を掛けて
きたが、自分の足元に伸びる影をただ見つめていた。行き止まりと書かれた通路の角を
横切る瞬間、二つの影が動くのを感じたが、そんなことも自分には関係の無いことだっ
た。それから程なくして、背後から聞きなれた声がするのに気が付き、ゆっくりと後ろ
を振り向いた。そこには、自分の上司であり、同居人であり、保護者である、葛城ミサ
トが手を振りながら、駆けてくる姿があった。

「シンちゃ〜ん! 待ってよ、もう。そんなにすたすた、歩くことないでしょ。ほんと
にもう」

 ミサトは少年に追いつくと、はあ、はあ、息を上げながら、にへらぁといった笑顔を
湛えて、言葉を続ける。

「碇指令のところに、いってきたんでしょ。じゃあ、聞いているわね。明日から、通常
の生活ね。よかったわね!」

「通常の生活って?」

「えっ、聞いてないの?」

「僕はエヴァに乗る必要がないって・・・」

「まあ、エヴァに乗ることは限りなく減るでしょうけど、必要がないわけじゃないわ。
エヴァの予備パイロットとしてね」

「予備?」

「そう、残念だけど、初号機は永久凍結することが決まったの。あんな、得体の知れな
いものを動かすことはリスクが大きすぎるのよ。零号機はあの通り消滅しちゃったし、
稼動可能なのは弐号機のみ。だから、当面の間、弐号機中心の戦闘体制をとらざるを得
ないの。指令の命令で初号機は、レイが面倒をみることになって、シンちゃんはその予
備ってわけ。分かった?」

「ミサトさん」

「ん、何、シンちゃん?」

「綾波はどこにいるんですか? 本当に生きているんですよね」

「当ったり前じゃないの。でなければ、レイを初号機のパイロットとして登録すること
なんてできないわよ」

「でも・・・」

「ははぁ〜ん、分かった。シンちゃん、レイと会えなくて寂しいんだ」

「そっ、そんなんじゃ!」

「分かってるって。指令が生きているっていうんだから、生きているのよ。安心しなさ
い。退院したっていうし、ここに来ればいつかは会えるでしょ」

「えっ、あっ、うん」

「元気出しなさい、男の子でしょ。それに、明日から学校、忙しくなるわよ!」

「うん・・・」

「私はチョッチ、忙しいんで、当面、家には帰れないけど、よろしくねん! あっ、あ
とアスカにも明日来るように連絡しておいてね」

「うん・・・」

「そうと分かれば、行った、行った」

 ミサトは少年の背中をポンと押した。少年が再び歩き出すと、にこやかに手を振りな
がらその姿を送り出す。その背後から無骨な男の声がする。

「危ない、危ない。シンジ君には悪いが、これからは俺達の出番だからな」

 ミサトは、にこやかに手を振る姿勢のまま、小声で呟く。

「そうね。彼には関係ないもの。私達でやらなくっちゃ」

「それにしても、よく初号機の再凍結に合意したな。作戦部長としては失格じゃないの
か、葛城」

「よく言うわ。貴方の言葉を信じたまでよ。使徒はもう来ないという、貴方の言葉をね」

「そうだな。後は俺達でできることをするだけだ。「人類補完計画」の阻止。碇指令に
は悪いがな」

「そうね、腕がなるわ」

 柔らかく開かれていた手は、いつの間にか胸の前でポキリポキリと鳴らされていた。

 

「えっ、先輩?」

 可愛らしい女性の驚く声が司令塔の中に響く。

「ごめんなさい、シンジ君。私も知らないの。・・・いつもは、居場所を教えてくれるのに
・・・」

 消え入りそうな声を聞きながら少年は違うことを考えていた。目の前の女性が先輩と
呼ぶリツコという女性科学者。綾波レイと常にともにあり、健康面のケアも彼女が行っ
ていた。そんな彼女が姿を消したという。その事実は綾波レイの身に何かが起こってい
るということなのだろうか。それとも、彼女がいないということ自体、安心してよいこ
となのだろうか。少年は、暗い妄想に取り付かれながら、その場を離れていった。

 

 ・・・綾波・・・

  ・・・綾波・・・

   ・・・綾波・・・

 

    ・・・波の音が聞こえる・・・

 

   ・・・綾波・・・

  ・・・綾波・・・

 ・・・綾波・・・

 

「なあ、シンジ・・・

   ・・・シンジ・・・

    ・・・シンジ?

おい、聞いているのか」

 

「えっ!?」

 

「シンジ、何ボーっとしてるんだよ。授業も終わったし、そろそろ帰ろうぜ」

「まだ昼だろ」

「シンジぃ、大丈夫か? 今日は土曜日じゃないか」

 少年の学校では土曜日は半ドンなのだ。少年は鈍る頭を振っていたが、思い出したよ
うに、突然、左手を振り返る。

「あ、綾波は?」

「もう、帰っちまったよ。お前に何か言いたそうだっけどな。一緒に帰りたかったんじ
ゃないかなぁ」

 VTRを回しながら間抜けた少年の様子を覗っていた少年の唇が動く。

「なんだ、お前もそうだったのか。シンジもすみに置けないな。ふっ、ふっ、ふっ」

「そんなんじゃないよ」

 顔を真っ赤にしながら、慌てて否定する姿が滑稽だ。今日はいい絵が取れたなどと一
人悦に浸りながら、大切な用件を思い出す。

「それはそうと、惣流を迎えに行かなくていいのか? 委員長があそこで待っているん
だけど」

 ファインダーには、お下げ髪を振るわせて、自分を取り囲むクラスメートにいやんい
やんしている少女の姿が映し出される。

「あっ、ごめん。行くよ、行く」

 少年は慌てて鞄を取り上げた。

 

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<2>路上にて

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 鼻歌交じりでスキップする足音が地面に響く。

「じゃ、シンジ行くわよ!」

 赤毛の少女が従者とおぼしき少年に命令する。

「う、うん」

 少女の後ろでは両手両足を鎖でつながれたような重い足取りで、引きずられるように
付き従う少年の姿。見るものの哀愁を誘う。

 

「ヒカリ、これまでどうもありがとね! 私は大丈夫だから! また、連絡するから!」

「うん。それじゃ、がんばってね!」

 赤毛の少女はヒカリと呼ばれた少女に笑顔を振り撒く。そして、その横でVTRを回
している少年をギロリと一瞥すると、さも嫌そうに声を荒らげる。

「相田、これ以上は付きまとわないで! これから先は コ・ロ・ス わよ!」

 少年は録画を止めることなく毅然と反論しようとした。いい度胸だ。

「えっ、いや、俺は真実をトウジに伝えないと・・・」

「あたしの言うことが聞けないって言うの!!!」

 ヒェーーーーーーーー

   ドドドドッーーーーーーーーッ

 少女は脱兎の如く逃げていく後姿を確かめると、身に纏った殺気を収め、俯いたまま
じっとしている少年に命令する。

「さあ、ついて来なさい!」

 少女は自分に付き従うことがさも当然な風に、後ろを確認せず、軽くスキップしなが
ら歩き出す。

 ・・・本当に大丈夫かしら、アスカ・・・

 少女は静かにその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。

 

 

 少年は上目で赤毛の少女の後姿をちらちら盗み見していた。少し前までの軽やかなで
跳ねるような足取りはいつの間にか消えうせ、肩を怒らして大地を踏みしめるように大
股で歩いている。その様は怒っているようでもあり、言葉を掛けることが憚られる熱気
を吐き出していた。

 

「おそぉ〜い、シンジ! 待ちくたびれたわ!」

 クラスメート二人とともに迎えに行った家の前で、その子は仁王立ちしていた。胸元
の赤いリボンが特徴的な鶯色の制服を身に纏い、細く長い髪を風に戦がせていた。サフ
ァイアのような碧い瞳はしっかりと見開かれ、自分を睨んでいるようにみえた。視線を
合わせようとすると、少女は意識的に目を逸らした。健康的に輝いていた頬はやややつ
れ、身体全体から溢れ出る生気もいつもと違う感じがした。少女は自分の方を一顧だに
せずに、自分の横の少女とにこやかに話し込んでいたが、話がついたのかそのまま一歩
前に出ると、自分と背中合わせに、ただ、来いと命じるだけだった。

 

「ねぇ、アスカ。どこに行くの?」

 少年は少女の後姿に恐る恐る話し掛ける。

「ねえ、アスカぁ」

 いつまでたっても答えがないことに、少年は甘えた口調で同じ言葉を投げかける。

 少女は聞いているのか、聞いていないのか分からない素振りで、ずんずん足を速めて
いく。

「ねえ、アスカったらぁ」

 少女の背中がピクリと動いたかと思うと、苛立たしげな大声がその肩越しから聞こえ
てくる。

「うるさいわね。アタシについてくればいいの! 分かった!」

「う、うん。ごめん」

 少年はその怒気を含んだ声に萎縮するように小声で答える。

 少女はそれ以外一言も発せず、ただひたすら、歩みを進める。

 

 蝉の声が真昼の熱さを一層不快なものとする。

 二人の額には滝のような汗が流れ落ちる。

 人通りの絶えた路上には陽炎がゆらゆら立ち昇る。

 

「家に戻るのよ。私、お昼ご飯まだなのよね。あんたもでしょ?」

 それまで、沈黙していた少女の口から、穏やかな声がする。

「うん!」

 話し掛けられたのがよほど嬉しいのか少年は元気よく答える。

「あんたが作るんだからね。手、抜いたら承知しないわよ」

 ・・・何を今更・・・

 少年は少女に聞こえないように呟いた。甘いな、シンジ。

「ぬぁんですってぇ、馬鹿シンジの癖に! あたしに口答えする気ぃ!」

 思わず振り向いた少女の視線に目を輝かせた少年の笑顔があった。

「やっと、振り向いてくれた」

 少女は、少年の微笑みに複雑な表情を浮かべながら、ぷいと背中を向けてしまう。

「とにかく、急ぐわよ」

 二人は自分達の家へと駆け出した。

 

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<3>家にて

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 コンフォートマンション17、ミサトと三人で家族ごっこを繰り広げていた場所。女
性特有の甘酸っぱさとアルコールが交じり合った不思議な空間。見知らぬ者同士が作り
出してきた匂いは部屋の至る所に染み付き、いつのまにか自分達に安らぎを与えてくれ
た。

 

「じゃ、あたしはシャワー浴びるから、それまでに作っておきなさい!」

「えっ、材料がないよ。」

「何で、用意して置かないのよ!」

「ごめん」

「とにかく、時間がないよの。何でもいいから。わかったわね!」

「うっ、うん」

 

 少女が髪を濡らさないように赤いタオルを頭に巻き、同じ色のバスタオルに身を包ん
でシャワーから上がってきた。既に食卓には昼食が準備されていた。木製のボウルに盛
られたレタスを中心としたサラダ、申し訳なさそうにトマトとオニオンのスライスがそ
の上に盛り付けられている。クルトンとパセリが浮いたポタージュスープが食卓の両サ
イドに湯気を立て、その横には緑と黄色と赤が彩りを添えるピラフが置かれている。
 少女は頬を膨らませて、不満そうな声をあげる。

「何よ、あんた。全部インスタントじゃない、手ぇ抜いたわね!」

 キッチンから顔を出した少年は、少女の色っぽい姿に何ら表情を変えることなく、思
わず文句をいってしまう。少年はまずい!っと口を押さえて、頭を抱えたが、いつまで
たっても恐れていた事態が起こらないので、びくびくしながら顔を上げる。

 

「・・・まあ、最後には似合いかもね」

 

 少女のいつもとは違うリアクション、意味深な台詞に思わず身構えてしまう少年。

「最後って・・・」

 少女はその問いかけを無視するように、少年の姿をじろじろみると、優しい口調で、

「あんたは・・・それでいいわね。ちょっと待ってなさい!」

と言うと、自分の部屋にさっさと引き篭もってしまった。

 

 どれほど、時間がたっただろうか。少年は、呆然と時計が時を刻むのを眺めている。
少女の部屋の戸が開く音がして、着替えの済んだ少女が食卓に現れる。

「その服装・・・」

 梳かれた髪には二つの赤い髪留めが見え隠れし、首飾りが銀色に光っている。薄黄色
のドレスが少女の細い肩口でシンプルなリボンを結んでいる。

「そうよ、あんたと初めて会った時の服よ。よく覚えていたわね」

 少女はそう言い切ると、びしっと右手の人差し指を少年に向ける。

「でも、なんで今、それを着るの?」

 至極もっともなことを口にした少年を見つめ、顔を真っ赤にした少女は、

「どっ、どうでもいいでしょ! とにかく、食べるわよ!」

と言うと、椅子にどっかと腰掛け、えびピラフを掻き込み始めた。

 

 

 食事中、二人は一言も会話することなく、もくもくと目の前の食事を胃の中に収めた。
食事が終わって、少年は『アスカ専用』と太字マジックで嬲り書きされた湯のみにお茶
を注ぎながら、目の前で両腕を組んでふんぞり返っている少女に声を掛ける。

「ねえ、アスカ、さっき時間がないって言ったよね。あと、最後って、どういう意味?」

 少女のこめかみがピクリと痙攣したかと思うと、瞑っていた目をゆっくりと開く。見
開かれたその瞳が余りにも真剣なことに少年は驚きながら、その視線に射抜かれて目を
離すことができなかった。

 

「シンジ、ミサトから話は聞いているわよね。初号機は永久凍結、零号機はもういない。
弐号機が人類最後の砦だということ。あんたがいくらシンクロ率が高くても、乗る機体
はもうないのよ。弐号機がシンクロできるのはアタシ一人。だから、やらなくっちゃな
らないの。私が求められているのよ。あんたじゃなく、このあたしが。このあたしがい
れば、あんたは必要ないのよ。お払い箱なのよ。そりゃそうよね。いくらシンクロ率が
高くても、エヴァに取り込まれたり、暴走を繰り返すあんたなんか、人類にとって制御
できない魔物だもの。初号機だってそう。人類が求めているのは制御できる確実な兵器
なのよ。その点、あたしは完璧。弐号機も私から離れたことはないわ。だから求められ
るの! だから期待されるの! シンクロ率だって気力で何とかしてみせる。あたしに
はそれしかないのよ! このあたしが人類を救う英雄になってみせる! この前、あた
しが弐号機を動かせなかったのは作為的なものだってミサトはいうけど、そんなことは
どうでもいい。あたしにはもう、それしかないのよ! みんなが見てくれる! 期待し
てくれる! あたしはそれに応えなくちゃならないの。あたしがエヴァを自在に操るこ
とで、人類が救えるなら、やってやろうじゃないの! 死んだって構うもんですか! 
とにかくやるしかないのよ! ちょっと、馬鹿シンジ、聞いてる!?」

 自分が責められているようで耐えられなくなった少年は無理やり話題を変えようとし
ていたが、タイミングをつかめず、ただ、うなずくだけだった。

 

「・・・とにかく、あたししかいないよの! あんたでも、ファーストでもない、このあた
ししか!!」

 少女は一通り少年に自分の気持ちをぶつけると、冷めたお茶を一気に飲み干す。

 その動きを待っていたように少年は少女に声を掛ける。

「ねえ、アスカ」

「何よ?」

「綾波って、髪が蒼くて短くて、瞳が赤い女の子だよね?」

 少女の顔は一瞬青ざめたかと思うと、烈火の如く真っ赤に変わる。

「あっ、あんったって・・・・

   こっ、この馬鹿シンジ!!!」

 ばしぃーーん

 少女は食卓に乗り上げるように立ち上がると、少年の左頬を思いっきり叩きのめす。少
年はその反動で椅子から吹っ飛び、サイドテープルの角に頭をぶつけて気を失う。

 少女は肩で息をしながら、その姿を殺気を込めた目で睨んでいたが、呼び鈴に気付く
と、さっさと立ち去ってしまった。

 

 

 少年は夢をみているような気がした。

 ついさっき自分を睨みつけていた少女の碧い瞳に優しい光が宿り、ピンク色した唇か
ら穏やかな言葉が紡ぎ出されている。手の柔らかな感触が自分の両頬を暖かく包み込ん
でいる。動くことのできない自分を感じる。

 

 ・・・ねえ、シンジ。私はネルフに引っ越すの。特別パイロット宿舎。恐らく、あなたと
もう会うことはないわ・・・これからの私はエヴァとともにある。一時もエヴァから離れる
ことはない。それが、私に与えられた使命ですもの。やってみせるわ。それが私の存在
理由。たとえ、その先に何が待っていようとも、私に悔いはない・・・だから、安心しなさ
い。あんたはあたしが守ってあげるから・・・あんたは、せいぜい・・・ファーストと乳繰り
合っていればいいわ・・・あっ、そろそろ行くわ。お別れね。じゃ、さよなら!・・・

 

 家のドアがゆっくり閉じる音がした。

 

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<4>また家にて

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 少年は太陽が西の地平に沈もうとする頃にやっと目を覚ました。

 少年は立ち上がる。意識はまだはっきりしていないのか、一瞬ふらつく。痛めた後頭
部を片手で押さえながら、夢遊病者のようによろよろ少女の部屋へと向かった。

 

 そこは大きく開かれた場所。少女お気に入りの鏡台も贅を凝らしたベッドもフリルの
ついた可愛らしいカーテンもなくなった白い空間。差し込んだ西日がすべてを茜色に染
めている。

 少年はふらふらと部屋の中央に歩み寄ると、ペタンの腰を落とし、周囲を見回した。

 白い壁、

 取り外された照明、

 金具だけのカーテンレール、

 透明なガラスの向こうには太陽が紅く燃えている。

 少女の匂いの消えた場所。どうしてこんなに寂しいんだろう。少年の瞳は何も映して
いなかった。

 

 ・・・アスカ・・・

 

 自分の頬が僅かに湿っているのに気付いた。そっと手のひらで掬って、舌で確かめた。

 

 ・・・しょっぱい・・・

 

 少年の瞳から大粒の涙が溢れた。雫が頬を伝った。両手から力が抜け、糸が切れたマ
リオネットのように冷たい床に突っ伏した。少女がいた場所でひたすら泣いていた。

 

 

 to be continued

 


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