綾波の名は綾波 3

Written by Kie


 

 III ちょっと待ってよ

 

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<1>家にて

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 夜、月が出ている。濡れそぼった黒塗りのキャンバスに超極細の筆先から白い滴を幾
重にも滴らせ滲んだ薄明の中に巨大な蒼い光を浮ばせている。訪れる者もない死の世界
に最も近い輝きは見るものに在りし日の幻影を想起させ、行く末の儚さに思いを馳せる
甘美で危険な雰囲気を纏っている。生の狂気と名づけたのは一体だれだったろうか、湧
き出す意識が凍てついた月明かりに静かな波紋を広げていく。

 少年は伝わる波動を身に受けながら、意味もなく泣いていた。ただ、泣いていること
が、今、この少年にとって自然であるという意味では意味を知っているのかもしれない。
消滅の境界まで膨らんだ風船の空気がぬけたような体を抱え、弛み元に戻らぬ隙間を埋
めるような涙を流すことが、今の少年のできる全てだった。
 少年のそれは過剰だったのだろう。少年はまもなく立ち上がる力を得た。一人の涙に
込められた想いは、悲しみには多く、喜びには少ない。過剰の悲しみは心に膜を作り、
その想いが傷つくのを恐れて闇に解き放つ。

「ん・・・ぺんぺん。お腹空いたの?」

 少年は右手に蹲る黒い物体に向かって、穏やかな声をかける。濡れるだけ濡れた頬は
差し込む淡い光を受け、軟体動物のようにぬめぬめと輝き、蒼白く浮ぶ唇からは言葉が
穏やかな振動となって溢れ出してくる。少年は、これまでの出来事を部屋の片隅に片づ
けると、動き出した時計の針を周りの時刻に合わせるかのような足音を廊下に響かせた。

 ぺんぺん…そいつはこの空間を占めるもう一匹の同居人であり、新種の温泉ペンギン
である。知能は2、3歳程度らしいが、何を考えているのか分からない。ただ、自分の
本能に正直なようで、食事と睡眠、それに温泉には大きな関心を示す。危険な食事への
忌避的行動、自分に危害を及ぼす恐れのある人物との接触回避にたけ、葛城三佐が作る
食事と弐号機パイロットの機嫌には敏感な生物だ。

 少年は、異形の生物の食事をとる様を曖昧な網膜で一筆書きしながら眺めていた。程
なくして胃の中を焼魚で一杯にしたそいつは、至極満足した声を上げながら、ゆさゆさ
と自分の住処である巨大な冷蔵庫に引き篭もってしまった。これからは、睡眠の時間な
のだろう。

 一人残された少年は、ぺんぺんの啄ばんだ食器を取り上げ、食卓に放置されていた食
器とともに、キッチンシンクに張られた水面にそっと落とし込んだ。それらは、音もな
くゆっくりと水底へ下降していった。「アスカ専用」の茶碗は既に無くなっていた。

 少年は頭を振りながら食卓へ戻ると、コーヒーメーカーのスイッチを押した。本当は
昼食の最後に出すはずだった。

 食卓の椅子に座って、コーヒーの雫が一滴、一滴、落ちていく。透明な耐熱ガラスを
通して、黒い王冠が飛び散り、白く煌く。その様を眺めながら、今日一日を反芻する。
見えない津波が突然、自分を飲み込んだような気がした。いくつもの巨大な渦が互いに
衝突し水飛沫を上げ、自分の思考が黒い闇の中に溶けていく。少年は重い瞼を何度もこ
すりながら食卓に突っ伏すと、寝息を立て始めた。

 

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<2>また家にて

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ピポピポピポピポピポピポ、ピンポーン

どん、どん、どん、どんどん、どんどん

 部屋中に呼び鈴の音とドアを叩く音が鳴り響く。

 僕はびっくりして目を開けると、辺りを見回す。時計の針は8時を回っていたが、寝
入ってからそんなに経っていない。コーヒーは既に出来上がっており、保温スイッチが
入っている。

「シンジぃ〜いるかぁ〜」
 僅かに開かれた窓の隙間から漏れ聞こえる声に、慌ててドアへと駆けて行く。

 思った通り、ドアの向こうにはケンスケが立っていた。相田ケンスケ、僕が第3新東
京市に来て初めてできた友人。トウジとともに、学校では馬鹿ばっかりをやっていた。
VTRを片時も離さず、いつもひょうきんな仕草で場を盛り上げていた。趣味の軍事訓
練にはついていけなかった。

「ケンスケ。何?」
「おっ、いたいた。ちょっといいかな」
 ケンスケはくすんだグリーン地に迷彩の施された野戦服、カーキ色のヘルメットを被
り、軍事用ライフルを模したモデルガンと大きめのアーミーバックを肩に掛けていた。
また、訓練なのだろう。

 僕は、どかどかと入り込んだケンスケの後姿を一瞥して、ドアを閉めようとしたとこ
ろ、いつもと違う感じがするのに気付いた。ドアの向こうを煌々と照らすはず光が全て
消え失せ、暗闇が広がっていた。

「ケンスケ、通路が暗いけど大丈夫だった?」
 ケンスケはコーヒーを自分のバックから取り出したらしいステンレス製のマグカップ
になみなみと注いでいるところだった。

 ケンスケは食卓にどっかりと座って、部屋に入ってきた僕にペコリと頭を下げると、
「悪い、俺がやった」
と、悪びれもせずに答えた。
 ケンスケが言うには、マンションの通路に灯るライトを一つ一つライフルで撃ちぬい
たらしい。夜戦訓練前に必ず行うライフル調整なのだという。

「何も、ライトを撃たなくったって・・・」
「済まん、いい標的がなかったもんでつい」
 ケンスケはコーヒーを啜りながら、僕の顔をにやにやした表情で眺めている。

「よかったな、シンジ。惣流が出て行って。やっと、下僕から解放されるな」
 僕が怪訝そうな顔をするのをみて、ケンスケは、
「悪い、悪い。あんな性悪でも同居人だったんだからな。謝る。でも、あいつ、かなり
気合が入っているようじゃないか。いや、何、委員長からの情報だが、私は英雄になっ
てみせる!って勇んで出て行ったらしいな」
と、言う。

 僕は夢の中で見たアスカの姿を思い出し、”そんなんじゃない”と感じていたが、何
も言えずにケンスケの話に耳を傾けた。

「あいつ、ネルフに引っ越したって、委員長に連絡したらしいぜ。かなり、鼻息が荒か
ったそうだ。明日から猛訓練だってな。で、俺に連絡があって、お前の様子を見にきた
って訳だ」
 ケンスケはニタリと笑いながら言葉を続ける。
「お前が寂しがってないか、確認しにな」

 僕は何か言いたいのに何も言葉にできないもどかしさを顔一杯に浮かべながら、ケン
スケを見つめた。何かを搾り出そうとするように右手の開閉を何度も繰り返していた。

「まあ、惣流にはいつでもネルフで会えるだろ。それに、よかったじゃないか。あいつ
が元気になって」

 ・・・確かにそうなのだ。アスカはシンジが初号機に取り込まれてからいつもいらいらし
て、元気がなかった。家にいても自分を睨むばかりで、食事中も一言も話さない。綾波
に助けられた後は自分の部屋に引き篭もって一歩も外に出なかった。そんなアスカが今
日は自分から言葉を掛けてくれた。少しは喜ばしいことなのかもしれない・・・と僕は思
った。

「お前の気持ちも分からんこともない。だから、これをもって来た」
 ケンスケは胸のポケットから何かの束を取り出すと、食卓にぽいとぶちまけた。
「これでも見て気を紛らわせろよ」

 そこには、笑っているアスカの姿があった。

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<3>またまた家にて

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「ケンスケ、これって・・・」

「安心しろ、隠し撮りだ」

 ケンスケは被ったヘルメットを摺り上げながら、事も無げに言い切った。そして、自
分の右隣の椅子を引くと、僕を手招きした。

「こっちに来て、見てみろよ。これらは全て、俺の懐を潤してくれた逸品なんだぜ。写
真には性格がでないから、買っていく馬鹿者が多くて多くて。おっ、これなんか、どう
だシンジ!」

 ケンスケは嬉々として一枚一枚の写真を説明しながら、次第に早口となっていく。

「これなんてなぁ、俺が屋上から望遠を使って隠し撮りした奴なんだぜ。なかなか、下
着姿の女子生徒なんて拝めるものじゃないからな。これは、あの時の・・・」

 僕は一気に喋り捲くるケンスケの声を聞きながら、一枚一枚手にとって、アスカの姿
を見つめた。運動着姿でテープを切る瞬間のアスカ。クラスメートと笑談しているアス
カ。教壇の上に立って誰かを糾弾しているらしいアスカ。写真の中のアスカは躍動感に
満ち、きらきら輝いて見えた。

「ん。どうした、シンジ?」

 ケンスケは隣の僕が一枚の写真をじっとみている姿に気付いた。ぬっと、首を伸ばし
て覗き込む。そこには、僕がアスカにビンタされている瞬間が鮮やかに写し出されてい
た。

「あはは、これはご愛嬌。まあ、真実を伝えるのもジャーナリストの役目だからな」
 ケンスケは苦笑いしながら声を上げた。

「あっ、いや、そうじゃなくて・・・」
 僕はケンスケの言葉を否定するように、写真の右上隅を指差して尋ねる。

「これって、綾波だよね」
 僕が指差したところには、一人の少女が頬杖をついて外の景色を眺めている光景が写
っていた。

「えっ、綾波? そうか、綾波の写真が欲しいのか。今日は持ってこなかったが、次回
は必ず・・・」
 ケンスケの茶化すような台詞を遮るように、僕は話を続ける。

「そうじゃ、なくて、これを見てよ」
 僕は、手にとっていた写真をケンスケの目の前に置いて、再び指差す。

「なんだよ、シンジ。綾波がどうかしたのか?」
 ケンスケは僕が指し示す人物を見て、不思議そうな顔をする。

「綾波だよね」

「ああ」

「綾波だよね」

「ああ、だからどうした」

 ケンスケは少年が念を押すのを面倒くさそうに答える。

 僕はケンスケの顔をじっと見つめながら、話を切り出す。

「ここに写っている綾波と今日、教室にいた綾波は同じ?」

 ケンスケは唖然とした表情で僕の顔をみている。

「シンジ・・・お前、疲れてるんじゃないか・・・同一人物じゃないか、どう見ても」

「えっ、だって、ほら、髪の毛は蒼いし、短いし、瞳の色だって紅いじゃないか」

 ケンスケは僕から目を逸らすと、優しい口調で諭すように言葉を紡ぐ。

「シンジ・・・お前の目がどうかしてるんじゃないのか? ・・・綾波は綾波だろ。この写真
は合成じゃない。だから、真実を写している。真実は俺の言った通りだ」

 

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<4>またまたまた家にて

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 「そろそろ、行くわ」

 ケンスケは沈黙した閉塞感を突き破るように、元気な声を出す。ずれ落ちそうなヘル
メットを押さえながら、よっこらしょっ、とオジン臭い声を出しながら立ち上がる。

「泊まっていかないか?」
 僕は哀願を込めてケンスケを呼び止めようとする。

「済まんな、シンジ。これから野戦訓練がある。訓練は1日休むと、3日かけないと元
に戻らないんだ」
 ケンスケは訳のわからないことを言いながら、ピシッと姿勢を正し、僕に敬礼する。

「不肖、相田三等兵。これより、夜間警固の任に赴きます。小隊長殿は風呂にでも入り、
ゆっくりお休みください!」

 ケンスケは近衛兵のように、銃を片手にもう片方の手をオーバーに振りながら、両足
を突き出して闇の中を行進して行った。

「シンジ・・・お前さ、本当は綾波が死んだと思いたいんじゃないのか・・・あっ、いや、冗
談だ。忘れてくれ。じゃあな!」
という声がドアの閉まる音と重なった。

 一人取り残された僕は、ぼおっと食卓に広げられた写真を眺めていた。小一時間ほど
して自分の太もも辺りを乱暴に叩く感触に気付いた。

「あっ、ぺんぺん。お風呂に入るの?」
「クワ〜〜〜」
 嬉しそうな声が部屋に鳴り響いた。

 ふぅ〜〜〜
 僕はゆったりと浸かった湯船で全身を包む温かさに身を委ねている。

 ・・・風呂は命の洗濯よ・・・

昔、ミサトさんがいった言葉が思い出される。すると、突然、

 ザバン!

右頬に水飛沫がかかった。

 僕の横では、水面から顔を出しきょとんとした眼のぺんぺんが、静かに僕を見つめて
いた。

 黒真珠のような瞳と隈取のような白い毛髪。黒く尖がった頭部には真紅の眉毛が触覚
のように突き出ており、黄色い嘴は魔法使いの老婆の鼻のような鉤形をしている。全身
は白と黒のコントラストが鮮やかでタキシードを着ているようにも見えるが、手鰭の先
には尖った爪が身体の大きさとは不釣合いの長さで垂れ下がっている。はっきり言って
怖い。アニメなどで表現される愛らしさなど微塵も感じられるものではない。僕は見
れば見るほど不気味なその生き物を観察しながら、みんなぺんぺんを可愛いっていうけ
ど、どこがかわいいんだろうなどと考えていた。

「なあ、ぺんぺん。お前はどこが可愛いの?」
 僕はぺんぺんを湯船の中で抱き寄せると、ぺんぺんに問い掛けた。

 ぺんぺんは嫌がるようにその腕から逃れると、
「クワッ」
という一声とともに、風呂の引き戸を開け、ぺたぺた出て行ってしまった。

 僕は、あんな人間臭いところが可愛いのかな、それとも歩く仕草かななどと一人納
得して、ぺんぺんの後姿を見送った。

 ふぅ〜〜〜
 一人取り残された僕は、頭を湯の中に浸けると、ぶくぶくと泡を立てる。息苦しさ
から、真っ赤になった顔を上げる。

 ・・・風呂はいやなことしか思い出さない・・・

 トウジのこと。アスカのこと。綾波のこと。今日一日のことが走馬灯のように脳裏を
駆け巡る。

 トウジ・・・自分の犯した罪は償えるものではない。でも、どうすればいいか分からない。
ただ今は、トウジに心配を掛けてはいけない気がする。
 アスカ・・・この胸騒ぎは何だろう。とにかく、自分もネルフのパスがある。明日でも会
いに行こうと考える。
 そして、綾波・・・綾波については全く分からない、何がどうなっているのか。自分が知
っている綾波はあの綾波じゃない。今日は皆の前だから謝ったけど、自分としては納得
していない。綾波はあの綾波じゃない。綾波なんかじゃない。綾波はどこにいるのか。
父さんに聞いても埒が開かないのは分かっている。だから、明日ミサトさんに会いに行
って・・・でも・・・もしかしたら、自分がおかしいのかも・・・疲れているんだろうか・・・綾波
が死んだと思いたいからなんだろうか・・・

 僕は、一通り煩悶を繰り返すと、再び湯に潜っていった。

 僕は濡れた頭を拭きながら、バスタオルを腰に巻いて食卓へとやって来た。時計の針
は11時を指していた。

 『ご免な、シンジ』
 コンビニのおにぎりが2個、食卓に置いてあった。

 僕はケンスケがあの後ここに戻ってきたことを即座に理解した。目を潤ませて、ケン
スケの心遣いに感謝した僕は、おにぎりを一つとると、夢中で頬張った。甘い塩味がし
た。

 僕は人心地つくと、残ったもうひとつのお握りをそのままに、食卓に散らばった写真
を一枚一枚丁寧に拾い上げていった。

 それは、『赤い髪を掻き揚げて蛇口から水を飲もうとしているアスカ』の写真だった。
それをじっとみているうちに、思わず”熱膨張”の意味を思い出した。灼熱のマグマが
一点を目指して集まってくる。

 僕はそそくさとその一枚を別にして、他を一纏めにすると、戸締りして部屋に入る準
備に取り掛かった。
 ぺんぺんが冷蔵庫で寝ていることを確認した。
 歯を磨いた。
 ドアの鍵を閉めようと玄関に向かった。


 ・・・・・・・・・

 ドアの向こう側に誰かがいる気配がした。

 ケンスケが戻ってきたと思った僕は何の躊躇いもなく、ドアを思いっきり開いた。

「ケンスケ!」
 腰に巻いたバスタオルが風に戦ぐ。


 ・・・えっ・・・

 僕はドアを隔てた闇の中に、紅い瞳が光るのを確かに見た。

 

 

 to be continued

 


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