魂の自力救済
〜レイ、心の逍遥
written by 桔梗野聡視
プロローグ
「レイ、死ぬ気!?」
「……多分、私は三人目だと思うから」
「リツコ! アンタ何やってるのか解ってんの!?」
「解ってるわ、ミサト……『破壊』よ……ヒトじゃないもの……」
第一日目
22時30分 ミサトのマンション付近
おぼつかない足取りで歩くシンジ。
(ミサトさんは仕事から戻ってこない。戻っても部屋に閉じこもったまま出てこない。アスカは出ていったきり帰ってこない。綾波は……)
マンションに一人でいることに耐えられなくなったシンジは、夜の町へと出かけた。人の賑わいを求めて……
だが、零号機の自爆によって壊滅状態の第三新東京市に人の賑わいなどあるはずもなく、結局彼の足は近所のコンビニへと向かわざるを得なかった。
(綾波……いま、この第三新東京市にいる綾波は僕の知る綾波じゃない……さよならって言わなくなった、僕に笑顔を向けてくれるようになった綾波はもういないんだ……綾波……『三人目』の綾波に対して僕はどう接すればいいのだろう? 僕はいまだに今の綾波に微かなあたたかさとやさしさを求めてる、以前の綾波と同じような……今、彼女に……綾波の姿をした彼女に拒絶されてしまったら僕は……怖い……)
22時35分 セントラルドグマ−発令所付近の廊下
前が見えないほどに山のように大量のブリーフケースを抱えたマヤが発令所からの廊下を歩いている。
(零号機の自爆以降、赤木先輩はどこへ行ってしまわれたんだろう? やらなければならないことは増える一方。先輩、私だけでは力不足です……早く戻ってきてください。)
不意に誰かがすれ違っていくのを感じて立ち止まる。どうやら、抱えているブリーフケースが邪魔で人がこちらに歩いて来ているのに気づかなかったらしい。こんな夜分に発令所に行こうという人間の足音にしては不自然に軽い。不審に思ったマヤは抱えたケースを落とさぬよう注意しながら振り返った。
「……レイちゃん?」
第壱中学の制服を着た水色の髪の少女が立ち止まる。
「ハーモニクス試験の後すぐに帰ったんじゃなかったの?」
ゆっくりと振り返るレイ。紅玉の瞳がマヤを捉える。
「……!」
マヤは絶句した。
レイはマヤを認めると笑顔をつくって見せたのである。その笑顔はあたかも天使が降りてきたかのような愛くるしく美しいものであった。
「レ、レイちゃん……キャッ!」
派手に乾いた音を立ててケースが廊下にばら撒かれる。レイの挙動に驚いたマヤがバランスを崩したのである。慌ててしゃがみこんでケースをかき集めるマヤ。助けを求めようと振り返るがそこには誰もいなかった。あたかも最初から誰もいなかったかのように……
「……疲れてるのかしら?」
一人残されたマヤがきょとんとした表情でつぶやいた。
22時45分 コンビニエンスストア
澱んだ表情でコンビニの自動ドアの前に立つシンジ。だが、ドアが開いた瞬間、殴られでもしたかのようにのけぞった。コンビニのロゴの入った小さなビニール袋を手に下げたレイが目の前に立っていたからである。
「あ、綾波!!」
おもわず不自然に大きな声で叫んでしまうシンジ。レジの恐らく店長であろう中年に睨まれてあわてて店の外に出てわきに寄る。何事も無かったかのようにゆっくりと出てくる綾波。シンジの前まで来て立ち止まり、彼に向かってひとこと尋ねる。
「……何?」
正直なところシンジは驚いた。てっきり彼女は自分のことなど無視して行ってしまうだろうと思っていたからである。すくなくとも、この『三人目』と名乗る綾波ならそうしてもおかしくないと思っていた。だからこそ、彼女の反応はうれしいものだった。
「あっ、あの綾波はこんな時間にどうしたの?」
「……食事」
ビニール袋をわずかに掲げて見せるレイ。
「こんな時間に?」
「……ハーモニクスの試験だったから」
「そうだったんだ……」
二人の間に沈黙が下りてくる。ややあってレイが口を開いた。
「……帰るわ。それじゃ、さ……」
「綾波! もう遅いし、送ってくよ。ちょっと待ってて!!」
言い残して店に飛び込むシンジ。彼がレイの台詞を無理やり途中でさえぎったのは、そのままにしておいたら『さよなら』と言いそうだったからである。今のシンジにとってレイのこの台詞は絶対に聞きたくないものだった。
適当に棚を物色する。もっとも人恋しさから出かけてきただけで、何か買うものがあったわけではない。ちょっと考えてあったかい缶紅茶を2本手に取ると会計を済ましてレイの元に戻る。
「ごめんね、待たせちゃって。行こうか?」
うなずきも返事さえもせずに歩き出すレイ。苦笑して後から歩き出すシンジ。しかし、よく考えたらシンジが買い物をしている間にレイが一人で帰ってしまうという事態も考えられたのだ。そうおもえば、これでも上出来だなと思えるシンジだった。
「はい」
「……?」
シンジが差し出した缶紅茶を首をかしげて不思議そうに見つめるレイ。シンジはやさしい笑顔で言った。
「あげるよ、ちょっと肌寒くなってきたし」
「あ、ありがと……」
おずおずと手を伸ばして受け取るレイ。
零号機の自爆の後にできた新芦ノ湖を遠望しつつ、月光の下缶紅茶を手に歩いていく二人。会話はなかったが、それでも寂寥とした心に光がさすのを感じるシンジだった。
23時00分 赤木リツコが検束されている部屋
わずかな照明しかない薄暗い部屋。壁も床も黒く塗りつぶされており、側壁の赤く光るNERVのロゴだけが異様に目立っている。
部屋の中ほどに椅子が一脚。
そしてその椅子には髪を金色に染めた女性が無気力な様子でうなだれて座っている。
澱んだ雰囲気。
無気力な空気。
数メートル先に横になって落ちている片方だけのパンプスを焦点の合わない視線で凝視していた彼女が不意に顔を上げた。
「……ようやく殺してもらえるのかしら? 私にはもう絶望しか残ってないわ」
いっそのこと清々しく感じるほどにさっぱりと絶望を口にする。
彼女は扉が開いたのには気づかなかったが、確かに背後に人の気配を感じていた。諜報部員にしては軽い気配ではあるが……
「……赤木博士……聞きたいことがあって来ました」
振り返ったリツコの表情にはありありと驚愕が見て取れた。呪い殺さんばかりの視線でレイを睨むリツコ。だが、次第に彼女の表情に疑問符が浮かんでくる。
「あなた……誰よ?」
「綾波レイ」
「嘘ね」
「なぜ、そう思うの?」
「レイはね、そんなふうには笑わないのよ。たとえ人を馬鹿にするような場合であってもね」
うっすらと笑みを浮かべるレイにリツコは冷たく指摘してみせる。『馬鹿にするような』というのは彼女の僻みであろう。レイの笑顔に影は無かった。
「……そう? でも、私は綾波レイよ。私はレイの体を持ち、レイの心を持つモノ……だから私、レイでしょ?」
「……」
リツコには背後の少女の正体は解かりかねた。だが、彼女は今拘束中の身である。つまり何の責任もない。学者としての探求心さえ無視してしまえれば、これはこれで面白い事態と思えないこともなかった。何しろ暇なのだ、ここは。
「何を知りたいの? 大した事は教えてあげられないわよ」
「……かまいません。私の知りたいことはすべて赤木博士の心の内にある事ばかりです」
微かな笑顔でまっすぐ自分を見詰めるレイの瞳に居心地の悪さを感じて身じろぎするリツコ。レイはおもむろに口を開く。
「なぜ、ダミー達を処分したの?」
「あら、レイ。碇司令の走狗にでもなったのかしら?」
思いきり皮肉気な対応にもレイは表情を変えることはなかった。微かな微笑のまま尋ねる。
「私がいなくなれば碇司令の気持ちが自分に向くと思ったの?」
あたかも固形物を飲み込んだかのような苦しげな表情になるリツコ。レイは畳み掛ける。
「それとも、司令の『大切なもの』を傷つけて見せることで気を引こうとしたの?」
「わたしはっ!!……」
レイの問いかけはリツコの心に無形の爆弾を投げ込んでいた。
「……わたしは憎かったのよ、あなたが! あの人の心を縛ってるのよ! あなたのその姿形が!! そしてその事実だけでわたしとかあさんを屈辱に追いやったあなたが憎くてしょうがないのよ!! だからこそ、私は司令に必要とされるようになりたかった!! 女としてでなくてもいい、上司と部下という間柄であってもよかったから……」
感情を爆発させるリツコ。そしてその後はすすり泣くばかりであった。
「……そう、あなた私が怖かったのね」
すすり泣くばかりでリツコは答えない。
「……私を憎悪の対象とすることで、自らの行動の糧としていたのね」
体をくの字に曲げて両手に顔をうずめ泣くリツコを哀れむような瞳で見つめるレイ。
「……たとえ負の感情であるにしてもあなたにとって私の存在は意味のあるものだったのね……ならばいいわ」
嗚咽するリツコに背を向けて歩き出すレイ。やがて音もなく部屋の中から彼女の気配が消える。
23時15分 レイの部屋の前
「ごめんね、綾波。なんだか無理やりついてきちゃったみたいで」
結局、缶紅茶を渡して以降、二人はまったく無言でここまで来たのであった。その気まずさからシンジがレイに謝ったのであったが、レイは俯いたまま何も答えない。
シンジはいろいろと複雑な思いを込めた溜息をつくと、それじゃと言ってレイに背を向けた。歩き出そうとして奇妙な抵抗を感じて振り返る。そこにはシンジのシャツの裾を掴むレイがいた。
「……どうしたの?」
「……」
レイは俯いているので表情を窺い知ることはできない。黙ったままシンジのシャツの裾を掴んでいる。
「……あ、あの……綾波?」
「…………して……」
「え?」
「……ど…して……」
本当に小さな声でささやくレイ。シンジは聞き取ろうと彼女の側に寄る。
「……どうして送ってくれたの?」
唐突な問いかけにシンジは考え込んでしまう。なんて答えるべきだろう? 僕が寂しかったから―あまりに直入過ぎる。綾波が寂しそうだったから―あまりにあざとすぎる。その他さまざまな口実が頭の中をよぎっていったが、次のレイの台詞を聞いてそれらはすべて吹っ飛んでしまった。
「……私、三人目なのに……」
「綾波!!」
レイの表情にほんのわずかではあったが怯えの色がまざったのを見てシンジは今、自分がどんな表情をしているのかを想像できた。真剣にレイの目を見詰めてシンジは続ける。 「綾波、お願いだから『三人目』だなんて言わないで……綾波は綾波なんだ……綾波でいてほしいんだ……でないと僕は……もう独りは……」
大粒の涙をこぼすシンジ。レイはそんなシンジを不思議そうに首を傾げて見ていたが、ついと視線を外し、下を向く。
「碇君、私のこと……何とも思わないの?」
この『何とも』とはターミナルドグマに存在したダミー達の事を指しているのだろう。シンジの脳裏にLCLに浮かぶ無数のレイの姿が浮かぶ。慌てて頭を振って不快な記憶を意識野から追い出す。
「言っただろ? 綾波は綾波だって」
俯いたままのレイ。目だけが上目使いにシンジを追っている。シンジは自分の涙をぬぐいながら言った。
「さ、綾波。お願いだからそんな顔しないで笑ってよ」
涙ぐんでそう言うシンジを見たレイは、強烈な既視感を感じて彼をまじまじと見つめる。
そして笑顔を見せた。
「……! ……おやすみ、また明日ね」
うれしそうに、そして照れくさそうに挨拶して帰ろうとするシンジにレイは言った。
「……お、おやすみなさい……」
シンジが見えなくなるまでその背中を見つめていたレイは、彼が見えなくなってからもしばらくの間は彼の帰っていった方向をじっと見つめていた。
(……『さよなら』、別れの言葉……碇君に言ってはいけない気がする……碇君が悲しむから……わからない、なぜ私そう思うの?)
第二日目前編に続く
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