魂の自力救済
〜レイ、心の逍遥
written by 桔梗野聡視
最終日
18時00分 綾波レイの自室
シンジが駆けて行った後、レイは自分がどこをどう歩いて来たのかさっぱりおぼえていない。気付いた時には自分の部屋の寝台で俯せて泣いていた。何故かはわからないが、後から後から止めどもなく涙があふれてきて止まることが無かった。
それは、嘘。
無論、彼女は自分の流す涙の意味を知っている。自分の心の内に存在する喪失感の意味に気付いている。
碇シンジ
彼女の失われた記憶に繋がる少年。レイは彼の笑顔に"自分のみ"に向けられた明確には表現し得ない"何か"を感じた。それは彼女が生まれて……LCLから上がって後、今日までの決して長くはない時間の間に関った人々、すなわちネルフ司令碇ゲンドウ、同副司令冬月コウゾウ、技術部長赤木リツコ、その部下息吹マヤ、そして作戦部長葛城ミサト……それらの人々の表情の中からは見出すことのできないものであった。レイはシンジの笑顔に"暖かさ"を、"絆"を感じた。それは過去に何も持たない彼女にとって、何物にも代えがたい特別なものに思えていたのである。
しかし、その絆は切れてしまった。
碇君が私を見てくれない。笑顔を向けてくれない。
悲しみに満たされる心。涙が止まらない……
「……『絆』」
冷蔵庫の上に置かれていた眼鏡をすがるような思いで手にする。が……
「……もう、ダメなのね…………」
眼鏡からはその素材の持つ冷たさしか感じられない……自分のものではない記憶の片隅に感じられたぬくもりはすでにその眼鏡では得ることができなかった。シンジの持つ"ぬくもり"に触れてしまった彼女は、もはやゲンドウの純粋ではない、彼女だけに向けられているわけではない"絆"では満足することができなくなっていたのである。絶望した彼女が眼鏡を持つ手に力を込めた。レンズのひびが広がり鈍い擦れるような擦過音の悲鳴を上げる。と、そこに数滴の水滴が落ちた。
「……! 涙……私、泣いてるの?……なぜ、泣いてるの……?」
心の底が疼く。無意識の内に封じ込めていたものがはじけそうになっている。結局、眼鏡を壊すことができなかった。過去の記憶に縋るしかできないのだろうか? 自分のものでない記憶に! 彼女自身はこの眼鏡を壊してしまいたかった。だが、体はそれを拒否する……どうしたらいいのかわからなくなったレイは眼鏡を手にしたままがっくりと肩を落とす。冷蔵庫の上に掛けてある鏡には、ひどく疲労した表情の彼女がいた。
突然、眼鏡を持つ手に違和感を感じた。眼鏡がぎしぎしと無気味な悲鳴を上げる。
驚いたレイが自分の手を見ると、彼女の手に彼女のものではない、しかし彼女そっくりの色素の抜け落ちた手が添えられておりその手がレイの手のひら越しに眼鏡を握り潰そうとしていた。
慌てて自分の手に重ねられた手の延長線上に視線をやると、その先には鏡があり……
「……っ!!」
そして、凄絶な笑みを浮かべる『レイ』がいた。鏡の中からその手をのばす彼女はよりいっそう力をこめてレイの手の中の眼鏡を握りつぶそうとする。
「……嫌っ!!」
思わず身を引くレイ。鏡の中の『レイ』も手を引かれる形で鏡の中から、まるで水の中から出てくるかのように鏡面からするりと出てくる。そして、彼女に抱きついた。眼鏡を持つ手にその手を重ねたまま……
『思い出すのが恐い記憶なのに、なぜそれに縋ろうとするの?』
「……!」
冷たい笑みを浮かべたまま、『レイ』はレイの耳元で囁く。
『碇司令ではダメなのでしょう?』
「っ……」
『もう、ダメなんでしょう?』
「……」
沈黙するレイをクスッと笑う。
『……じゃあこれは要らないわよね』
重ねられた手に力が込められる。鋭い音をたててレンズにひびが走った。
「……嫌っ! 離してっ!!」
眼鏡を胸に抱きしめるようにして庇うと、レイは空いた片手で渾身の力をこめて『レイ』を突き飛ばす。転んで後頭部を冷蔵庫に強打する『レイ』。冷蔵庫の上の水の入ったビーカーがその衝撃でそこから落ちた。床に叩きつけられ砕けるビーカー。撒き散らされる水。
冷蔵庫にもたれる形で座り込んで『レイ』はレイをその紅い瞳で見上げる。あれだけ後頭部を強打したにもかかわらず彼女に特にダメージは見受けられなかった。底冷えするような冷笑を浮かべる『レイ』。
『どうして拒否するの?』
『赤木博士に"存在の意義"を見出せなかったんでしょ?』
「……"存在の意義"? わからないわ」
『弐号機パイロットに"自分の欠けた姿"を見出すことはできなかったんでしょう?』
「……"欠けた姿"? わからないわ」
『葛城三佐に"未来への希望"を見出すことはできなかったんでしょう?』
「…………"希望"? ……わからないわ」
『碇司令に"望まれ"なかったんでしょう?』
「…………"望まれる"? …………わからないわ」
『碇君を"望んだ"のでしょう?』
「…………"望んだ"?…………わ、わからな
『本当に?』
虚偽の受容を認めない『レイ』の視線を真正面から受けるだけの勇気と真実をの持ち合わせをレイは持っていなかった。黙って視線をそらす……
18時30分 発令所
「フィフスチルドレンが今、到着したそうです」
受話器をコンソールに戻した日向が、背後に立っている上司に振り返った。
「……そう。フィフスチルドレン……渚カヲル、過去の経歴は抹消済み」
表示される渚カヲルのデータをざっと斜め読みしたミサトは人差し指を唇に当てて考え込む。よくよく見れば指の背をきつく噛んでいるようだった。
「……レイと同じくね」
つぶやいてからミサトは思い出したように問う。
「そういえば、レイは?」
問われることを予想していたのであろう、日向は開きっぱなしになっていたMAGIのウィンドウを指差してみせる。
『first children−LOST』
「諜報2課はレイが自宅に居ることを確認していますから、このMAGIの失索は……」
「"あの子"の欺瞞工作というわけね。つまりあの子は今、レイのところにいるというわけか……最後の仕上げね」
18時40分 綾波レイの自室
『私はあなた。あなたは私……あなたは誰?』
「……私……私は綾波レイ。……あなた誰?」
『私は人形』
「……あなた誰?」
『私はエヴァンゲリオン零号機の部品』
「…………あなた誰?」
『碇ユイの代わり』
「………………あなた誰?」
『赤い土から造られたモノ』
「………………あ……あなた……
『違うんでしょ?』
「……!?」
『レイ』台詞にレイははじかれたように顔を上げた。いつの間にかその紅い相貌からあふれていた涙をそっとぬぐってやる『レイ』。レイは彼女の挙動に驚いた表情を見せ、『レイ』はやさしく微笑で見せる。
『違うんでしょ?』
「……あ……わ、わから……
わからない、と言いかけたレイは、『レイ』の柔らかい視線を受けて口をつぐむとややあってこくりと頷く。そのまま彼女はレイの手を取ると、そっとその手のひらを開かせて壊れた眼鏡を取り上げた。不安を一杯にたたえた瞳でそれを凝視するレイに対して、『レイ』はやさしい笑顔を向けた。
『これは私の……そしてあなたの"絆"……過去との"絆"……』
『碇司令との絆、零号機との絆、赤木博士の憎悪、弐号機パイロットの過去、葛城三佐の希望、その他たくさんの絆……そして、これまでの碇君との絆……』
『レイ』はレイの瞳を見つめて静かに続ける。
『あなたに必要ないわ……全部私が持っていく……』
レイの瞳が揺れる。思い出すことが怖いものであっても、絆が断ち切られる恐怖はやはり大きい。その様子を見た『レイ』は不意に明るい笑顔を作ると左手を腰に、右手をレイに突きつけて、そう、まるでアスカのように明るく言った。
『"私はあなた、あなたは私"……でも、もう、今は違う……』
涙を流すレイの頭を自分の胸に抱きかかえて優しく続ける。
『あなた、そんないい表情ができるんですもの……私にはできなかった』
過去形で遠い目をして『レイ』。やがて頭を離すと、レイの肩に手を置き諭すように言う。
『あなたに過去の絆は必要無い。私が全部持っていってあげるから、あなたはまったく新しい一人の『綾波レイ』として碇君だけを好きになればいいのよ』
涙を流したまま、それでも大きく目を見開くレイ。『レイ』はくすっと笑った。
『なんて顔してるのよ?』
「……ごめんなさい、こんなときどんな顔をすればいいのかわからないの……」
『……!? ……笑えばいいのよ』
「……笑う?」
『以前、碇君はそう教えてくれた』
「……」
きょとんとした表情で考え込むレイ。
ややあって最高の笑顔を見せる。
うれしそうに頷く『レイ』。
『そう、それでいいわ……それじゃあ……』
『レイ』は眼鏡を握る手に力を込める。眼鏡は彼女に与えてきた影響の……いや、彼女を縛ってきたその力がかりそめのもであったとでも言わんがごとく、あっけないほどに、つまらないほどに簡単に砕け、その形を失った。彼女はその手に中に収まるかつて眼鏡であった残骸を無表情に眺めると、それがもはや興味のなくなった玩具であるかのように床に放り投げる。レイの視線はすでにその眼鏡に注意を払ってはいなかった。
『じゃあ、私行くわ……さよなら』
フィルムのオーバーラップのようにあやふやなシルエットになり、やがて消える『レイ』。しばらくの間笑顔のままで立っていたレイの足元に一粒の涙が落ちた。
「……さようなら……そしてありがとう……『わたし』」
第6日目 6時30分 綾波レイの自室
気だるげにベッドから身を起こすレイ。彼女は自分の心が奇妙に軽くなっていることに気づいた。
(……眠っていたの?……私)
昨夜本部から帰ってきてそのまま寝てしまったらしい。この部屋で誰かと深刻な話をしたような気がするが、
(……ありえない……ここに人が来るはず無いもの)
(……碇君以外は……)
(……碇君……)
窓の外の夕焼けの赤に染まった街並みに視線を向けるレイ。
(……呼んでる……碇君が呼んでる……)
目を閉じて胸に手を当てる。
(……違う……呼んでるのは私……)
(……碇君……)
なぜ、そう思ったのかはわからない。碇シンジという"ヒト"について確かな記憶は何もない。それ以前に"彼女のもの"である記憶そのものが存在していない。仮にシンジのところに行ったとして何かするべきことがあるわけでも、対応の仕方を心得てるわけでもない。それでも……
ベッドから起きあがり、扉の外へ消えていくレイ。
その時、床に落ちている壊れた眼鏡にはまったく注意を払わなかった。
6時40分 新芦ノ湖畔
風が水面を岸へと追いやり、湖畔にたたずむシンジのカンバス地の靴を洗っていた。聞こえてくるのは風の音とヒグラシの鳴く声のみ。それは耳が痛くなるほどに静かで、寂しい光景だった。
「トウジもケンスケもみんな家を失って他の所へ行ってしまった」
「友達は……友達と呼べる人はいなくなってしまった」
「……誰も」
「綾波には会えない」
「その勇気がない」
「どんな顔をすればいいのかわからない」
シンジの脳裏に一瞬だけ最後に見たレイの呆然とした表情がフラッシュバックする。
「また……また、逃げたんだ……」
「僕はどうしたら……どうすればいい?」
「"Freude, schoner Gotterfunken, usw. Seid umschlungen, Millionen ……"」
聞こえてきた場違いな歌声に首を巡らすと、湖に浸かった壊れた天使像の上にシンジと同じくらいの年格好の少年が座っているのが見えた。彼は始めからシンジに気付いており、そして言った。
「歌はいいね」
「え?」
「歌は心を潤してくれる。リリンの産み出した文化の極みだよ。そう感じないか?」
少年はシンジに振り返る。
「……碇シンジ君」
終り(以下、第弐拾四話「最後のシ者」へと続く)
エピローグ
すでに赤木博士は現世のきざはしから足を踏みはずしLCLの海に浮かんでいる。
ジオフロントの地底湖の底に沈む弐号機のエントリープラグの中で自らの精神の底に沈んでたアスカも、今では弐号機に導かれて破壊を量産している。
冬月副司令はすべてを見届けるべく、発令所に踏みとどまって対戦自防衛戦の指揮をとっている。
ミサトは銃を片手にシンジに最後の偽善を施し、そしてシンジは絶望する。
碇ゲンドウは……
「アダムはすでに私とともにある。ユイと再び会うにはこれしかない。アダムとリリスの禁じられた融合だけだ」
リリスの前に立つゲンドウと白い肢体を晒すレイ。鈍い音を立ててレイの左腕があたかも蝋細工のように落ちた。崩れ落ちたレイの左腕の粘土のような断面に視線を走らせ、彼女の表情のない顔に視線を戻す。
「……時間がない。ATフィールドがお前の形を保てなくなる」
右手の手袋を外すゲンドウ。手の甲に移植されたアダムの幼生が小さく脈動する。
「始めるぞ……レイ。ATフィールドを、心の壁を解き放て。かけた心の補完。不要な身体を捨て、すべての魂を今、一つに」
その手のひらを晒されたレイの幼い乳房に伸ばす。
「そしてユイの許へ行こう……」
だが、その手のひらが彼女の肌に触れることはなかった。橙色に光る正八角形の光の壁がそれを拒んだのである。ゲンドウの表情が驚愕の色に染まった。
「まさか!?」
「……私はあなたの人形じゃない」
ATフィールドがさらに明るく発光してゲンドウを弾き飛ばした。床に倒れ伏せた彼は、それでも慌てて立ちあがろうとする。
「……何故だ?」
レイの左腕が再生されていく。腕が、そして指が…… 微かにその腕に視線を走らせた彼女はその冷たい視線を、先程よりは確実に自信を喪失して驚愕の色を消せないでいるゲンドウに投げつける。
「私はあなたじゃ、ないもの」
立ち上がれないでいるゲンドウに正対するレイ。宣告するように告げる。
「あなたが求めているのは私じゃない。私が求めているのはあなたじゃない。あなたが求めているものは私が求めているものとは違う。私が求めているものはあなたが求めているものはあなたが求めているものとは違う」
レイは微かな冷笑を閃かせ、そして踵を返した。
「……だから、さよなら」
「レイ!」
立ち去りかけたレイを追おうとしたゲンドウの襟首が何者かにつかまれる。振り返ってその正体を認識したゲンドウは驚愕し、再び座り込んだ。
『なぜ、彼女を追うの?』
「なっ!?」
『レイ』が立っていた。彼女は襟首を放すとゲンドウの左腕を掴む。その手はゲンドウがいかにもがこうとも食い込むようにきつくつかまれ、容易に離れようとしない。
『あなたが追うべきは、彼女ではないでしょう?』
「は、放せ!」
『あなたは"人形としての綾波レイ"を望んでいたのでしょう? ならば人形であることを否定した彼女はもはや"あなたの"綾波レイではないわ』
「は、放せっ!! レイッ!」
ゲンドウは立ち去ろうとするレイに向かって空いた方の腕を伸ばし必死に伸ばし追いすがろうとする。その呼びかけにふとレイが足を止めた。一瞬だけ期待の色がゲンドウの顔に浮かぶ。だが、レイは振り返っただけで言った。
「だめ。碇君が呼んでる」
「レイ!!」
レイは微かに地面を蹴ると宙に浮かんでそのまま上昇し、やがて闇に溶け込んで見えなくなった。
「レイ……………………ユイ……」
うなだれるゲンドウの耳元に『レイ』が後ろからささやく。
『あの子も"私"もユイじゃない。でもあなたにはそれが理解できなかった』
「……」
いつしか『レイ』に掴まれていたゲンドウの腕が彼女のそれと融合し、取り込まれていく。しかし、ゲンドウはそれに反応しようとはせず空ろな瞳を彷徨わせるのみである。
『これもあなたが招き寄せた結果……受け入れるしかないでしょうね』
ふと『レイ』が優しく微笑んだ。
『あなたが"創り"、"育て"、そして"捨てた"私と……せめて一緒に死んでください』
次第に『レイ』に取り込まれてゆくゲンドウ。そしてややあって最後の右腕が融合し……補完は完成する。ユイに関ることなく……
終り