魂の自力救済

     〜レイ、心の逍遥

                    written by 桔梗野聡視


 第五日目(後編)

 15時10分 NERV付属病院303号病室前(前章のつづき)

 集光ビルから送られてくる柔らかな午後の陽光が、長い廊下に窓枠の陰影をくっきりと形付けている。何一つ動くもののない、何一つ物音のしない廊下。そこで二人は向かい合って立っていた。

 救いを求めて視線を泳がせるシンジ。だが、マヤとの裏工作によって誰も来ない状況を設定したのが彼自身であったという事実は皮肉以外の何物でもないだろう。

 

 シンジの様子を見た『レイ』が唇の端を微かに綻ばせて一歩踏み出す。

 

 想像以上に大きく響いた彼女の靴音に、口元を引き攣らせて一歩後ずさるシンジ。

 

 さらにもう一歩『レイ』は踏み出す。

 

 さらにもう一歩後ずさるシンジ。

 

 そしてもう一歩踏み出した『レイ』が口元を笑った形に歪める。

 もう一歩後ずさろうとしたシンジは、彼女の歪んだ笑みの理由を理解した。彼の背後はもう病室の扉であり、逃げる場所がなかったから。覚悟を決めて彼女の紅い瞳を見据える。

 「君は……誰?」

 右手の人差し指を真っ直ぐに立て、より一層上向きにカーヴした唇の端にあててみせる『レイ』。

 「……答える必要、ある?」

 「…………リツコさんやミサトさんの所に現れた"偽物"の『綾波レイ』……?」

 ここで初めて彼女は目を細めた……どうやら笑ったらしい。

 「……"本物"か"偽物"かなんて区別に意味はないわ。『私』は『彼女』だし、『彼女』は『私』だもの」

 「どういう意味だよ?」

 「……言葉通りよ」

 目を細め口の端を上向かせる彼女の表情は、笑顔そのものである。だが、その笑顔はまるで長い間倉庫の中で埃をかぶっていた古い絵に描かれた道化師を思わせる、何処かしら陰鬱と微かな哀しみを感じさせるように重苦しい。少なくともシンジには、その表情を額面通り笑顔と認識することはできない。ただ、彼は『レイ』の瞳に奇妙な既視感を感じた。無論、本物の(と彼が認識している)レイが同じ表情をするとかいうレベルの問題ではない。だからこそ、であろうか? 彼は次の台詞を口にするのに随分と勇気をひねり出さねばならなかった。

 「……なぜここに?」

 彼女の瞳だけが元の無表情に戻る。口の端にあてていた右手を離して大きく振りかぶると……

 

 廊下に鈍い音が響き渡る。

 

 驚愕するシンジ。彼の左頬をかすめるようにして、その背後の扉に『レイ』の細くて艶めかしく白い腕が突き立てられている。横目にその腕をまじまじと見詰めていたシンジに、鼻先が触れ合うほどに顔を近づける『レイ』。そして、シンジの瞳を覗きこむようにして言った。

 「……入るの? この中に?

 

 

 

 15時40分 赤木リツコが検束されている部屋

 薄暗い部屋のまん中に置かれた椅子に力なくうなだれて腰かけているリツコ。ミサトはそのリツコより3メートルばかり後ろに立ち、彼女の背中を冷たい眼差しで見下ろしていた。双方無言のままかれこれ5分ばかりこの状況が続いている。が、リツコは一向に振り返る気配を見せない。ミサトが背後に立っていることはわかっているはずだが。

 「……赤木博士」

 極めて事務的に感情を抑えた口調で呼びかけるミサト。ややもすると冷たさすら感じさせる口調である。だが、リツコはぴくりとも反応しない。

 「……赤木博士、聞きたいことがあるの」

 不快さを堪えるようなミサトの口調を聞き、リツコの唇の端がわずかに上がった。

 「……『レイ』の真似かしら?」

 リツコの疲れたようなつぶやきにミサトは不快気な沈黙を示す。ミサトの反応に気を良くしたのかリツコは髪を掻き上げながら大きく仰け反るように伸びをした。ただ、彼女の髪に艶はなく、動きには疲労が目立つ。

 「……その様子だとあなたのところにも来たようね」

 荒れてがさがさになった唇を真っ直ぐに伸ばした小指で撫でながら、リツコは流し目で問う。

 「あの子、あなたをどう呼んだのかしら?」

 「……」

 「当ててみましょうか?」

 「……リツコ

 ごく小さいが鋭い声で制止するミサト。だが、リツコはそれを無視してさも嬉しそうに続けた。

 「……そうねぇ、多分『偽善者』かしら?」

 「リツコ!」

 「こだわってたものねぇ……シンジ君やアスカの保護者の真似までして……」

 「リツコ!!」

 「どう? 16使徒まで倒した感想は? さぞ気持ちいいでしょうねぇ? クッ……ククク……」

 律動を欠く濁った笑い声を上げるリツコに、肩を強ばらせていたミサトはややあってがっくりと力を抜いた。

 「……リツコ、アンタ寝てないわね?」

 笑うのを止めてゆっくりと振り返るリツコ。疲労がその表情にくっきりと浮き、睡眠不足で血走った瞳を向ける彼女は痛々しいを越えていっそ無気味に見える。

 「……寝るのも死ぬのも似たようなものよ」

 「…………そう、じゃあ死ぬ前に一つ教えて欲しいんだけど?」

 「……何かしら?」

 一拍置いて、深呼吸すると冷たい口調でミサトは言った。

 「アンタが極秘とした、自爆した零号機のエントリープラグの中身よ」

 

 

 

 15時40分 NERV付属病院303号病室前

 病室の扉にまで追い詰められたシンジからは『レイ』の姿は、鼻先が触れ合うほどに近くにいるにもかかわらず、逆光に黒い影として浮かんでしか見えない。影になって表情は見えないのにその瞳だけが一体何処からの反射光を受けているのか鮮やかに紅く光を放って浮かび上がっているのがシンジの目を引いた。

 「……入るの?」

 重ねて問う彼女にシンジはどう答えればいいのかわからない。まごつくシンジを見て『レイ』は口元に艶やかな笑みを浮かべた。

 「会いに来たのでしょう? 彼女に。弐号機パイロットは……」

 そこまで口にしてふと言葉を切ると小首を傾げ少しだけ考えてから言い直す。

 「……『アスカ』はこの中にいるわ」

 彼女の言葉につられ、首をねじ曲げて背にした扉を振り返るシンジ。『レイ』は扉に突いていた手を離すとその手のひらを裏返し、軽く握ってコツコツと扉を叩く。

 音もなく開く扉。

 その扉に押しつけられるような形になっていたシンジは、支えを失い背中からよろけて室内に転がりこんだ。腰を強打してうめきながら起き上がる。上半身を起こしたところで、ちょうど視線の先のベッドに……

 「……アスカ!」

 生命維持装置一体型のベッドに横たわるアスカの容体はシンジの予想を遥かに越えていた。脂肪が落ちてこの年頃の少女に特有のふっくらとした感じが完全に失われている。痩けた頬、骨ばった腕。肌には張りがなく、艶を失っって好き勝手な方向へ伸びている髪はまるで木綿か何かでできているかのよう。マヤから注意は受けていたものの、シンジは正直ここまで酷いとは思っていなかった。アスカが失踪してから今日まで一週間に満たない。確かにそれ以前から拒食気味ではあったが、ここまで急激に悪化したのはやはりマヤが指摘した通り精神を重く病んでいるという事なのか……『レイ』の所作もその一端であるのだが、無論彼の背後に立つ彼女はそんなことを開陳したりしない。

 「……ア、アスカ……」

 その瞳は開かれてはいたが、知性を感じさせる光は無く虚ろに濁っている。シンジの呼びかけに反応する気配はない。

 「……彼女は……」

 いつの間にかアスカのベッドを挟んだ反対側に立っていた『レイ』が、その視線をアスカの瞳に固定してつぶやくように言った。

 「……アスカの心は内に向かって閉じこもっているわ。呼びかけても答えない」

 シンジは呆然とアスカを見詰めたまま『レイ』の言葉を聞いている。

 「今の彼女は"ただ生きてるだけ" 彼女が嫌っていた『誰か』と一緒……」

 『レイ』の語尾に微かな嘲笑が感じられた。シンジは強い嫌悪を感じたが奥歯を強く噛む事で無視する。

 「……どうしてこんなに……」

 つぶやくシンジの表情に同情よりは憐憫が表れているのを見た『レイ』の表情に微かに険しさが浮かぶ。

 「…………仮に、碇君が溺れていたとして……一番近くにいた人が助けてくれなかったら?」

 「……えっ?」

 「……そして、その人が本当は自分よりも上手に泳ぐことができるにもかかわらず、泳げないと思いこんでいたら?」

 「……」

 「……しかも、以前はその人の方が泳ぎが下手だったら?」

 「……綾波」

 「……そして……あなたが本当はその人のことを頼りにしていたら?」

 「…………綾波、僕が悪いって言うの?」

 気付いただけでも僥倖と言うべきだろうか? 裏を返せばそれだけシンジが神経をとがらせているともいえる。不当な非難を受けたという表情で『レイ』に視線を向けるシンジ。だが、『レイ』はそれには取り合わない。

 「…………だからこそ、彼女を救うことができるのは碇君だけ」

 「……えっ?」

 きょとんとするシンジを見やって『レイ』は淡々と続ける。

 「……彼女に期待させて、失望させたのは碇君」

 「だって……」

 「……でも碇君は気付いてない。それに彼女自身も自分の心情に気付いていない。だから彼女を救うことができるのは、それを『知ってしまった』碇君だけ……」

 「僕……」

 呆然とアスカを見下ろすシンジ。『レイ』は微かに上目使いに続ける。

 「碇君が手を差し伸べない限り、彼女は救われないわ……でも、もしかしたら……」

 言い淀む彼女に怪訝そうに尋ねるシンジ。

 「『もしかしたら』……何?」

 「……なんでもないわ」

 不自然な『レイ』の反応であったが、それ以前の会話の内容の方がシンジには強い印象を与えていたため深く突っ込むような事はしなかった。

 「…………僕が……」

 そっと慈愛と悔悛の表情でシンジはそっとアスカの頬に手を伸ばす。その様子を見て表情を険しくし、視線を鋭くする『レイ』。頬に手が触れようとする瞬間、彼女はぽつりと言った。

 「……でも、もし碇君がアスカに手を差し伸べたらあの子は……"綾波レイ"は救われない」

 シンジの手が止まった。

 「……今、何て……?」

 『レイ』の紅い視線が真っ直ぐにシンジの瞳を射貫いていた。

 

 

 

 16時00分 赤木リツコが検束されている部屋

 ミサトの視線から逃れるように俯くリツコ。ミサトは重ねて問う。

 「教えて……赤木博士。あなた、あの壊れたエントリープラグの中に何を見たの?」

 「……」

 俯いたままリツコは沈黙する。ややあってつぶやくようにして言った。

 「……ミサト、あなたは何があったと思う?」

 「……極秘にしたくらいだから単にレイの遺体があったわけじゃないんでしょ?」

 腕を組んでいらいらとした様子の見える彼女を横目で見やったリツコは、俯いて肩を落とした。ゆっくりとかぶりを振る。

 「……私は何も見なかったわ」

 「リツコ! ここまできてまだ隠すの!?」

 忍耐の残高が赤字に転落したミサトの叫び声に激しくかぶりを振って叫ぶ。

 「私は何も見なかった!」

 「アンタ、自分がナニやってたか自覚無いの!?」

 ミサトは一気に詰め寄ると、リツコの襟首を掴み締め上げる。なす術もなくされるがままのリツコ。ミサトはリツコを自分の目線の高さまで引きずり上げて、呪詛を叩きつけた。

 「いつまで強情はってんのよ! 他人を巻き添えにして!!」

 「……アナタこそいつまで善人を気取るつもり!?」

 「"振り"すらしなかったアンタよりマシよ!!」

 「偽善ね、笑わせてくれるわ!」

 いっそうリツコの襟元を締めあげるミサト。

 「だからって露悪が上品って訳じゃないっ!!」

 リツコは締め上げられつつもミサトを睨み据えて掃き捨てるように叫んだ。

 「エントリープラグの中には何も無かったのよ!!」

 「……えっ?」

 突然手を離されて、床にへたり込むリツコ。苦しげに咳き込みながら重ねて言った。

 「……エントリープラグの中には……何も無かったのよ……」

 「……『何も』って…………だって……」

 虚を突かれて戸惑うミサト。椅子に座り直し襟元を正しながらリツコは静かに解説する。

 「具体的な数値を提示する必要はないと思うけど、エントリープラグは激しい戦闘からパイロットを保護するために考え得る限り最高の強度が与えられているわ」

 「"保護"ね……」

 リツコはミサトの皮肉を無視する。

 「その強度はマリアナ海溝に沈めても歪むことはない。……無論、理論上だけどね。でもその材質が金属である以上、熱を完全に遮断することは不可能だわ」

 ミサトは無言で聞いている。

 「人間の体はおよそ2,000℃で完全な灰になる。無論、"あの"レイでも同じ」

 不快気な表情を見せるミサト。リツコはそれを楽しむような様子すら見せて続けた。

 「……エヴァの自爆により発生するエネルギーは、それこそ第3新東京市をまるごと芦ノ湖に変えてしまった。爆発の瞬間の温度は摂氏換算で概算でも億℃を下まわるということは無いと思われるわ。だから、エントリープラグの中にはレイの"遺灰"が残っている筈なの……密閉容器だからね。にもかかわらず、その中には何も無かった」

 「脱出した可能性は……?」

 「『魂の移植』は完了したわ。ゆえにレイが生きているということはあり得ない」

 「……そういうことを淡々と答えないでよ」

 「言葉を飾ってもしかたないもの」

 「……で、レイはどうなったと考えているの? 赤木博士は?」

 煙草を吸いたかったのだが無論あるはずもなく、無意識の内にリツコは親指の爪を噛んでいた。

 「まず、自爆した瞬間のレイの状態を考えてみるわよ? 第16使徒は零号機に物理的融合を試みていたわ。これは同時に零号機とシンクロしているレイに対しても融合することになる」

 「実際に接触したわけでもないのに?」

 「エヴァとパイロトの接続は双方向に対してフィードバックされるもの。つまり、自爆の瞬間、エントリープラグの中に居たのはレイであり16使徒でもあると考えられるわ」

 「……」

 「では次、行くわよ? 自爆によりレイは死亡した。魂の移植が完了した以上これは疑いようがないわ。では、彼女の『死体』は何処へ行ったのか? 消去法で考えていくと可能性は一つに絞られる。すなわち、『レイの体を乗っ取った使徒がエントリープラグから脱出した』…… 脱出の方法は……まあ、ディラックの海でも使ったと推測するしかないわね」

 「ちょ、ちょっと、じゃあ私達のところに来たのは……」

 慌てるミサトを制してリツコは続けた。

 「では、"彼女"はなぜここに来た……もしくは戻って来たのか? 使徒がなぜここに来るか……ミサトにももうわかってるんでしょ?」

 黙って首肯するミサト。彼女の脳裏をターミナルドグマの底にあった"巨人"の姿がよぎる。

 「ここから考えると先の結論に矛盾が生じるわ。もし彼女が使徒だとすればここで油を売ったりせずに脇目も振らずにターミナルドグマの底を目指すはず……にもかかわらず"彼女"は"綾波レイ"の振りをしてまるでレイの遺言を配って歩くような真似をしている……」

 "おわかり?"といった感じで疲労の浮いたしかし艶やかな微笑を向けるリツコ。だがミサトは無言で先を促す。つまらなそうに肩をすくめるとリツコは言った。

 「……結論。彼女は16使徒の体を乗っ取った綾波レイ……綾波レイから"魂"を除いた残り……つまり二人目のレイの"記憶"そのもの」

 「……記憶?」

 リツコの表情に自嘲の影が差す。

 「…………表現がちょっと"詩的"に過ぎたかしら……要するに最後の瞬間、レイは使徒の"意思"とも呼ぶべきものを自らの"記憶"でリプログラムした、それが彼女」

 「……"記憶"?」

 「"願望"と言い換えてもいいわよ。記憶を残した事それ自体が意思によるのだとすれば彼女がそれを望んだということだもの……」

 「……"願望"ね……だとすればアタシもアンタもずいぶんと嫌われたものね……だけどそんなこと可能なの?」

 「さあ?」

 「……って、何よそれ!?」

 「私の勝手な想像だもの……でも、説得力はあるでしょ?」

 やにさがった彼女の瞳は、それでもわずかではあったが確信の色がにじんでいた。そしてその色には悲哀と憎悪が微妙な陰影を加えているようにミサトには見えたのである。

 

 

 

 16時05分 NERV付属病院303号病室

 シンジと病室の扉との間にはベッドの向こうからゆっくりと歩いて回り込んで来た『レイ』が立ちはだかっている。彼の背後は壁。左手にはアスカの病床が据えられ、右手には空間が広がっているもののそちらに避けたとしても出口があるわけでもなく問題の解決には何ら寄与しない。

 遮光カーテンの隙間からもれてくる光だけが照明の薄暗い部屋の中で、開け放たれたままの扉を背に逆光の中立つレイの瞳が淡く紅く光っている。シンジが視線を泳がせると、病床のアスカの何も捕らえてない瞳が碧く光っているのが見える……自分の方を向いていないにもかかわらず、射すくめられているような気がする。

 シンジは追い詰められていた。物理的にも心理的にも……

 

 「……碇君がアスカを選んだら……」

 レイの瞳には妥協を許容する要素の微粒子すらも存在していない。

 「レイは……"私"は……救われない」

 「そ、それって……」

 語尾が弱々しくも続きそうなシンジの科白を遮るようにしてレイ。

 「私には碇君しかいないもの……」

 「……だって……」

 何か言いかけたシンジを制してレイは言葉を継ぐ。

 「『生きてさえいればよかったと思える事がある』のでしょう?」

 「……!!」

 第5使徒との戦いの後、エントリープラグから救い出したあの時のレイの笑顔がシンジの封殺されつつある記憶と頑迷に閉じようとする自意識とを叩いた。

 「……だから今、私はここにいるの」

 「と、父さんは……?」

 もし相手がレイではなくアスカであれば確実にキレるであろう愚問を口にするシンジ。無論、レイであればいいというわけでもないのだが。シンジとてこの質問が愚問である上に彼女に対して失礼であるということは心の隅にかろうじて残っていた冷静さが指摘するところではあったが、やはり彼にとって父、そしてその父に笑顔を向けていた彼女の真意は無視し得るものではなかった。

 「……あの人は……」

 人を小馬鹿にしたような薄い笑みに、ほんのわずかではあったが翳がさす。

 「……"私"である必要……なかったから……」

 「……必要?」

 レイの言葉を反芻するシンジ。だが、彼女は彼に冷静に理解するだけの時間を与る事はしなかった。

 「……だから"私"には碇君しかいないの」

 「……でも……」

 「……碇君が手を差し伸べてくれたから……」

 「……あの……」

 「……私はここにいるの」

 「……でも……」

 一歩踏み出すレイ。

 「……碇君」

 押し黙ったまま、より正確を期するのであれば何も言うことができないまま、我知らず一歩後ずさるシンジ。無表情な彼女は確かに彼を圧していた。

 「……"私"を助けて」

 口を2、3度ぱくぱくと開閉させたが、結局何も言えないシンジ。彼の意識の中ではレイの真贋の区別は完全に吹き飛んでしまっており、目の前に立つアラバスターの少女こそが"綾波レイ"に関する思考の首座を閉めていた。

 「……碇君……」

 その白くたおやかな指を口元に寄せ舌を這わすと、そのまま腕を伸ばしシンジの首筋に添え這わせるようにして右下顎を包み込むように押さえる。這わされた指の冷たさにシンジは身をすくませた。足もすくんでしまったのか恐怖を感じつつも逃げ出す事すらかなわない。

 「……お願い……」

 自らも歩き出すのと同時に腕を引き彼の顎を引き寄せる。緊張と恐怖とで動く事もままならないシンジの頬にレイは口元を寄せる。

 「……私を選んで……」

 「……!!」

 「……アスカではなく"私"を……」

 「……あ……あやな……み……」

 空いていた方の腕をシンジの背中へと伸ばし、彼を"搦め取る"ように抱きすくめる。頭の中が真っ白になって思考のまとまらないシンジ。その一方で、彼の腕はおずおずとではあるがレイの背中へとまわされ、催眠術にでもかかったかのように口元はレイの唇へと寄せられる。だが……

 レイの唇がすぐ目の前に迫ったその瞬間、視界の一隅に碧い光輝を見る。呪縛が解けたシンジがその方向へと首を巡らす。

 「……!!」

 

 碧い双眸

 

 つい先程まで焦点のあわない視線を天井に固定していたはずのアスカが、その視線をシンジの方に向けていた。

 

 「……ア……アスカ……」

 

 その瞳にはまだ知性の光は宿っていなかったが、確かにシンジを捕らえている。まるで人形のように意思も感情も感じさせない無機質な瞳であったが、それだけにシンジに与えた影響は大きかった。

 

 「……ア……」

 

 瞬きすらしない碧い双眸がシンジを貫く。

 

 「…………」

 

 レイに抱きすくめられたまま、それでもアスカの碧い瞳から目を離すことができない……

 

 「…………ウ…………ウワアアアアアアァァ!!」

 

 音程の狂った叫び声を上げてシンジはレイを突き飛ばす。床に腰からたたきつけられるレイ。反動でよろけたシンジもアスカの腕へと導かれていた点滴の台を蹴倒した。砕けて床に中身のツッカー(*1)が撒き散らかされる。

 よろけて壁に背から倒れ込むシンジに、床に座り込んだまま顔を上げないレイが静かに尋ねた。

 「……それで、どちらを選ぶの? ……私? それともアスカ?」

 「…………そんな……選べ……ないよ……」

 シンジはきつく目を閉じたままどうにか絞り出すようにして拒絶する。

 「……もし碇君が……」

 顔を伏せたままレイ。心なしか声が冷たくなっている。

 「……選ばなければアスカも"あの子"も救われないわ」

 「…………」

 「……もし、そんなことになったら……」

 ゆっくりと首を上げたシンジは、上目で自分を睨みつける紅い双眸に捕らえられた。その鋭さ、あるいは苛烈さは彼に目を逸らす事を許さない。

 

 「……あなたを憎むわ……絶対に許さない…………」

 

 しばらくの間呆然としていたが、彼女の言葉の意味を理解した瞬間シンジの背筋を冷たいものが走り下りた。蒼白な表情で壁を伝うようにしてレイに背中を向けないようにそろそろと扉のほうへと歩いて行く。この間、レイはシンジから視線を外そうとしない。

 

 扉に達したシンジは二度と振り返ることなく脱兎のごとく飛び出していった。

 

 

 シンジの足音が聞こえなくなってはじめて『レイ』は立ち上がった。黙ってスカートについた埃を払うと、アスカのベッドサイドに立つ。

 未だにシンジが立っていた場所に光のない視線を向けたままのアスカ。レイは薄く笑ってアスカの首を元どおり戻してやり、言った。

 「……ごくろうさま……これだけやれば碇君も"自分で考え"て"自分で決めて"くれるわ……」

 焦点の合わない視線を天井に向けるアスカは答えない。だが、『レイ』は何かを感じ取ったようだ。

 「……不満? だったら早く起きて碇君を追いかける事ね…………"あの子"は私よりも強敵になるわよ……」

 クスクスと一頻り笑ってから表情を引き締めると、開いたままの扉に向かって言った。

 「…………碇君、"私"はここでお別れなの……さよなら……」

 微かに苦いものを含んだ悲しげな笑みを浮かべると、『レイ』は部屋の暗がりに融け込むようにして消える。

 あとには、物言わぬアスカだけが残された。

 

 

 

 16時50分 赤木リツコが検束されている部屋

 黙り込み項垂れて椅子に座り込むリツコ。触れられたくない胸の内をぶちまけたからなのかあの後、精神に失調を来して10分近く見ている方が悲しくなるくらいに笑いつづけたリツコであったが今は落ちついているようだ。

 そしてそんなリツコを黙って見下ろしているミサト。彼女の心の内は複雑である。

 

 ミサトはリツコに対して憎悪を抱いた。否、むしろ憎悪せざるを得ないというのが本当のところである。

 ミサトはそのきっかけと目的はともかくとしても、自分のしてきた事に誇りを持ってきたつもりである。仮に司令碇ゲンドウの思惑が明るい未来とは対極に向かうものであったとしても、僚友達の行動の向かう先がどんなものであれ、彼女自身は自らの行為を"正しいもの"と認識していた。少なくともそう思い込もうとはしていた。

 だが、リツコが彼女自身の憎悪で自らの行為を否定してみせたことは、同時にミサトに彼女自身の欺瞞を突きつける形になった。ミサトにとってリツコの没落は『あなたも私と同じなのよ』というメッセージにほかならなかったのである。

 ゆえにミサトはリツコを憎悪せざるを得ない。そうしなければ自分を立場的にも精神的にも守れないばかりか、チルドレン達に強いてきた犠牲すらも無駄なものになってしまうから…… リツコや『レイ』に何と言われようが、チルドレン達を守る事こそ"現在の"ミサトにとっては本来の彼女のなすべき事からも、また彼女の精神衛生上も最も重要な事なのである。

 

 だがその一方で、抱いた憎悪と等量等質の同情と憐憫もまた存在していた。結局のところミサトはどんなに言葉を飾ったところで自分がリツコと五十歩百歩であると見なしていたから。他人が聞けば否定するだろうが、彼女自身はそう信じていた。

 

 

 肺の腑が空になるほどの大きな溜め息をつくミサト。そして言った。

 

 「……リツコ……アンタ、死んじゃいなさいよ」

 

 ミサトは、あるいはその科白の半分は自分に向けていたのかもしれない。

 

 

 

 17時10分 病室から地上へのエレベーターへと続く廊下

 人気のない広い廊下に軽い足音が響いている。

 息を切らしてシンジの姿を探し求める白皙の少女、綾波レイ。自分の中の記憶とシンジとから逃げ出した彼女であったが、結局心の内のシンジを求める気持ちを偽ることができずに戻ってきたのである。

 もっとも、シンジに会ったとして何を話せばいいのか、どうしたいのか、何ら考えがあるわけではないのではあるが。

 

 「キャッ……」

 「ウワッ……!」

 廊下の突き当たりを曲がったところで誰かと出会い頭にぶつかった。その相手も走ってきたらしくレイを突き飛ばしたうえで自らも派手に転ぶ。

 

 「……碇君?」

 最初の問いかけは確認の問いかけ。

 ゆっくりと起き上がったレイは、目の前で彼女同様に起き上がろうとする少年の姿を見て声を上げる。彼女自身、心拍数が上がるのを感じた。相手が探していた少年であったから。

 

 「……碇君?」

 二度目の問いかけは少年に対する呼びかけ。

 三人目としてここに来て以来、少年は自分に対してずっと優しく接してくれた。何をすればいいのか、何を言えばいいのかわからない、でもシンジが気になってしかたがない彼女としては、彼が何らかの行動を示してくれる事に期待したのである。

 

 「……碇……君?」

 三度目の問いかけは不審と不安の呼びかけ。

 レイの声を聞いたシンジは彼女の望んだ優しい笑顔ではなく、蒼白な恐怖をその表情に浮かべた。レイは不審と不安を感じる。

 

 「……あ……やな……み……」

 後ずさりながらシンジ。わけがわからずに呆然と見つめるレイの前でシンジはいきなり頭を下げた。

 「……あの、ごめん!

 「……碇君!?」

 「ごめん!!」

 シンジの脳裏にはつい先程までのアスカの病室での出来事が駆け巡っていた。

 迫られた選択。そして出せない答え。

 切羽詰まったその時のシンジにとって二人のレイは完全に重なって見えていたのである。

 

 

 彼女から、そして何より迫られた選択から脱兎の如く逃げて行くシンジの後ろ姿を呆然と見送るレイ。無論、彼女にはわけがわからない。そしてわけがわからないが故に喪失感とそこから起こる悲しみは大きく、床に座り込んでいた彼女の瞳から流れ落ちる涙はしばらくの間止まることがなかった。

 

 

第六日目に続く                

 

 

注釈

 

*1 ツッカー(Zucker):ドイツ語 ブドウ糖のこと。普通、ブドウ糖に別の薬剤を混ぜて点滴として投与するが、とりあえず点滴をする場合、例えば点滴が無くなりそうになって次に投与する点滴が用意できてない場合においては、ブドウ糖単体をとりあえず投与したりするがこれを『ツッカーを単身でつなぐ』と言う。


Please Mail to 桔梗野聡視 <asj1117@mail.interq.or.jp>



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Received Date: 99.6.13
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