魂の自力救済
〜レイ、心の逍遥
written by 桔梗野聡視
第二日目(後編)
22時30分 ジオフロントのゲート
シンジとレイが並んでゲートをくぐる。シンジはふと夜空を見上げる。よく晴れた群青の夜空に満月にはやや欠ける月が輝いていた。明るい月が足元に創り出す淡いがくっきりと輪郭のわかる影を見つめながら、二人は会話するでもなく歩いていく。
健康診断それ自体はそれほど時間のかかるものではない。普段であれば、よほどリツコがごねても3時間程度でおわるものである。にもかかわらず、この日二人が開放されたのは健康診断開始からおよそ12時間後のことであった。
リツコのせいである。というのも、全ての検査項目を定めてそれらを全て把握していた彼女の不在が一因ではあったが、主たる原因はリツコがレイに関する資料を全て破棄していた事にある。おそらくは激情から憎しみと共に『破壊』したのだろう。
現場を見ていたシンジはそのあたりを理解していたため不思議とは思わなかった。レイはもとからすべてをわかっていたのか、それとも何も気にしていないのかただただ無表情にマヤのすることを眺めるのみであった。リツコの感情を知らない、あるいは理解できないマヤだけが「なぜ先輩はこんなことを……」という甚だ建設性を欠く疑問を連発しつつ、比較検査に必要なデータを求めてMAGIにプールされていた膨大なバックアップの中をさまよっていた。結果、満足にデータを揃えることもできないまま時間ばかりを空費してしまい、11時間を経過したところでミサトによる中止の指示が出たのである。
「お詫びに食事をおごる」というマヤの申し出を謝辞し(レイはすげなく断っただけであったが)、今日も本部に詰めるというミサトを残し、シンジとレイの二人は本部から地上へと戻ってきたのであった。
すぐ傍らを歩くレイの横顔を盗み見るシンジ。月光に照らされた白皙の彼女は素直に美しいと思えた。シンジは月を見上げてレイに言うでもなくぽつりとつぶやいた。
「明日は満月だね……」
22時45分 NERV付属病院401号病室
彼女は焦点の合わない双眸で天井を見上げていた。
意識して見上げていたわけではない。目を開けて横たわっていたので必然的に天井を見上げる事になったにすぎなかった。目は天井を捉えてはいたが、意識は何も捉えていなかった。だから同様に、巡回に来た看護婦のリノリウムの床を踏むパンプスの靴音が遠ざかっていくのを彼女の耳は捉えていたが、彼女の意識は捉えていなかった。
実用一辺倒で何の飾り気も無い病室の中央に据えられた、愛想の無い白いベッド。精神障害を患っているため、また彼女の『立場』のため病室は個室である。窓は患者に不必要な刺激を与えることを避けるため、厚いカーテンで遮られている。もっとも、開いていたとしても窓の外にはジオフロントに広がる地底湖しか見えなかったが。
抑えられた光量と徹底した防音。外的刺激から遮断されたこの部屋は、治療には最適な環境かもしれないが、健常人からすれば気が滅入ることこの上ない。実際、朝方様子を見に来た日向は医師に対して本当にこれでよいのかと念を押したほどだ。
だが、現在のこの部屋の住人には多少の環境の差異など問題ではなかった。彼女は自ら外部からの干渉を拒絶し、また自らの存在をも否定しようとしていたのだから。
ゆえに、目の前に紅玉の瞳を持った少女が現れた事に対しても、彼女は全くの無反応だった。
扉が開いた気配は無かったにもかかわらず、部屋の隅の暗がりから歩み出たレイは、ベッドの脇に立つと無言で彼女を見下ろす。うっすらと浮かべた美しい笑みがこの際はむしろ無気味に思えた。
「…………」
空ろに開かれた碧玉の瞳にはレイの姿が映っているはずだ。だが、彼女はただただ空ろにレイを見つめるだけである。いや、本当は見てすらいないだろう……
しばらくの間、そのまま彼女を見つめるレイ。だが、いくら待っても反応がないことに溜息を一つつくと、そっと手を伸ばし横たわる彼女の肩に手を置く。
その瞬間、赤い髪の少女はベッドが軋むほどに大きく身を撥ねさせた。
22時50分 発令所
ミサトから頼まれた内職……補完計画の真相を探るためMAGIにログが残らぬように細心の注意を払いながら上海経由の情報を解析していた日向は、けたたましい警報にその作業を中断させられた。警報の内容を調べるべく端末に指を走らせる。
「……パターン青、使徒!?」
レイのデータのバックアップを探して、日向と同じように残っていたマヤと顔を見合わせる。彼女の表情は緊張からか蒼白だった。しかしそれは無理からぬ事で、零号機が欠番で弐号機は就役不能、動けるのは凍結解除されたばかりの初号機のみとあっては不安になるのも当然と言えた。
「か、葛城さんに連絡を……」
「状況は?!」
ミサトに連絡しようとしてマヤが回線を開きかけた瞬間、当のミサトが息をきらして発令所に飛び込んできた。
「パターン青、使徒です!」
「場所は?」
「かなり近いのですが……」
コンソールを叩くオペレーター二人。ややあってマヤが振り返った。
「ジオフロント内、本部付属病院です!」
「アスカのいる病院に?! とにかく病院に連絡……」
不意に警報が止む。
サブモニターに表示されていた警告表示が次々に消えていく。
突然騒然から沈黙に投げ込まれた発令所の面々にとってその静けさはひどく耳に痛く感じられた。
「……何が起こったの?」
ミサトのつぶやきに答えたわけではあるまいが、サブモニターが明滅する。
『人工知能バルタザールより現警報に対する審議が提起されました』
抑揚に欠けた人工音声と共にMAGIの模式図がサブモニターに表示される。点滅する審議中の文字を食い入るように見つめる発令所の面々。
『……可決。本決議に基づき現警報は誤報と判断され、本件に関する記録は一切が消去されます。全システム通常モードに移行……』
さっさと通常モードに戻ってしまうMAGIを前に途方にくれる発令所の面々。彼らの気持ちを代弁するかのようにミサトが誰へとなくつぶやいた。
「一体何がどうなってんのよ……」
22時55分 NERV付属病院401号室および惣流・アスカ・ラングレーの精神世界
目を閉じて何かを探るようにしていたレイは、やがて満足げに顔を上げベッドの上の彼女を見る。
ベッドの上で体を仰け反らせるアスカ。そのアスカの肩に手を置いているレイ。レイの手が接触しているあたりが微かに腫れ、たちまちその腫れは放射状に伸びていく。アスカの口から苦悶のうめきがもれる。彼女は目を一杯に見開いていたが、その瞳は焦点を結ばず、レイの姿を捉えていない。
(汚された……私、汚されちゃった……)
何も無い……果てしなく何も無い空間にアスカは独りぽつんとひざを抱えて座っていた。何も知覚できない混濁した空間は、あるいはアスカの精神状態を反映したものだったのかもしれない。
(汚された私なんか誰も見てくれない……)
彼女の何も映さない瞳は抱えた膝を凝視している。それこそ穴が開きそうなほどに。
(誰も私を見てくれない……見てくれない……見てくれない皆はキライ……キライ……キライ、キライ、キライ、キライ!、キライ!!、大ッキライ!!!)
不意にカクンとうつむいく。
(シンジはキライ……私の価値を壊すから)
(ミサトもキライ……私を助けてくれないから)
(リツコもキライ……私を認めてくれないから)
(加持さんもキライ……私を捨てたから)
(ヒカリもキライ……汚れてないから)
(ファーストもキライ……人形だから)
震える手のひらを握り締める。
(だから私は独りでいいの……独り……独りはイヤ……独りはイヤ!……独りはイヤ!!……独りはイヤァァ!!……絶対にイヤァァァァ!)
両手で頭を抱えて髪を振り乱すアスカ。
「では、なぜあなたはここにいるの?」
弾かれたようにアスカが顔を上げる。そこには笑みを浮かべたレイが彼女に紅い瞳を向けていた。
(……ファースト)
「独りは嫌なんでしょう?」
(なによ! 私を笑いに来たの? 笑いに来たのね!? 笑いに来たんでしょう!!)
不当な難詰を受けたレイはそれでも気を害した様子も無く静かに微笑んでいる。アスカの表情が微妙にこわばった。
(アンタ誰よ……?)
「綾波レイ」
(うそよ)
「なぜそう思うの?」
(ファーストは人形だもの……そんな風に楽しそうにしたりしないわ)
「私は綾波レイ……人形じゃないわ」
(アンタは……アンタなんか人形よ!……碇指令に死ねと言われれば死ぬような人形よっ!!)
「私は私自身の意思によってここに存在する。私は人形じゃないわ」
(違う!! アンタは人形よ!! 人形なのよっ!!)
両手で耳を塞いで髪を振り乱すアスカ。彼女の口調には迫るような、それでいてすがるような響きがあった。そんなアスカを見ていたレイがぽつりとつぶやく。
「……そう、あなた私が羨ましかったのね」
(えっ?)
顔を上げたアスカの瞳をまっすぐに見据えてレイは続ける。
「誰かの……あの人の人形に見えた私が羨ましかったのね?」
(な、なにを言ってるのよ?)
「あの人に人形として必要とされている……人形として存在する限りあの人から必要とされつづける私が羨ましかったのね?」
(違う! 私は人形になんかなりたくない!! 私は独りで生きるの!!)
「独りは嫌なんでしょう?」
(……グッ)
言葉に詰まったアスカにレイは指差した。
「あなたは人形にこだわっている……ほら、その通り」
(ヒッ……!)
アスカは自分が人形を……実母が死の間際まで持っていた首の折れた人形を抱いている事に気づいた。小さく悲鳴を上げるとその人形を投げ捨てる。
「あなたはあの人形を恐れている」
(……イヤ)
「それとも恐れているのはあの人形の持ち主?」
(ヤメテ!)
「あなたはあの人形に自分の姿を映していたのでしょう?」
(聞きたくない!)
「あの人形の運命が怖かったのでしょう?」
(勝手に人の心を覗かないで!!)
「だから、独りで生きたかった……誰かに認めて欲しかったのね?」
(私の心を覗かないで!! お願いだから心を汚すのはヤメテ!!)
嗚咽するアスカ。見下ろすレイの瞳には憐憫の光が宿っている。人形を拾い上げるレイ。人形の折れた首がもげて胴体と離れた。
「……あなたは大切なことを忘れている」
アスカは答えない。
「人は確かに他人によって自らのカタチを知覚するわ。でも、最初に『自分』が存在しなければ誰もあなたを認識できない……」
低く嗚咽し続けるアスカ。
「あなたはあなたの心の中に鏡がある事に気づいていないの?」
(…………)
「私はその鏡の存在に気づいて人形であることを止めたわ」
(…………)
「……それとも、あなたの鏡はもう割れてしまったの?」
(…………)
大きなため息をついた。
「さびしかったのね、あなた……私が羨ましくなるほどに……あなたにとって私の存在は『自らに欠けた部分への羨望』だったのね……あなたにとって私の存在は意味のあるものだった……ならば、いいわ」
踵を返して立ち去ろうとするレイ。数歩歩いたところで立ち止まり振り返る。そして言った。
「……さよなら」
アスカの意識野からレイが消えた。
(…………!)
まず最初に憎しみが、ついで悲しみが、そして痛みが、最後に屈辱がアスカの体中を駆け抜けていく。
ベッドの上で人間とは思えないような意味の無い悲鳴をあげながら頭を抱えてのたうち回るアスカ。レイはその様子を肩越しに見ていたが、やがてもと来た通り部屋の隅の暗がりに歩み寄り、やがて彼女の気配は消える。入れ替わりに異常を聞きつけた看護婦の駆け足の足音が近づいてきていた。
23時30分 レイのマンション付近
コンビニの小さなビニール袋を手に下げたシンジとレイが歩いている。袋の中身は晩御飯。コンビニに寄るというレイにシンジが付き合ったのである。
じっと足下を見つめて歩くレイの横顔をシンジは見ながらシンジは考えていた。
(綾波……ほんの数日前まで僕は綾波が怖かった。僕を知らないと言う……三人目と名乗る彼女が怖かった。)
(僕を否定する綾波が怖かった……)
phobia
(今だって綾波は僕のことを思い出してくれたわけではない。でも、今は怖いとは思わない……そばにいたいとさえ思う……)
attitude chane
(僕っていい加減なのかな……でも、綾波が笑ってくれたんだ……)
inferiority complex
(僕は綾波のそばにいたい!……)
Anima
(それともこれは寂しい僕の逃げなのかな?……)
discrimination
(綾波を誰かの代わりに見ているのかな……)
substitute behavior
(こんな僕がそばにいることを綾波は許してくれるのかな?……)
"Do you love me?"
考え込むシンジはうつむいて歩いていた。だからレイが深刻な表情で考え込む彼を不思議そうに、そして心配そうに見ている事に気づかなかった。
23時35分 レイの部屋の前
結局、会話の無いまま彼女の部屋の前にたどり着いてしまった二人。
「あの、それじゃあ綾波、おやすみ」
名残惜しげに挨拶するシンジ。レイは小さくコクリとうなずくと言った。
「また……明日……」
「……! うん! また明日ね。それじゃおやすみ、綾波!」
レイの台詞の意味が一瞬わからなかったシンジだったが、その意味に気づくとうれしそうに挨拶をして軽い足取りで帰って行った。
レイはシンジの背中が見えなくなってもなお彼の帰っていった方向を見詰めていた。
(「また明日」……私、なんでこんなこと言ったの? 私は碇君の事を知らない……知らないはず……そして私は碇君の知っている綾波レイじゃない……私、期待してるの?……期待?……何を、期待しているの?)
第三日目前編に続く
Please Mail to 桔梗野聡視 <asj1117@mail.interq.or.jp>
第二日目前編へ | Contributions | 第三日目前編へ |
Top Page |