魂の自力救済

     〜レイ、心の逍遥

                    written by 桔梗野聡視


 第三日目(前編)

 5時30分 NERV付属病院ICU(集中治療室)

 ミサトはきつい目つきでそのガラス越しの光景を眺めていた。

 様々な機械に接続されたベッドの上で狂ったように暴れるアスカ。そのアスカを取り押さえるべく2人の医師と5人の看護婦がベッドを取り囲み、彼女の暴れまわる手足と格闘している。医師の持っていた注射器がアスカの手に叩かれて弾き飛ばされ、ミサトの目の前のガラスにぶつかって割れた。飛び散り流れ落ちる薬液に歪んだ視界の向こうで、時折医師達の隙間から垣間見えるアスカが何かを叫んでいるのが見える。厚い防音ガラスに阻まれて声は届かなかったが、何と叫んでいるかは解っていた。

 

『ファースト!』

『人形!!』

『勝手に心を覗かないで!!!』

『私を殺さないで!!!!』

『ママ!』

 

 それは、アスカが401病室からICUへ運ばれる間中ずっと叫んでいた言葉。ストレッチャーの後について来たミサトはそれをずっと聞いてきたのだ。両手をガラスにあててじっとアスカを見詰めるミサト。その視線は真摯で一種鬼気迫る迫力があり、看護婦達は恐ろしさおぼえて背後を振り返る事ができなかった。

 「葛城さん」

 日向の呼びかける声に無言で振り返るミサト。

 ファイルを軽く掲げる日向。

 「大体の事はわかりましたよ」

 無言で先を促すミサト。日向はファイルをめくる。

 「施設部のログによれば昨日の22時45分から23時15分の間にアスカ以外の反応が残っていました。……パーソナルはレイと一致しています。ただ、ここの施設は扉の開閉のデータは採っていませんのでそっちの記録はありません」

 「……」

 「担当看護婦の証言では巡回が22時30分にあり、アスカの病室は45分頃観たそうです。その間、誰にも会っていないそうですからレイが廊下から来たというのは考えにくいですね」

 「……」

 「あの……葛城さん、病棟で何かあったんですか? 僕が作戦部の人間だと名乗ったら詰所にいた看護婦さんがみんな怯えた表情になってましたけど……」

 

 実はミサトは詰所で報告を受けた際、病棟責任者と保安部の担当者を殴り倒しているのである。偽レイの侵入を許した事が問題だったのではない。あの拘置室に侵入しているのだ、それよりもガードの甘い病室に侵入することを阻止するのは困難だろう。だから、その事に関してミサトは何も言わなかった。問題だったのはミサトへの報告が遅れた事である。取り乱したアスカが発見されたのが23時30分。ミサトの所に報告が回ってきたのが4時30分だった。この5時間の間に何があったのか……

 医局側はアスカの異常に気づいた時アスカ専属の担当医が席を外しており宿直医も偶然いなかったため、とにかく急を要する事態であったということもあって看護婦が応急処置をしたのであった。ただこの時、看護婦はアスカのあまりの様子に動転して塩酸クロルプロマジン(*1)を倍量で投与してしまったのである。戻って来て報告を受けた担当医が蒼くなった様は想像に難くない。急遽胃洗浄の手続きが取られた。ただ、精神的に混乱し、肉体的に衰弱しているところに急を要するという事で強引な胃洗浄である、この負担がよい影響をもたらすはずがない。その結果のICU入りであった。完全な病院側のミスである。

 保安部の側は、諜報3課への対抗心による。ミサトからレイの監視に対して「現状維持」の指示を青葉を通じて受けた諜報3課であったが、独断でレイの監視を強化したのである。その際、必要人員をアスカの警護人員から充て、不足を保安部に肩代わりさせていたのだ。保安部としては、殊チルドレンに関しては諜報部から「縄張り」を荒らされていると言う意識があったため、また諜報3課が正確に引き継ぎをしなかったため、作戦部にも事実を伏せたまま独力で解決を図り、医局からミサトのもとへ連絡が行くまで時間を空費していたのである。弁解の余地はなかった。

 

 「……たるんでるわね、どこもかしこも」

 とっさには意味がわからなかった日向であったが、すぐにミサトの言わんとした事を推察する。

 「まぁ、どこも大変ですからねぇ。地上もああなってしまって仕事量が全部署で跳ね上がってますし、人も不足してますから……あのアスカへの投薬の量を間違えた看護婦さん、昨日正看に上がったばかりだそうですよ」

 一瞬、遠い目になるミサト。

 「……そうね、ウチ(作戦部)のせいね……私がもっとしっかりしてればこうはならなかったかなぁ……」

 「葛城さん……」

 沈黙する二人。ややあってため息をつき肩をがくっと落とすミサト。

 「ま、嘆いたってどーしよーもないわね……昨日のレイの足取りは?」

 ファイルをめくる日向。

 「オリジナルの方ですか?……この”オリジナル”っていう呼び方も変ですね。ええと、昨日はゲートを出た後はコンビニに寄ってそのまま帰宅しています……マンションまでシンジ君が送っていますね。それ以降は……僕が受け取ったのは午前3時までの報告ですが、動きは無いそうです」

 「そう……青葉君は?」

 「事後処理に走り回ってますよ。諜報3課に巻き込まれたわけですから、彼は」

 「ふぅん……マヤは?」

 「リツコさんの後始末です……ほら、リツコさん、レイのデータを破棄してしまいましたから……」

 「ああ、なるほどね」

 これ以後の調査の指示を出して日向を下がらせる。ミサトはちょうど中から出てきた医師を捕まえると無表情に言った。

 「報告書、午前中に提出すること。それと、この件に関しては一切他言無用。カルテからも削除しておいてください。いいですね?」

 先ほど殴り倒された事がよほど効いたのか、震えながらがくがくと首を縦に振る医師。ミサトはなおいっそう目を細くする。

 「絶対に他に漏れないように徹底してください……それからカルテを含む彼女に関する記録を一旦作戦部で押収します。後ほどお返ししますので」

 医師が蒼白な表情で小さく頷くと、不意に笑顔になるミサト。

 「じゃ、よろしく」

 そのまま背を向けて歩き出す。背後で響いた音は、医師が崩れるように座り込んだ音である。

 

 

 数歩歩いたところでミサトは誰かに見られているような気がして振り返った。

 気のせいか、廊下の突き当たりを何か青緑色の物が翻るのを見たような気がする。第壱中学女子生徒のスカートにも見えた。

 「……?」

 リノリウムの床を鳴かせながら廊下を突き当りまで歩いて行く。静かな廊下には意外なほどに足音が響く。

 「……レイ?」

 左側の廊下突き当たりの角に少女が消えていこうとしている。薄暗くて確信は持てなかったものの、かすかに見えた彼女の髪は水色にも見えたように思う。

 早足で廊下を進むミサト。だが、意外に距離がある事に焦りを感じて途中から駆け足になった。軽く息を切らせながらも突き当たりに達し、少女の消えた左に首をめぐらす。

 「……って、ええっ!?」

 淡い赤い光を浴びてミサトは立ち尽くす。

 彼女の前には壁に埋め込まれた防火栓があったのみだからである。当然、通路など無い。

 呆然として警告灯の横の壁をぺたぺたと触ったりする彼女の姿は……間抜けだった。

 

 (……クスッ)

 笑い声を聞いたような気がして振り返るミサト。だが、彼女の視界の範囲内に人の気配は無い。彼女の背後には延々と薄暗い廊下が続いているばかりである。

 

 

 

 6時10分 レイの部屋

 眠っていたレイが、突然薄いシーツを跳ね上げて半身を起こし周囲を見まわした。

 うちっぱなしのコンクリートの壁。背の低い冷蔵庫。その上に置かれた水が半分ばかり満たされたビーカー。彼女が横たわっていた粗末なパイプベッドには血の痕の残るシーツ。黒いカーテンのあちこちに開いた鉤裂き穴からは、日の出にはまだ少し早い朝の光が洩れている……

 彼女の他には誰もいない、いつもと同じ殺風景な部屋。

 だが、彼女はつぶやく。

 「……誰?」

 (……誰かが……笑ったような気がした……違う、呼んだの?……私を……誰?)

 ベッドから立ちあがる。

 (……私に近い感じ……碇君?)

 傍らの冷蔵庫の上の鏡が視界に入る。その中にはぞっとするほどに無表情なレイがいた。

 (……違う……碇君じゃない……もっと私に近い……イヤな感じ……)

 鏡の中のレイがかすかに目を細める。

 (……私じゃない私……たくさんいる私……イカリクントチガウワタシ……)

 うつむくレイ。

 (……心がザワザワする……イヤ……)

 

 ふと、まぶしさを感じて顔を上げる。カーテンを一挙動で開けると、ちょうど台ヶ岳の頂きから朝日が昇るところだった。レイの格好は、普段の就寝時と同じ下着姿。剥き出しの白い肌を朝日が輝かせる。それは神々しくさえ見えた。まぶしげに手を翳すレイ。彼女は少しだけ気分が軽くなった。

 

 (……『私に近い感じ』……なぜ、私、碇君だと思ったの?)

 軽く目を閉じる。

 (……碇君……私は知らないヒト……私は三人目……でも……)

 目を閉じたまま少し上を向く。喉の白さが艶かしい。

 (……碇君といるときもちいい……まるで水の中にいるみたい……私のカタチを造るモノ……イカリクン……)

 再びうつむくレイ。寂しさを宿した紅い瞳を細め、自分の剥き出しの白い肩を抱きしめる。

 (……心が『痛い』……『寂しい』? そう、これが寂しいという気持ち……私、寂しいのね……)

 (……なぜ、寂しいの……)

 (……わからない……でも……)

 (……あなたならその答えをくれる?……)

 (……碇君……)

 

 

 

 6時20分 発令所

 モニターを流れていく情報を目で追っていたマヤは思わず周囲を見まわした。

 日向はミサトのもとへ行っていて不在である。青葉は諜報部の事後処理に走り回っておりここにはいない。司令と副指令は松代だし、ミサトは本部付属病院に、そしてリツコは行方不明で、オペレーター席より上にはマヤしかいない。オペレーター席から身を乗り出して下を見るとMAGIの維持に必要な最低人員しか詰めていない。いずれにせよ発令所内にマヤの行動に不審を抱く者はいなかった。それでもなおゆっくりと周りを見まわしてからモニターに目を移す。

 「……なに……これ……」

 もう一度、斜め読みしてみる。

 正規のファイルではない。恐らくはワープロソフトが造ったと思われる一時作業用テンポラリファイルの消し忘れ。端末ないしソフトの強制終了か、もしくはLANからの強制的な切断かそういった理由で残ってしまったのだろう。こういった所、MAGIもLANサーバーとしての能力は一般とそれほど変わるところはない。

 マヤは悟らざるを得ない。これは、部外秘の危険な文書だと。だが、無視する事もできない内容であった。

 多分、ミサトの書いたものであろう。このあたりで文章を書くのにワープロソフトを使っているのはミサトだけだ。他はエディタを使う。内容から考えて、碇司令への報告書の草稿かもしくは複数提出されてきた報告書を適当に一つにまとめたものだろう。

 一瞬の躊躇の後、意を決して自分のノート端末を取り出す。次いでリツコが普段から発令所に置きっぱなしにしている私物の中からシリアルケーブルを取り出した。コンソールの補修用端子とノートをシリアルケーブルで接続する。普段は全施設をカバーする無線LANを利用しているため、このノートのシリアルポートを利用するのはこれが初めてだった。

 目的のファイルをいったんコンソールのキャッシュにスワップさせて、キャッシュバッファからメモリ直結の補修用端子経由で彼女のノートへコピーする。これだけすればMAGIのログに操作が記録される事無くファイルをコピーできる……はずだ。

 (うそ……なんでこんなに遅いの?)

 転送中を表すインジケーターが遅々として進まないのに焦るマヤ。彼女はノーマルのシリアル転送がこれほどまでに遅いとは知らなかったらしい。いつ人が来るかと思うと気が気ではない。彼女の視線がいらいらとノートの画面と発令所入り口を忙しく行き来する。

 視線の行き来の回数がそろそろ両手の指で数えるには足りなくなった頃、ようやくコピー終了を告げる電子音を発した。急いでシリアルケーブルを抜く。慌てたために、コネクタではなくケーブル部を引っ張ったため、コネクタが外れるときに嫌な音がしたが無視する事にした。ケーブルをもとあったところに放り込み、ファイラソフトを終了させる。畳んだノートを胸に抱えほっとして溜息をついたところで扉が開いた。

 「やあ、マヤちゃん、ごくろうさま」

 「……!!」

 後ろめたい気分のところに突然の日向の登場を受けて心臓が口から飛び出さんばかりに驚くマヤ。日向はそんなマヤの態度に驚く。

 「あ、あの、どうかした?」

 「……えっ、あ、あのっ、な、何でもないの……ごめんなさい」

 ノートを両手でしっかりと胸に抱きかかえて立ち上がり、引きつった笑顔を見せる。

 「あ、あの、私、ちょっと出ますね……あと、お願いしますっ!」

 言うだけ言って発令所から飛び出していくマヤ。あとには釈然としない表情で見送る日向が残された。

 

 自動販売機コーナーに駆け込むマヤ。注意深く周囲を見まわし、誰もいないことを確認すると端末を開き、さっきダウンロードしてきたファイルを再度読み始める。

 

 

 

 7時00分 ミサトの部屋

 マーガリンを塗ったトースト1枚。コップ一杯の牛乳。たったそれだけ……

 シンジはテーブルの上の朝食を眺める。食欲が無いわけではないが、一人だけの食事となるとどうしても手を抜いてしまう。よく考えてみれば前日の夕食はコンビニの弁当だった。昼食はNERV本部で綾波と一緒にごく簡単に済ましただけだ。朝食は……食べた覚えすらない……その前の日は……何か食べただろうか……? こんな事では駄目だなと思う。もう少しきちんと食事をしないと身体に良くない。しかし……

 「……はあ」

 ペンペンすらいない食卓の寂しさに溜息をつく。

 ミサトがなぜペンペンを飼うに至ったかシンジにもなんとなく理解できた。だが、考えてみればここに来るまでの彼の生活は、毎日が今のようなものではなかっただろうか?

 『先生』との生活。『不足』は無かったが『満たされる』という事も無かった。特に親しい友達も無く、なすべき事も無い。ただ、毎日同じ事の繰り返し……

 今はどうだろう。

 ばらばらになってしまっていこそいるがミサトやアスカという『家族』がいる。分かり合える事は無いにしても『父』もいる。疎開してしまって会うことができないトウジやケンスケ、委員長……彼らは『親友』と呼んでも差し支えないだろう。そしてNERVへ行けばシンジにしかできない仕事がある。彼は『必要とされていた』。

 現状は表層だけを見れば以前の生活と変わらないかもしれない。だが、実際には全く違う。それに全面的に満足できるかはひとまず置くとしても、今の生活の方が少なくともましだと思う。でも、以前の方がきちんと食事をしていた……

 贅沢になったのだろうか? それとも、一度『満ち足りた』生活(ミサトやアスカの性格に多少釈然としないところがあるにしても)を知ってしまった以上、喪失感もまた大きいのだろうか……?

 

 幸福とは『人間が自らの存在を維持しうる事に存する』

 

 先生は以前このスピノザ(*2)の言葉を教えてくれた。そういうものかもしれない、シンジはそう思っていた。だが、現在の彼にはそれで満足する事はできなかった。

 

 パンをかじる。誰もいない食卓でかじるパンのなんと味気ない事か。

 (でも、綾波はいつもこんな生活をしているんだよな……)

 (……綾波……)

 (綾波は独りで寂しくないのかな?)

 (……寂しくないわけないよな……)

 (でも、綾波は自分からは誰にも近寄ろうとしない……)

 不意にシンジはこの第3新東京市に来たときの自分を思い出した。

 (……もしかしたら綾波も僕と同じなのかもしれないな……)

 コンビニから彼女の部屋まで送っていったときに見たレイの笑顔を思い出す。

 (僕がいっしょにいたら綾波は喜んでくれるだろうか?)

 だが、この時シンジの脳裏をダミープラグ生産装置がよぎった。

 (……そんなことは……そんなことは関係ない!)

 (……でも……)

 

 彼には最後の一歩を踏み出す勇気が足りない……

 

 パンの最後の一欠けを牛乳で流し込む。

 「……おいしくないや」

 

 

 

第三日目中編に続く                

 

注釈

*1 塩酸クロルプロマジン:精神安定剤の一種。強力な効果を発揮するも、その副作用も強力で、突発死を引き起こすこともある。

*2 スピノザ【Baruch de Spinoza】: (1632-1677) オランダのユダヤ系哲学者。思惟と延長は唯一の実体である神(自然と同じ)の二属性で,神以外のものはその様態であると,汎神論的一元論を主張。自然の秩序を理解し,感情を統御することで至福が得られるとする。著「エチカ」「知性改善論」など。(三省堂 『ハイブリッド新辞林』)

 


Please Mail to 桔梗野聡視 <asj1117@mail.interq.or.jp>



第二日目後編へ Contributions 第三日目中編へ
Top Page

Received Date: 98.12.31
Upload Date: 98.12.31
Last Modified: 99.2.26
inserted by FC2 system