魂の自力救済

     〜レイ、心の逍遥

                    written by 桔梗野聡視


 第四日目(前編)

 8時30分 作戦部

 オペレーター席に設けられたパネルディスプレイを、日向の椅子の後ろから手を伸ばしてスクロールさせるミサト。日向は気遣わしげにミサトを見つつ、内容の説明をしている。傍目から見てもミサトの顔色は良くない。

 

 昨夜日向達に発見された後、ミサトはそのまま病院へと送られた。日向も保安部も事情を聞きたかったが、ミサトの精神状況が極度に消耗しており、まともな受け答えが困難だったための処置である。この時、ミサトにあてがわれた病室が401病室だったのは、医局側の皮肉だったのかもしれない。結局のところ、点滴の投与と数時間ばかりの睡眠で回復し、発令所へと戻ってきたのであった。もっとも、一番効いたのは、隠し持っていたスキットルで携行していたウィスキーであったのかもしれないが……

 

 「ふうん……カスパーがねぇ……」

 「ええ、この再審議は都合36回にわたって繰り返されました」

 二人が解析しているのはミサトの執務室へ『レイ』が現れていた間に繰り返されたMAGIの奇妙な『再審議』についてである。

 「バルタザールが『賛成』でカスパーが『反対』なのはいいとして、このメルキオールの『棄権』っていうのは何?」

 「36回も堂々巡りをしてくれたおかげで時間が稼げたんで今回はデータをそろえる事ができました。バルタザールとカスパーがメルキオールに対してハッキングをかけていたんです。三基とも基本的に性能が同じですからね、どちらもメルキオールを乗っ取る事ができなかったようです」

 「……つまり、前回はカスパーが反対しなかったからあっさりと結審したと? で、今回カスパーが反対した理由は判ってるの?」

 「残念ながらそのあたりのログは結審と共に消去されてしまいましたので……」

 溜息をつくミサト。

 「……またも真相は闇の中、か……」

 「ところが、そうでもないんです」

 器用に片手だけでファイルを呼び出す日向。新たに開いたテキストのみで構成されたウィンドウを、それまで開いていたMAGIのログのウィンドウと並べて見せる。

 「こっちのは施設部のLANサーバーのログなんですが、ここを見てください。誤報の結審が24時13分06秒。それからこれ、このユーザーのパーソナルがない端末、マヤちゃんが葛城さんに渡したボードです。このボードが強制ログアウトするのが24時12分20秒」

 「……ふむ」

 「それだけじゃありません。アクセスカウントから考えると、カスパーは審議最中ずっと葛城さんのボードにアクセスしっぱなしだったみたいなんです」

 「つまり、カスパーはボードを通じて私と偽レイのやり取りを見ていたと?」

 「いかに人格移植OSとはいえ意思を持っているとは思えませんけど……」

 そう言いつつもミサトの言葉を婉曲に肯定する日向。

 「……カスパーが私を助けてくれてたって事かしら?」

 「それってなんだかメルヘンな感じですね……」

 ふとリツコの言葉を思い出すミサト。

 

 (カスパーには、女としての人格が移植されてたのよ)

 (私達は母娘そろって大馬鹿者だわ!!)

 

 「『メルヘン』か……」

 (……レイへの敵愾心、赤城母娘の怨念……その怨念、まさに『白雪姫』の魔法使いの女王様……苦いメルヘンよね)

 リツコの回想から戻ったミサトが苦いものを含んだような口調でぽつりとつぶやく。日向は不思議そうな表情でミサトを見上げていた。

 

 

 8時40分 技術部

 ノート端末と数枚のボード型端末がマヤの前に散らばっている。

 液晶を見詰めていたマヤは、やがてため息をついてすべての端末の接続を解除した上で、はれぼったい赤い目をこすった。

 「私の力ではここまでが限界か……」

 ミサトの文書ファイルを偶然に手に入れた彼女は、彼女にとって看過しえない情報を手に入れることになった。偽レイの出現とアスカの保護、そしてアスカとリツコが偽レイの『接触』により一時的な危機状態に陥ったという事実である。無論、マヤにとって最大の関心事がリツコに関する部分である事は言うまでもない。ファイルを見つけて以降、彼女が真実を求めようといろいろと動き出したのは自然な成り行きである。しかし……

 (中央サーバーの集中管理区域まで徹夜でハッキングしたというのに何も見つからないなんて……)

 (いつも先輩が他人のメールサーバをハッキングするのに使うキーコードを使ったんだから失敗ということはないだろうし……)

 (……それにここまで関連データが無いなんておかしいわ……葛城さんのレポートって幾つかのレポートの継ぎ足しだったんだからそのデータそのものが残っていないにしても痕跡ぐらいはあるはず……)

 背筋を冷たいものが走ったような気がして軽く顔をしかめるマヤ。

 (気づかれてる? でも、誰に?)

 いずれにせよ、このままハッキングを続けるのは危険であることに間違いはない。マヤは別の手段に手を掛ける決心をする。時計を確認し、受話器を取り上げて短縮ダイヤルを操作する。呼び出し音を聞きながらマヤはぽつりとつぶやいた。

 「私……正しいわよね……」

 

 

 8時50分 ミサトのマンション

 「……9時30に初号機のケージですか? 『臨時検診』って、健康診断なんでしょう? なんでケージなんですか?」

 『ええ……その前に話しておきたい事があるから……その、悪いんだけど……』

 電話の向こうから聞こえてくるマヤのどこか切羽詰った、それでいて歯切れの悪い言葉に、何故かシンジの記憶の中の何かが疼く。

 「……わかりました」

 『突然ごめなさいね。レイちゃんの方にはもう連絡しておいたから』

 「そうですか、わかりました」

 受話器を置いて初めてシンジは引っかかった記憶が何であったかを思い出した。

 

 『あなたのガードは解いたわ。今なら外に出られる……』

 

 先ほどのマヤからの電話とリツコからの最後の電話、別にどこが似ていたというわけではない。だが、何か共通するものを感じていた。そしてリツコと同様にマヤも何かを始めている、シンジにはそう思えてならなかった。リツコの、そしてミサトの『見えない』行動が彼の神経をとがらしていたのかもしれない。

 (それにしても)

 シンジは思う。

 (それにしても、リツコさんはどうなったんだろう……)

 ミサトがマヤに説明したという『出張』という理由が嘘なのは彼にでもわかる。なにしろ彼自身『あの』場に居合わせたのだ。だが一方で無事な事もわかっていた。エヴァに乗っている彼ならばMAGIの重要性は骨身にしみて理解している。だからそのMAGIをメンテナンスできる唯一の人材といってもよいリツコはネルフにとって貴重なはず。リツコをどうこうするような贅沢は今のネルフにはできないだろう。

 (でも……)

 (仮にリツコさんが戻って来たとして一体どんな顔で会えばいいのだろう……)

 リツコに聞きたい事はたくさんある。だが、無論聞くわけには行かない。今、綾波の事を聞くなどリツコに止めをさすようなものだ。

 リツコのした事を考えればシンジには彼女を憎む権利があるだろう。そして、多分リツコもそれを望んでいたに違いない。だが、シンジにはそうするつもりはなかった。

 ただ、それが嗚咽するリツコの背中が悲しかったからなのか、それともその背後のLCL水槽の中で崩れゆくダミーに恐れを抱いたからなのか、いずれなのかシンジ自身にとっても不分明であった。

 

 

 9時00分 作戦部

 「そうそう、それから……」

 MAGIのログファイルを解析しつつ日向は軽い口調でミサトに不平を鳴らす。

 「葛城さん、ワープロソフト使用中は突然端末を落とさないでくださいって言ったじゃないですか、特に繋いでる最中は……」

 不意に声を落とす。

 「……葛城さんがまとめた報告書、マヤちゃんが拾ったみたいなんです」

 「『拾った』?」

 「……要するに、一時ファイルが残ってたんですよ。LANに繋いだまま端末を落としたので作業ファイルがサーバーの方でそのままになってたんです」

 「ゴメン、ゴメン……で、マヤちゃんは?」

 陽気に謝ってから一瞬のうちに鋭い表情になってミサト。

 「サーバーの方をずいぶんと調べて回ってたみたいです。先手を打って関連ファイルは全部別に移しておきましたんで何も掴めてないと思いますけど」

 「よくマヤの事わかったわね」

 「おかしいと思ったんですよ。昨日、マヤちゃんが使ってたボード借りたじゃないですか? でも、MAGIの特別検診や修理でもない限りあんなもの滅多に使うものじゃないですからね。で、調べてみたんです。リツコさんがいつもハッキングに使うコードを使ってサーバーのずいぶん奥まで行ってましたよ」

 「へぇ、日向君、リツコのコードをブロックしたの? やるじゃない」

 「まさか、マヤちゃんが席を外した隙に彼女の端末を調べたんですよ」

 「……危ない真似するわね―」

 はにかんだ笑みを見せる日向。

 「まあ、マヤちゃんもこれで手詰まりになったと思います。これ以上の行動は無いと思いますよ」

 「悪いわね」

 既にこの時点で二人はマヤの行動について誤算をしている。

 

 「『偽レイ』の方はどうします?」

 「……んぁ? そうねぇ……放っときましょう」

 「いいんですか?」

 日向に向かって気のなさそうな態度で手をひらひらを振って見せるミサト。

 「順番からいったら次は司令か副指令でしょ? それともまとめて片付けるかしら? とりあえず報告書は提出したし、それにセキュリティレベル5の司令執務室を私達でどうこうする事もできないでしょ? 必要と判断すれば司令のことだから諜報部なり保安部なりを動かすわよ……」

 (でも……多分動かさないでしょうね……)

 

 

 9時30分 初号機ケージ

 零号機が失われ、弐号機がパイロットの『問題』で起動不能となったこの時点に於いて人類に唯一残された対使徒の切り札、エヴァンゲリオン初号機。そのケージに架けられたアンビリカルブリッジの上にシンジとマヤはいた。

 「綾波も来るんじゃなかったんですか?」

 零号機自爆の際の破損を修理すべく連日続けられていた突貫作業もようやく一段落つこうとしていたが、それでも作業は未だ続けられている。シンジはケージを満たすその騒音にかき消されないように大きな声でマヤに話しかけた。小さなファイルを両手で胸に抱え、すぐ横で彼女達を睥睨する初号機の顔をややうつろにも見える瞳で見上げているマヤ。シンジの声を聞いているのかいないのか……ただ、彼女の表情がやけに悲痛に見えるのにシンジは戸惑いを感じざるを得ない。

 二人して黙って初号機を見上げているわけにもいかず、シンジがもう一度呼びかけようとしたところで、マヤがしっかりとした足取りで彼の方に歩いてくる。

 「……シンジ君」

 その声は決して大きなものではなかった。シンジ一人にかろうじて聞こえる程度の声である。盗聴を警戒しての行為であった。シンジとの『密会』の場所を騒音に満ちたケージに設定したのも同じ理由による。機密にここまで深入りしてしまった彼女としては、もう自分の身の安全を信じることができない。

 マヤの瞳は決意に満ちていた。ただ、その決意が悲痛に裏付けられているように見える事にシンジは不安をおぼえざるを得ない。

 「シンジ君に話しておきたい事があるの……」

 「……綾波には聞かせられないことなんですか?」

 一瞬の沈黙。

 「……誰にも話すことはできないわ、本当は私もアクセスできない部外秘の情報だから……でも、レイちゃんには特に聞かせたくないの……」

 「……」

 そこはかとない嫌な予感に沈黙するシンジ。その沈黙を同意と受け取ったマヤが話し始める。

 

 

 数分後、アンビリカルブリッジの上には呆然とするシンジと、彼と目をあわさないように俯くマヤがいた。

 「……アスカはそんなにも傷ついていたんですか……?」

 「ある意味においてエヴァは彼女の全てだったの」

 「……アスカの容態はそんなに酷いんですか……?」

 「ええ、担当医も手の施し様がないの、今の彼女はただ『生きているだけ』に過ぎないわ」

 「……なぜミサトさんはアスカの事を隠すんでしょう?」

 「……」

 「……綾波の……もう一人の『綾波レイ』ですか?」

 「多分、そう。ネルフの保安関連部署が全力を挙げても『レイ』の行動を阻止する事はできないの。この事実の重要性は計り知れないわ」

 「……その『綾波』がリツコさんやアスカのところに現れた……」

 リツコの名が出たその一瞬、硬直するマヤ。

 「……なぜ……?」

 マヤは黙って首を横に振る。

 「……一体何を……?」

 やはり首を横に振る。

 「……そして、その後リツコさんもアスカも精神が不安定になった……」

 探るようなシンジの瞳がマヤを射貫く。マヤは背中を嫌な汗が流れ落ちるのを感じた。

 「……なぜ、僕にこの事を? 部外秘の重要機密なんでしょう?」

 「……パイロットとして知らせておいた方がいいと思ったの。アスカやレイちゃんのことがあったから……」

 嘘である。これは言い訳に過ぎない……それも自分を納得させるための…… 本当は、自分で動く事に限界と危険を感じ取り、シンジに事実をぶちまけて彼に行動させその成果を得る事でリツコを救出する手がかりにしたかったのだ。シンジはパイロットという立場もあり、またミサトとの太いパイプもある。更にはアスカとレイが関わっているとあれば確実に動くという読みもあった。かなり分のいい賭けであるように思えたのだ、切羽詰まったマヤにしてみれば。

 

 

 自分一人の思考の園に引きこもってしまったシンジを見ながらマヤは考える。

 (……先輩、これが『汚れる』ということですか……?)

 

 『潔癖症は辛いわよ……特に自分が汚れたと感じたときは……』

 

 いかに『尊敬する先輩』のためと割り切ってみたところで、やはり罪悪感は拭えない。こんな時、潔癖症な性格が恨めしい……

 自分の行動が汚れた行動であることは理解していたし、覚悟もしていた。だが、シンジの瞳を見て、自分の考えなど甘かった事を思い知らされた。シンジの瞳が心に突き刺さり、本当に痛かったのである。

 (先輩はいつもこんな気分を感じていたの……?)

 マヤは今まではリツコと同じ位置に立ち、同じ事を達成すれば精神が高揚するのを感じる事ができた。だが、今回ばかりはその高揚を感じる事はできなかった。

 

 

 10時00分 司令執務室へ至る通路

 ゲンドウの後を歩く冬月がつぶやいた。

 「碇……こんな事は俺のシナリオにはないぞ」

 「……ああ」

 ミサトの報告書を冬月に返しながらゲンドウ。

 「委員会に知れたら色々と面倒だぞ」

 「……問題ない」

 微かな逡巡すら見せないゲンドウに肩をすくめる冬月。

 「まあ、それはいいんだが……で、葛城君の報告、どう見る? 彼女はこの『偽レイ』の持つ力を使徒のものと断定しているようだが?」

 「ああ……恐らくは16番目だろう」

 「16番目か……」

 ミサトの報告書を無意味にめくりながら冬月。

 「……そういえば自爆した零号機のエントリープラグに関する報告、赤木君から上がってこないままになっていたな」

 「……赤木博士はその件を極秘事項に指定したそうだ」

 「俺達にもか?」

 「……」

 冬月はゲンドウの反応をうかがう。だが、何も言いそうにないことを確認した時点で溜息をついた。

 「火遊びの代償、高くついたな……」

 冬月の皮肉のつぶやきにゲンドウはニヤリと口元を歪めたのだが、冬月は気づかなかったらしい。そのまま続ける。

 「まあそれはいいとして……以後どうするつもりだ?」

 「問題ない……放っておくさ」

 「放っておくって……おい、本当にいいのか?」

 ニヤリと笑うゲンドウ。

 「相手は使徒、もしくは使徒と同等なのかもしれんのだぞ?」

 「もしも対象が使徒であればとっくに『アダム』の処へ行っているはずだ」

 「う……うむ」

 「だが葛城三佐の報告の限りでは対象の行動にその素振りはない」

 「確かにそうだが……」

 「冬月……あれはレイだ。レイの意思を感じる……何も問題はない」

 「しかし……」

 「現時点において被害と言えるのは赤木博士にセカンドチルドレン、それに葛城三佐のみだ……取るに足らん。この程度なら放っておいてもかまわん……それよりも次に来る最後の使徒の方が重要だ。この程度のことであれば問題になってから対処すればいい」

 ゲンドウの言葉を受けて自分の手の中のファイルに目を落とす冬月。

 (レイにこだわりすぎだな……碇)

 (だが、碇の言い分にも一理ある……今、俺達は最後の使徒に集中すべきだ……フィフスのこともあるしな……)

 (……確かに対象の行動に使徒の気配はない……レイの『意思』か……確かに自らを失った二人目のレイとすれば他人に接触することで自らの自我を取り戻そうとするかもしれんな……)

 そこまで考えた瞬間、冬月の手からファイルが落ちた。愕然とする冬月。

 (意思……『意思』だと!? レイが意思を持っている!? これは……)

 相変わらず前だけを見つめるゲンドウを見やる。

 (レイが意思を持つ……それはまずいのではないか!? その為にレイを今の環境においてあったのではないのか……)

 「どうかしたか、冬月?」

 ゲンドウが落としたファイルを拾って冬月に渡す。

 「い、いや……何でもない……」

 (……考えすぎか? そうだな、すでにレイは三人目なのだ。計画に支障はあるまい。まあ碇の言う通りここは最後の使徒に備えるべきだな……)

 納得はしてみたものの心に引っかかるものがある。

 ゲンドウとファイルを等分に見比べ、考え込む冬月。

 

 

 同時刻 同場所

 レイが廊下をあてもなくふらふらとさ迷い歩いている。

 マヤに『検診をするから』という名目で呼び出されて技術部配下の医務室にやってきたレイ。だが、マヤは予定の時間になっても現れない。マヤはシンジとの『密会』に先立ってレイを遠ざけるためにここに呼び出したのである。

 普段のレイであれば、マヤが現れるまで何時間でも医務室で待ち続けたであろう。シンジのことを除けば命令は彼女にとって絶対のものだったから。

 だがこの時は違った。

 -視線-

 そう、彼女は強い視線を感じていた。それは先日の早朝、夜も明けきらぬうちから彼女を眠りの園から引きずり出した、自分に近く不快感を感じさせる気配、それと同じ感じのする視線であった。

 無意識のうちに視線に誘われるようにして医務室を後にするレイ。

 

 

 廊下を引かれるように歩いていると、背後から呼ぶものがいた。

 「レイ」

 振り向くと、ゲンドウと冬月が立っている。

 (……違う)

 視線はこの二人のものではなかった。

 「……はい」

 ゲンドウの呼びかけに常に無くわずかに下を向き、視線を合わせないようにして返事をするレイ。

 「今日はどうした?」

 「……伊吹ニ尉の召集です」

 「そうか」

 黙り込むレイ。ゲンドウはちらりと冬月のもつファイルに視線を走らせる。そして、ほんの一瞬の間考えてから言った。

 「レイ」

 「……はい」

 「もうすぐだ。もうすぐ最後の使徒が現われる。そしてその使徒を倒せばお前の願いはかなう」

 「…………はい」

 「余計なことを考える必要はない。為すべきことだけを考えろ」

 「……………………問題ありません」

 レイが頷くのを見てゲンドウはまた歩き出す。冬月もレイを一瞥してその後をついて行く。だが、冬月はレイが最後までゲンドウと視線を合わせようとしなかったことに一抹の不安を感じていた。

 

 

 ゲンドウと冬月が歩き去ってなおしばらくの間俯いていたレイは、ややあって重い足取りで歩き始める。

 ひどく嫌な気分である。だが、なぜそんな気分になったのかはわからない。

 (……胸が痛い……なぜ?)

 突き当りを右に曲がったところでレイの足が止まる。

 

 彼女を引き寄せた視線の正体がそこに立っていた。

 

 呆然として自分の目の前に立ちはだかる人物を見つめるレイ。

 透き通るように白い肌、何もかも見透かすような紅い瞳、淡く輝く蒼銀の髪……

 レイの前に立ちはだかった少女は『綾波レイ』に他ならなかった。

 「……あなた誰?」

 問い掛けつつ目の前の『綾波レイ』を観察する。姿形は明らかに自分そっくりである。だが、その仕草はまったく違っていた。腰に両の手を当てて不機嫌さをまったく隠さない表情で自分を見ている。

 (……どこかで見たことがある仕草……弐号機パイロット?)

 そう、その仕草はアスカがシンジを難詰する時に見せる仕草にそっくりだった。

 

 「……ないの?」

 唐突に目の前の自分そっくりな『レイ』が口を開いた。

 「……何?」

 「問題ないの?」

 「……あなたの言ってること、わからないわ」

 「本当に問題ないの?」

 「……」

 黙りこむレイに『レイ』は右手を差し上げ指を突きつけた。アスカのように。

 「最後の使徒を倒して、あなたの願いがかなって……それでいいの!?」

 「……どういうこと?」

 「あなた、本当に『還り』たいと思ってるの?」

 「……えっ?」

 (……何? さっきと同じ……胸が痛い……私、どうしたの?)

 レイが微かに顔をしかめたのを見て、わずかに口元をほころばせる『レイ』。

 「『還り』たくないんでしょ?」

 「……そんなことないわ、虚無へ還ること……それが私の望み、私の存在する理由」

 「そうなの?」

 「……そうよ」

 「そうなの?」

 「…………そうよ」

 『レイ』の問いかけに無表情に答えるレイ。だが、『還る』事を肯定する度、その無表情とは裏腹に胸の痛みは増していく……

 (……胸が痛い……胸が痛い……どうして? 私は『還り』たい……還りたいはずなのに……それとも私、他に何か望んでいるの? ……何を望んでいるの?)

 『レイ』の方ではレイの心の内が手に取るようにわかっていた。処理できない内心の混乱に困惑して微かに顔を歪めるレイをいとおしげに見つめ、言った。

 「碇君でしょ?」

 端から見ていてはっきりとわかるほどに硬直するレイ。

 「碇君の事が気になるのね?」

 「……違う」

 「碇君と一緒にいたいのね?」

 「…………違う」

 「碇君と一つになりたいのね?」

 「……………………違う」

 「何が違うの?」

 下唇をきつく噛締め小刻みに肩を震わすレイ。しばらくしてぽつぽつと口を開いた。

 「……私は3人目だから…………私は碇君の知っている私じゃないから………………私は碇君を知らないから……………………碇君を知ってる『私』は多分、私じゃないから……………………本当に碇君の事を『想って』いるのは多分、私じゃないから……………………だから……………………」

 「だから違うの?」

 俯いたレイは微かに首を上下させる事で肯定の意を示した。レイの顔を覗き込んだ『レイ』が優しい微笑を浮かべる。手を伸ばし、レイの頬をそっと撫でて彼女の前に差し出す。その指先には雫が一つ光っていた。

 「……では、何故泣いているの?」

 「……!」

 手のひらに落ちる涙の雫を受けるレイ。

 「……これは……涙……私……泣いてるの? なぜ……泣いてるの?」

 『レイ』が右手を上げて、そっとレイの左の頬を包むように支えてやる。一瞬、拒絶しようとしたレイはその手が当てられた瞬間、シンジに抱きしめられたときと同じ慈愛に満ちた暖かさを感じ、涙を流したまま目を閉じて頬をその手に預けた。しばらくの間、そのままの姿でレイは涙を流しつづけた。

 

 「……あなた誰?」

 『レイ』の右手に頬を預けたままレイはその紅い瞳を向けて『レイ』に尋ねる。『レイ』は平然と答えた。

 「綾波レイ」

 「……私は私……あなたじゃないわ」

 「いいえ、私はあなた。そしてあなたは私なのよ」

 「……違う……『私』は常に一人しか存在しないもの」

 「そう? ではあなたは誰?」

 「……私……私は……綾波レイ」

 「あなたは誰?」

 「……エヴァンゲリオン零号機専属操縦者」

 「あなたは誰?」

 「……ネルフ指令碇ゲンドウによって造られた『コピー』……その三人目」

 「では、私は誰?」

 「……わからない」

 「私は誰?」

 「……わからない」

 「私は誰?」

 「……わからない……けど……」

 「『けど』……何?」

 瞬間、レイは躊躇してから言った。

 「……あなたからは『使徒』の匂いがする……」

 『レイ』がクスッと笑う。

 「ではなぜそんなに私に対して無防備なの?」

 一瞬、考え込むレイ。だが、目を閉じ『レイ』の手に頬を擦り付けるようにして言った。

 「……暖かいから……」

 「『暖かい』?」

 「……そう、暖かいの……碇君に抱きしめられたときと同じ……」

 綺麗に微笑んで『レイ』の手に頬を擦り付けるレイ。掛け値無しに可愛いと思える表情で。その表情を見て微かにさびしそうな笑顔で『レイ』がつぶやく。

 「確かにあなたは私よ……でも、私はあなたじゃないかもしれない……」

 「……?」

 レイが顔を上げる。『レイ』も手を下ろし、包み込むような優しい笑顔で言った。

 「まだ早いわ」

 「……何?」

 「もう少し……もう少しで揃うの」

 「……何が揃うの?」

 「それまで待って……その時になったらちゃんとあなたのところに行くから」

 「……どういう事?」

 レイの質問に答えず、そっと彼女の頬を撫でる『レイ』 そして踵を返し数歩歩いたところで、振り返って言った。

 「またね」

 自分を『影』にして『ディラックの海』を形成すると一瞬の内にその中に消える。後には途方に暮れた、しかし胸の痛みが消えたレイが残された。

 

 

 

第四日目後編に続く                


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Received Date: 99.1.30
Upload Date: 99.2.4
Last Modified:99.2.26
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