魂の自力救済

     〜レイ、心の逍遥

                    written by 桔梗野聡視


 第四日目(後編)

 21時30分 司令執務室

 無意味に広く、非実用的に薄暗いこの部屋に三人の人物がいる。

 執務卓に就く総司令碇ゲンドウ、その背後左側の定位置に立つ副指令冬月コウゾウ。そして執務卓の前、約3メートルの位置に立つ作戦課長葛城ミサト。

 この執務卓から3メートルという半端な距離を置くことは、この部屋に入室する者にとって不文律となっている。もっとも、この部屋に頻繁に入出する事ができる者といっても、人間の指を使って数えた場合、余りが出てしまう程度にしかいない。まして好き好んで入室しようなどという者は皆無である。

 かつてミサトの僚友は、この相手の表情を読めない距離を利用してゲンドウを言葉の針でつついて刺激することをひそかな楽しみとしていたし、かつての恋人は腹芸を楽しんでいた。無論、ミサトにそのような趣味はなく、こういった距離を開ける事も好みではない。

 が、彼女の『愛すべき』上司となれば話は別で、彼女もこの指令執務室に限っては例外とし、距離をとる事も容認していた。

 

 

 書類から顔を上げるミサト。怪訝さと驚愕の混ざり合った表情である。

 「……指令、これは……?」

 「読んでの通りだ。明後日にはフィフスチルドレンが着任する」

 副指令の解説に、再度ファイルに目を落とすミサト。

 「フィフスチルドレン……『渚カヲル』……」

 

 司令室に呼び出されたミサトは、来るなり一通のファイルを副指令から手渡された。

 

 マルドゥックの報告書

 

 それがファイルの名前である。

 『レイ』の件で呼び出されたと思って来たミサトにとっては青天の霹靂とも言えた。

 

 「ずいぶんと突然ですね……」

 「……」

 ミサトの何気ない風を装った疑問に、指令も副指令も沈黙を以って答える。ミサトは疑惑を感じざるを得ない。

 以前加持は言った、

 『マルドゥック機関は存在しない、操っているのはネルフそのものだ』と。

 

 いつ使徒が来るかわからないこの状況で弐号機があそんでいるというのは確かにまずい。既に零号機は無いのだ。パイロット交代を指令が考えるのは当然と言える。作戦課長としても考えてはいた事だ。だが……

 日向がマヤの行動に疑惑を持って以降、彼女の動きは逐一マークしている。が、リツコ収監以降彼女はリツコを探すことに血道を空けており、エヴァにはほとんど関わっていない。ダミープラグに関してアクセスできる彼女の事、コアの換装ということになれば彼女に声がかからないわけがない。司令も副指令も事後処理で忙しく、リツコやマヤ以外にその仕事を託すこともできないはずだ。つまり、未だに何の下準備も為されていないのである。コアの準備もできていないエヴァにパイロットを準備するだろうか? あの司令が。

 「弐号機のコアの換装はどうしますか?」

 何食わぬ顔で探りを入れてみるミサト。答えるのは冬月である。

 「……なにぶんにも急なことなのでな。とりあえず現状のままだ」

 「コアの換装なしにシンクロできるとは考えられませんが」

 「しかたがないのだよ」

 渋面で答える冬月。ゲンドウは表情を変えることはなかったが。

 (『しかたがない』か……)

 「シンクロできればそれでよし。しかしできなかった場合はリツコ……いえ、赤木博士抜きでコアの換装ということになります。伊吹二尉だけで初号機の維持と弐号機のコア換装を平行作業ということになると……」

 「わかっている……その時は考えるよ」

 ゲンドウの背中を睨むように見下ろしつつ渋面で答える冬月。リツコに関しての現在と、未来における方針は二人の間では一致していないようだ。苛立たしげな冬月の様子を見てミサトは口元がほころびそうになるのを必死で堪えなければならなかった。

 「こう言ってはなんですが、エヴァの整備とマギのメンテナンス……技術課の作業率が落ちているのも事実です。赤木博士の処置について御一考いただければ幸いです」

 「わかっている」

 「よくこの状態でフィフスチルドレン……見つけられましたね」

 「フィフスの件は特別だよ」

 忌々しげに吐き捨てるように答えた冬月は、次の瞬間目を見開いてミサトを睨みつける。当のミサトは歓喜を表情に表さないようにする為、顔面に全神経を集中させなければならなかった。

 冬月はミサトの誘導によるこの返答によって二重の失策を犯したことになる。

 まず第一にリツコがチルドレン選出に関与していた事を認めてしまった。それはとりもなおさずネルフによってチルドレンが選出されていたことを認めた事と同義である。加持の台詞を裏付けた形だ。そして第二にフィフスチルドレン選出に関してはネルフが関わっていなかった事を認めてしまった事である。ミサトは必要としていた回答を手に入れる事に成功した。

 冬月の強烈な視線を何も気付いてない風を装って受け流しつつ、ミサトは考える。

 (でも、だとするとフィフスチルドレンを送り込んできたのは一体誰? あの指令でさえ従わざるを得ない相手……フィフスチルドレン……何か裏があるわけね。注意する必要があるわ……フィフスチルドレンにも碇司令にも……)

 ゲンドウとミサトの視線が一瞬だけぶつかった。

 

 ファイルを閉じて小脇に抱えるとミサトは背筋を正す。

 「……用件は以上でしょうか?」

 「以上だ……ご苦労だったな、葛城君」

 答えたのはようやく落ち着きを取り戻した冬月である。一礼して退出する為踵を返すミサト。が、数歩歩いたところで足を止めて振り返った。

 「司令、あともう一つ……」

 息をつきかけていたらしい冬月が慌てて姿勢を正すのが目に入る。ゲンドウは顔の前で手を組むいつもの姿勢でじっと前を見据えている。外光を反射する眼鏡がその視線の先を隠してはいたが。

 「……何かね?」

 やはり答えたのは冬月だった。

 「レイに関してですが……」

 ゲンドウとミサトの視線が今度はまともにぶつかる。

 「……」

 「……」

 無言で自分を見据えるゲンドウにやや挑発的ともとれる強気の視線で返しながらミサトは考える。

 (何も言わないのね……何か掴んでいるのか、それとも裏で糸を引いてるのか……)

 ちらと冬月に視線をやると困惑した表情でゲンドウの背中を見つめている。

 (……それは無さそうね、副指令も落ち着かない様子だし……ということはレイを信じているということかしら……?)

 「今朝提出した報告書にも書きましたが……」

 ゲンドウの表情が全く動かないのを見て言葉を切る。

 (……そう、本気でレイを信用していると言う事ね。ならばいいわ、私も報告書は提出したし忠告はした……給料分の仕事はしたでしょ)

 「……いえ、何でもありません。失礼します」

 再度一礼して扉を出るミサト。扉が閉ると同時に口元が歪む。

 (つまり、自分の作った人形なのだから、信用するしない以前の問題というわけか……嫌なオヤジね……でもこれは見物よね、『レイ』は果たして造物主に従順でありつづけるかかしら?……シンちゃんの事もあるし……)

 そこまで考えたところで不意にミサトの表情が曇る。レイを『従順な都合の良いエヴァの付属物』という道具と見なしていた自分にゲンドウを笑う資格があるのか、という点に思い至ったのである。『レイ』と遭って以降、自分の行為がよく見えるようになったミサトであった。

 

 

 「……碇、葛城君は何か掴んでいるようだが?」

 「問題ない」

 ミサトが退室した後の執務室の二人。その見据える先には微妙なずれがあるようである。

 「確かにもう隠しておいてもあまり意味のない事だからな……だが俺が気にしているのはいかにして葛城君がそれを知ったかだよ」

 「今更何かわかったところで葛城三佐にできることなど何もありはせんよ……問題はない」

 もとより冬月としても結論を出すつもりはなかったのだが、それでも固形物を吐き出すかのような重い溜息を吐くのを押さえることはできなかった。

 「……では『レイ』の件はどうだ? 葛城君は何かいいたげだったがな」

 微かに視線を落とすゲンドウ。

 「……問題ない」

 「なぜそう言いきれる?」

 ゲンドウは答えない。が、俯く彼の瞳が机の傷一つない天板ではなく、どこか遠い処を見つめているのに気付いた冬月は湧き上がってくる不愉快さを感じた。

 「……碇、レイにこだわりすぎだぞ」

 ゲンドウは答えない。

 「わかっているのか? 最後の使徒がもうすぐ来ると言うのだぞ!?」

 ゲンドウは答えない。冬月は不愉快さが幾何級数的に増大していくのを押さえきれなくなる。

 「お前がレイにかける期待はわかるが、もう少し考えてくれ!」

 ゲンドウは答えない。が、冬月はそのゲンドウの唇の端が上向きにカーブを描いているのに気付いた。瞬間、体の中で何かが音を立てて切れるのを感じる。

 「碇……」

 うってかわって静かな、だがどこかしら迫力を感じさせる声で冬月は語り掛ける。

 「……これだけは言っておくぞ……お前がレイをどう見るかはどうでもいい……だがな、レイはユイ君ではない! ユイ君も同じだ、ユイ君もレイではないのだ! それを忘れるな!!」

 最終的には叫ぶようにして言う冬月。だが、肩で息をしつつゲンドウを睨む一方で、彼は不愉快と自嘲の泥濘に首まで浸かっていた。

 (……結局、レイに……ユイ君にこだわっているのは俺も同じか……人間、歳をとっても利口にはならんものだな……)

 ゲンドウのユイの面影を持つレイへの扱いに屈折した思いのある冬月であった。結局のところ想う女性への気持ちを断ち切れないということである。たとえ彼女が人妻になたとしても……

 ゲンドウが机に目を落としたままつぶやく。

 「……わかっている。レイはユイではない。ユイとはなり得ない。断じてな」

 「……本当にそう思っているのか?」

 「ああ……レイもそうだ。レイも自分の為すべきことはわかっている。問題はない」

 「……本当にそう思っているのか?」

 ゲンドウは無言で笑う。冬月は口の中に湧き上がった苦い唾を吐きたい衝動に駆られたが、塵一つ落ちていない床を見て思い止まるとその代わりに俯くゲンドウの背中に向かって言った。

 「お前はレイにユイ君を見とるよ……そしてレイを信頼するのはレイがユイ君の人形だからだ。お前はユイ君に縋っている」

 そこで言葉を切り静かに言った。

 「お前にユイ君以外の人間が信じられるはずがないからな」

 ゲンドウは動かない。ふと視線を感じた冬月が視線を上げる。目を見開き真剣な表情になると固い口調で続けた。

 「……それに彼女自身そう思っているかどうか……」

 ゲンドウが冬月の口調につられるように視線を上げる。つい先ほどまでミサトが立っていた場所に『レイ』が貼り付けたような笑顔で立っていた。

 

 

 

 21時50分 コンビニエンスストア付近

 弁当の入ったコンビニのロゴ入りの小さなビニール袋を手に下げて、シンジとレイが並んで歩いている。検診の為この時間まで拘束されていた二人は、ここ数日と同じように二人で地上に上がり、ここ数日と同じコンビニで弁当を買い、ここ数日と同じようにシンジがレイをマンションまで送っていく最中である。背後から照らす月明かりが作る短い自分の影をじっと見据えて二人は無言で歩く。だが、口には出てこないだけで内心においては二人とも饒舌だった。

 

 

 シンジはマヤとの会話の内容を反芻する。

 (アスカ……)

 元気だったアスカを回想しようとして、まず最初に現われたのが自分をひっぱたく彼女の姿であったことに思わず苦笑するシンジ。

 (でも……アスカは常に僕の一歩前を歩いていたんだ)

 容姿端麗、成績優秀、戦闘のセンスにも長けシンクロ率も高い。常に頂点にいることを自らに課す彼女は自信に満ちていた。

 (アスカは僕にとってまぶしい存在だった……僕はただ彼女についていけば良かった……)

 しかし、いつしかその立場は逆転する。

 シンジは道標を見失い、アスカは自らを見失った。そして今、アスカは病床にある。

 (アスカ……僕は……)

 考える。だが、結局何をすればいいのかわからない。

 結局、彼にとってアスカは自分の手を引いていってくれる人間であって、その逆にはなり得ないのである。シンジはアスカに縋るしかなく、アスカはそんなシンジが気に入らずシンジにその不満とプライドとを屈折した形でぶつけるのであるがシンジはそれに気付かない。出口のない救いのない二人の関係がついにはアスカを精神の崩壊にまで追い込んだ。が、ここに至ってもシンジには何もできない、何を為すべきかわからない。

 (でも……)

 彼は決意する。

 (とにかく会いに行こう……)

 

 

 レイは『レイ』との会話を反芻する。

 『最後の使徒を倒して、あなたの願いがかなって……それでいいの!?』

 (……碇司令の期待に応えること……それが私と司令との絆だった……私の喜びだった……でも、今は違う気がする)

 『あなた、本当に『還り』たいと思ってるの?』

 (……虚無へ還ること……それが私の存在理由だった……私の望みだった……でも、今は違う気がする)

 (……なぜ、そう思うの?)

 となりの少年の横顔を盗み見る。

 (……これが『好き』という気持ち?)

 胸の奥が暖かくなり表情が和らぐ。が、すぐに無表情に戻ってしまう。

 (……でも、なぜ……?)

 

 新たな体で目覚めた後、レイは自分については何もない、空っぽであると認識していた。だが、シンジに会い、『レイ』に会ったことでその認識に揺らぎが生じ始める。

 (……わからない……でも、何かある……)

 それまで何もないと思っていた自らの心の内の領域、しかし何もないわけではないらしい。ただ、黒く塗りつぶされているだけで彼女自身には認識できないのだ。その領域に触れてみる。するとそこからは包み込まれるような暖かさと身を切られるようなせつなさを感じた。その感覚に敢えて名前を付けるなら『絆』……そう、その領域には彼女の求めてやまないものが存在する。レイは確かにそれを感じ取っていた。

 

 だが、彼女はそれに触れることを恐れる。

 (……あなた、誰……?)

 その領域を感じようとすると、見えない壁越しに誰かが立っているのがわかる。

 (……あなた、誰……?)

 実際には、彼女にはわかっていた。ただ認めたくないだけ……壁の向こうに立ち彼女を醒めた目で見つめているのは、彼女の知らない、彼女ではない『綾波レイ』だったから……

 

 

 『いいえ、私はあなた。そしてあなたは私なのよ』

 (……あのヒトも私……私ではないワタシ……)

 具体的な形をとって現われた自分でない自分に思いを馳せる。

 (……でも……暖かかった……)

 レイの前に現われた『レイ』の仕草はまるでアスカのようだった。その事にレイは微かな嬉しさを感じている。

 (……弐号機パイロット)

 高飛車で常に強気、自信に満ち溢れたアスカの姿は、シンジを手酷く扱うことが気に入らないものの、強くひかれるものを感じていた。我侭勝手にくるくると動き回る彼女の仕草に自由と強い生命の伊吹のようなものを感じていた。シンジにひかれるようになってからレイが求めて止まない、彼女にはないもの。アスカはレイにとって羨望の対象だったのだ。

 (私……彼女のようになれる……?)

 腰に左手を当て、右手を自分に突きつける自分の姿を思い出してみる。

 が、次の瞬間、レイは愕然となった。

 (……弐号機パイロット……? 誰……? 私、知らない……!)

 

 

 突然立ち止まったレイに気付き、振り返るシンジ。

 「綾波……どうしたの?」

 その紅い瞳を一杯に見開いて俯いたレイは両手で自分の頭を抱えて黙り込み、微かに震えていた。

 「綾波?」

 

 

 自分が羨望する相手が自分の記憶に存在しないことに気付くレイ。その瞬間、心の奥底の見えない領域を覆う壁に亀裂が走った。その隙間から溢れ出すイメージが彼女を襲う。彼女の頭の中に知っている人達の顔が次々と去来する。

 碇ゲンドウ

  (……碇司令)

 赤木リツコ

 (……赤木博士)

 葛城ミサト

  (……葛城三佐)

 青葉・日向・伊吹

  (……オペレーターの人達)

 惣流・アスカ・ラングレー

  (……誰?)

 加持リョウジ

  (……あなた誰?)

 洞木ヒカリ

  (……あなた誰?)

 鈴原トウジ

  (……あなた誰?)

 相田ケンスケ

  (……あなた誰?)

 赤木ナヲコ

  (あなた誰?)

 6歳当時の綾波レイ

  (あなた誰!?)

 綾波レイ

  (あなた誰!?)

 綾波レイ

  (誰!?)

 綾波レイ

  (誰!?)

 碇ユイ

  (誰!)

 突然場面が一転する。

 レイに襲いかかるイメージ。

 真っ赤に塗りつぶされた背景の前で赤木ナヲコに首を絞められる14歳のレイ。ナヲコの口がゆっくりと動く。

 『あんたなんか、あんたなんか死んでも代わりはいるのよ……』

 「……!」

 

 

 「綾波! 綾波ッ!!」

 頭を抱えたレイはシンジの見ている前でゆっくりと膝を衝くとそのまま倒れこみ、声にならない悲鳴を上げながら苦しげにアスファルトの上をのたうちまわる。

 「綾波! どうしたの、綾波!!」

 シンジは必死でレイを押さえつける。押さえつけられたことで更に激しく暴れまわるレイ。蒼銀の髪を振り乱し、必死で何かから逃れようとする彼女の姿に痛々しさを感じたシンジは渾身の力をこめてレイを抱きしめてやり必死で呼びかける。

 「綾波! 綾波!! 綾波ッ!!!」

 

 

 第参使徒の襲来時、アンビリカルブリッジの上でぼろぼろの状態でなおストレッチャーから立ちあがろうとし、シンジに助けられるレイ。ヤシマ作戦の際使徒の放つ加粒子砲に晒されて溶けていく盾。第九使徒戦の後、セカンド・サードチルドレンと共に見た暗闇に沈む第三新東京市の夜景。彼女の部屋を片付けるシンジ。第十参使徒に乗っ取られたエヴァ参号機に折られる零号機の腕。n2地雷を抱える片手の零号機。飛び去るロンギヌスの槍。そして……涙

 

 彼女を幾つものイメージが駆け抜けていく……かつて彼女が経験した過去……

 だが、レイは必死で耳を塞ぎ、目を背ける。

 (違う! 違う!! これは私じゃない!! 私はこんなの知らない!!!)

 ストレッチャーから投げ出され、シンジに助け起こされる包帯だらけのレイ。

 (これは私じゃない!)

 『……絆だから』

 (これは私じゃない!)

 エントリープラグの中でシンジの言葉に従って微笑むレイ。

 (これは私じゃない!)

 『な、何を言うのよ……』

 (私じゃない)

 『あ、ありがと……』

 (……私じゃない)

 涙

 (……私じゃ……)

 

 (……私は碇君と一つになりたい……これが『好き』という気持ちなのだとしたら私は碇君が好き……)

 (……この気持ちは私のもの……誰に与えられたものでものでもなく……)

 (……あの晩、何もなかった……何も持っていなかった私にコンビニエンスストアで碇君が声をかけてくれたから……だから私は……)

 (……でも……)

 レイの心象に不可視領域から流れ込む過去の様々なイメージ。

 (……あの私に見えない向こう側にも碇君を『好き』な私がいる……私じゃない『私』が……そして私はあそこから来た……)

 (……でもこれは私の心……碇君が好きという気持ち……これは、私の心! 彼女から譲られたものじゃない!)

 (私は私、彼女じゃない!!)

 

 『いいえ、私はあなた。そしてあなたは私なのよ』

 何時の間にか目の前に立つ『レイ』が薄く笑って冷たく告げる。

 (違う! 私は私、あなたじゃない!)

 『いいえ、私はあなた。そしてあなたは私なのよ』

 『レイ』の白い腕がレイの白い首に伸びる。くぐもるレイの声。

 (……ぐうっ……くっ……)

 重なるナヲコと幼いレイのイメージ。首を締め上げられながらもレイは『レイ』の紅い瞳をじっと見つめていた。

 『だから……返して……』

 見開かれるレイの瞳、そして絶叫。

 (イヤァァァーーーッ!!)

 恐怖が彼女の心臓を掴む。狂ったように暴れるレイ。

 

 『綾波!!』

 遠くから聞こえてくるシンジの声にレイは我を取り戻す。

 (……碇君?)

 『綾波! 綾波!!』

 (碇君!)

 

 「綾波!!」

 「……碇君」

 ようやく正気を取り戻したレイを歓喜の表情でシンジは抱きしめた。

 「綾波! よかった、気がついたみたいだね」

 「……碇君」

 ぼんやりとした瞳にシンジを映すレイ。彼の肩越しには群青の星空に微かに欠けた月が照らしているのが見えた。上半身はシンジに抱きかかえられているものの下半身からはアスファルトのひんやりとした感触が伝わってくる。やがてその瞳に紅い理性の色が戻ってくるとレイはいきなりシンジに縋りついた。両手でシンジのシャツの胸を掴み、ぼろぼろと涙をこぼしながら彼のシャツに顔を押し付ける。

 「あ、綾波……?」

 「碇君……」

 肩を小さく振るわせながら叫ぶようにレイ。

 「碇君……教えて! 私は誰! 私は一体誰なの!?」

 「……」

 「私じゃない『ワタシ』が私の中にいるの! 私の想いが私のものではないって言うの! みんな……みんな……知らないの…………私は私……ほかの誰でもない……でも……でも……」

 嗚咽するレイ。

 「……助けて……碇君……助けて……」

 何か言ってやろうとするシンジだが、レイの台詞から連想されるLCL水槽のイメージが邪魔をして言葉にならない。彼はただ、唇を噛み締めつつ彼女が落ち着くまで抱きしめてやることしかできなかった。

 

 

 

 22時00分 司令執務室

 なんとも奇妙な沈黙がこの無意味に広い空間を支配していた。

 執務卓には顔の前で手を組み、ただ前方に佇む人物を見つめるゲンドウ。その背後で表情の選択に困りながらもやはり前に立つ少女を見つめる冬月。そして不躾に突然現われながらもこの部屋における慣習を守って執務卓前3メートルの位置に立ち、貼り付けたような笑顔の『レイ』。

 三者の内、誰も言葉を発しようとしないまま5分が経過している。自分が腕にはめている腕時計の秒針が動く音すら聞こえるような気さえする何とも言えない嫌な沈黙。その雰囲気に耐えかねた冬月がとりあえず何か言おうと口を開こうとしたその時、ゲンドウが重々しく発言した。

 「……レイ……余計なことを考える必要はない、と言ったはずだが……?」

 笑顔のまま何も言わない『レイ』。

 「……もうすぐ最後の使徒が来る。そしてその使徒を倒……」

 「『余計なこと』とは……」

 ゲンドウの発言を途中で遮って、『レイ』が口を開く。やや俯き加減の彼女の顔は、ゲンドウの位置からは小さく動く口元しか見えない。

 「……たとえば『碇ユイ』というヒトのことですか?」

 顔を上げ、ゲンドウと視線をぶつける『レイ』。その紅い瞳にははっきりそれとわかる嘲笑が見て取れた。ゲンドウは顔を顰める。

 「……レイ、お前は……」

 「本当に彼女に縋らないと何もできないんですね?」

 またしてもゲンドウの発言を遮るレイ。

 

 「私は……」

 「臆病者」

 

 「何を……」

 「臆病者」

 

 「……」

 「臆病者」

 

 不快気に、だが反論することなく黙り込んで『レイ』を睨みつけるゲンドウ。それを見て彼女は瞳に浮かぶ嘲笑の色を更に濃くする。

 「……あら? 『臆病者』と呼ばれることが不満ですか?」

 「お前に何がわかる……」

 短く答えたゲンドウであったが、その返答にはそれなりの歳と経験を重ねなければ出せない『重さ』を感じさせる何かがあった。が、『レイ』はそれをさらりと受け流す。

 「不満なようですね……でも、あなたは臆病者ですよ」

 「……」

 ゲンドウは強烈な視線を彼女にぶつける。ミサトやリツコであれば一も二もなく萎縮してしまうであろう強烈な視線。だが『レイ』はそれを平然と受け止めた上で言った。

 「ご子息が……碇君が怖いのでしょう?」

 「……何だと?」

 おそらく冬月にしかわからないであろうほどではあったが、気色ばむゲンドウ。興奮した反応を返してきたことに『レイ』は満足したらしく、彼女の口元が禍禍しい上向きのカーヴを描く。

 「あなたは碇君が怖いんですよ」

 「……何を訳のわからないことを……」

 普段からは想像もつかないほどに追い詰められてはいるが、それでもまだ多少の余裕を含んだ態度であしらおうとする。が、次の彼女の台詞でその残っていた余裕も完全に吹っ飛んでしまう。

 「ではそのサングラスなしで、直接碇君の瞳を直視できますか?」

 「……ッ!」

 目を見開き、自失の面持ちで『レイ』を見つめるゲンドウ。何か反論しようとするが、明確な言葉とはならない。

 「サングラスなしで碇君から向けられる視線に耐えられますか?」

 「……」

 

 それは、冬月がはじめて見るゲンドウの姿であった。

 視線は『レイ』の足首の白さと靴下の黒の境目あたりに向けられている。が、その瞳は焦点を結んでいない。両の手は呆然と開かれた口を隠すことすら忘れている。何よりも小刻みに震える肩がその内心の動揺を雄弁に物語っていた。おそらく、ユイしか知らないであろうゲンドウの姿……

 

 「……そう、寂しかったのね」

 

 『レイ』のつぶやきにゲンドウが慌てて顔を上げた。落ち着いて傍観者を決め込んでいた冬月も同様である。

 二人の前方に佇んでいるのは間違いなく『レイ』である。だが、その口から発せられた声はしっとりと落ち着いていて艶のある……二人の男の記憶中枢を揺さぶる懐かしい声であったのだ。

 「……ユイ……」

 呆然とつぶやくゲンドウ。

 冬月は我が目を疑っていた。『レイ』に白衣で微笑むユイの姿がだぶって見える。いや、ユイそのものが立っているようにしか見えない。彼は眼の端から涙がこぼれることにすら気付かず、彼女を凝視していた。

 ゆっくりと足を踏み出す『ユイ』。

 

 「……寂しかったんですね、あなた?」

 「……」

 

 彼女を見つめるゲンドウは何か答えたようだが明確な言葉にはならなかった。ただ、その表情は歓喜に打ち震えるばかりである。

 

 「……私があんなことになったから……だからシンジと顔を合わせる事ができなかったんですね?」

 「……」

 

 ゆっくりと一歩一歩近づいてくる『ユイ』の姿に魅入られたように視線を固定している冬月。彼の視界には既にゲンドウの姿すらない。

 

 「……だから、シンジが怖かったんですね?」

 「……」

 

 自分でも気付かないうちに椅子から腰を上げ、執務卓に身を乗り出すゲンドウ。

 

 「……だからシンジと距離をとろうとしたんですね?」

 「……ユイ……」

 

 執務卓のすぐ前まで来ている『ユイ』に向かってゲンドウが取り縋るような表情で震える手を伸ばす。柔らかい笑顔を浮かべてゲンドウを見つめる『ユイ』。彼女の青緑色のスカートとゲンドウの振るえる手の間の距離が縮まっていく。

 あと3センチ……

 2センチ……

 1センチ……

 だが、その手がスカートに触れようとした瞬間、彼女は避けるように身を翻す。何が起こったのかわからずに固まっているゲンドウに向かって『レイ』が冷たい言葉を投げつけた。

 

 「……でもダメ……」

 

 冬月は目の前に立つ『ユイ』が『レイ』に戻ってしまったことに気付いた。いや、自分が夢から目覚めたことに気付いたのである。

 「私は私……『ユイ』ってヒトじゃない……」

 「……ユイ……」

 なおショックから立ち直れないゲンドウのつぶやきに、『レイ』の表情は嘲笑に染まった。

 「あなたには私が必要だった」

 「……」

 「でも、それはファーストチルドレンとしての私」

 「……」

 「リリスの分身としての私」

 「……」

 「あなたのシナリオの道具としての私」

 「……」

 「人形としての私」

 「……」

 ここで『レイ』は、突然手を振り上げると横薙ぎに振り払った。弾き飛ばされて数メートル先の床にぶつかって乾いた音を立てて砕けるゲンドウのサングラス。その下から現われた焦点を結ばない瞳に冷たい視線を合わせて彼女は言った。

 「『綾波レイ』としての私は必要なかったんでしょう?」

 「……」

 完全に腑抜けと化してしまったゲンドウに向かって『レイ』は大きな溜息をついて見せる。

 「……もう話すことはありません」

 踵を返して出口へと歩いていく『レイ』。その背中を見て初めて金縛りが解けたかのように冬月が我に返る。とにかく固まってしまったゲンドウの肩を掴もうと手を伸ばしたその時、立ち止まって顔をわずかにこちらに向ける『レイ』に気付いた。俯きぎみの姿勢と瞳を隠す前髪の為彼女の表情ははっきりとはわからなかったが、その表情が哀しみに染まっていることだけはわかった。『レイ』がぽつりとつぶやく。

 

 「……少しだけ……ほんの一度だけでいい……『綾波レイ』として見て欲しかった」

 

 冬月はそのつぶやきを愕然として受け止めた。冬月はこのとき初めてレイの中に『女』を見たのである。その哀しみに満ちた表情はたまらなく艶っぽく、そして哀れに見えた。

 

 自分の影を利用して『ディラックの海』を形成し、『レイ』はその中へと消える。

 

 「おい……碇……」

 彼女の態度に驚いた冬月がゲンドウに呼びかける。だが、ゲンドウは腑抜けたままだった。おそらく彼女の最後のつぶやきも聞いてはいなかっただろう。それに気付いた冬月はほんの一瞬だけ殺意すらこもった怒りの視線をゲンドウに向ける。

 (……レイはあそこまで言ったのだぞ?……碇、お前は最後まで彼女にユイ君しか見ないのか!?)

 だが、彼はすぐに気を取りなおして受話器を取る。医務室へのダイヤルをしかけてちょっとだけ考え込むと、それをキャンセルして作戦部につなぐ。

 「……ああ、葛城君かね? 私だ……いや、そういう事ではなくてだね……君、アルコールは持ってないかね? いや、食堂にはビールしかないからな……ん? ウィスキーがあるのか、ではすまんが司令室まで持ってきてはくれんか? いやなに、碇に『気付』が必要かと思ってな……」

 未だ腑抜けたままのゲンドウを見つつ受話器を戻し、苦笑してつぶやいた。

 「……葛城君め、コール2回で出おった……こうなる事を予想して待っていたな……」

 

 

 

第五日目前編に続く                


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