魂の自力救済
〜レイ、心の逍遥
written by 桔梗野聡視
第五日目(前編)
10時30分 テストプラグ設置スペースおよび同所管制室
ミサトは微笑しつつ眼前の光景を眺めている。
もっとも、その微笑はより不健全の範疇に属する皮肉っぽいものではあったが。
明日には到着するというフィフスチルドレンとの比較データを採取するためのハーモニクス試験。これはミサトが計画書を提出し、実現したものである。確かにデータは必要であったが、本来作戦部のミサトが企画する筋のものではない。にもかかわらず彼女がこのテストの実施にこだわったのは、ある確信がありなおかつそれを確かめたかったからである。すなわち……
『今日、試験を行えば司令も顔を出してくるに違いない』
彼女の予想通り、司令は副司令と共に管制室へと姿を見せていた。
昨夜冬月からの連絡を受けスキットルを持って司令執務室へ行った彼女を迎えたのは信じがたい光景であった。
苦笑する冬月を前に焦点の合わない瞳で惚けた表情の碇ゲンドウ。
普段の冷徹な司令しか見たことのなかったミサトにとってそのゲンドウの姿は完全に想像の範疇を越えたものだった。何しろ入室した瞬間、執務卓に就いているのが誰なのかわからなかったのだ。この時、ミサトは初めてゲンドウも人の子であるという事実を認識したのである。
事情を尋ねる彼女に冬月は何も言わなかったし、ゲンドウは何かを言うことすらできなかった。が、彼等二人の前に『レイ』が現れたことは疑いない。
ガラス越しに汚染区画に隣接する"00"の刻印の刻まれたテストプラグに視線を固定してひそひそと話し合う司令と副司令を横目で見つつミサトは思う。
(司令がテストに立ち会うなんて零号機の起動実験以来……)
やや青い顔色でレイのプラグを凝視するゲンドウ。横で顔を寄せ、何事かを囁きかけている冬月の言葉など全く耳には入っていまい。ミサトの口元が上向きに歪む。
(……フフッ……あの様子だとよっぽど”恐い”目に遭ったわね……)
ゲンドウが度入りのサングラスの角度をを人差し指と中指で直す。
(あれ……? あのサングラス……昨日、確か……)
昨夜、ミサトはゲンドウの素顔を始めて見た。サングラスが執務卓から遠く離れた壁際で砕けていたのが印象に残っている。
あのサングラスはゲンドウの象徴とも言えるもの……精神を……心を他者から拒絶する不可視の『壁』を持つ彼にとってのその壁の象徴……だからこそ、その『壁』を失った司令の姿はひどく弱々しく見えたのかもしれない。わずか一晩……一晩にも満たない時間の内に代わりのサングラスが用意できたのは、ゲンドウの縋るような懇請を請けた冬月の尽力によるものである。それほどまでにゲンドウは『壁』を必要としていた。と、同時に彼が依然として同様のサングラスを使用しているということは……
(結局、司令は『レイ』にその心の内を指摘されたにもかかわらず、なんら変わらなかった……変わることができなかった、ということね……)
ミサトの口元を飾った笑みは、嘲笑か憐憫か……彼女自身にも不分明であった。
同時刻 同所テストプラグ"01"
インテリアシートに座りるシンジは、管制室から通信越しに聞こえてくるオペレーター達の声をすべて聞き流していた。管制室には苦手とする父親もいたが、それも今の彼にはどうでもいいことであった。
彼の左側に開いた通信ウインドウに映る少女の横顔。
綾波レイ
シンジの意識は彼女に集中していた。
(……綾波)
『……助けて……碇君……助けて……』
小刻みに震えながらシンジに縋り付くレイの姿。
(綾波は恐れてる……)
『私は誰! 私は一体誰なの!?』
(……過去の自分を……過去に自分が存在していたという事実に……)
『私じゃない『ワタシ』が私の中にいるの! 私の想いが私のものではないって言うの!』
(『二人目の綾波』と『三人目の綾波』……)
『…………私は私……ほかの誰でもない……』
(……別人だというの?)
じっと食い入るようにレイの横顔を見詰めるシンジ。
同時刻 同所テストプラグ"00"
虚ろにも見える瞳でただ前をぼんやりと見詰めるレイ。
管制室から聞こえる会話にも、通信ウインドウ越しにみえるゲンドウの彼女を不安げに見る視線にも、そして彼女を真剣に見詰めるシンジの視線にも、いずれにも全く関心がないようにただただ前を見詰めるだけ……
「…………」
彼女の視線は、小揺るぎもしない。無言のまま、ただ前方に向けて固定されているだけ……
10時35分 同所テストプラグ"01"
レイを映すウインドウに視線を固定したままシンジはこの日の朝のことを思い出していた。
テスト実施の連絡を受けゲートへやってきたシンジは、そこで同様に連絡を受けてやってきたレイと鉢合わせた。
「綾波、おはよう」
俯きつつ歩いて来たレイがシンジの挨拶にゆっくりと顔を上げる。その彼女の表情を見てシンジは絶句した。
「……あ、綾波?」
「…………おはよう……」
とりあえず返事だけはするレイ。
だがその顔に表情は無く、瞳には生気が全く感じられない。
つい前日、自らの生に……自らの存在の意味に固執し、肩を震わせてシンジに縋り付いた彼女の面影は片鱗すら感じられない。その表情はコンビニの前であった時の……いや、それ以上に……そう、初めてあった時の、ゲンドウとエヴァ以外に世界との繋がりをなんら持たなかったかった頃の「綾波レイ」の表情であったのである。
「綾波……一体どうしたの?」
心の欠けた視線をまっすぐ前に固定したままレイは答える。
「……別に、どうもしないわ」
「でも……」
何か言おうとするシンジを無視して歩きだすレイ。シンジは慌ててついて行く。
「……」
「……」
まるでシンジなどいないが如く歩くレイ。氷のような印象のレイの横顔を盗み見つつシンジの心を寂寥とそれに比肩する恐怖が吹き抜ける。
(……綾波……元に戻ってしまったの?)
だが、どこかしらシンジの心に違和感が引っかかっていた。
(……でも、あの頃の綾波とは何かが違う……)
じっと考え込むシンジ。ややあってぽつりと言った。
「綾波……」
レイは反応しない。
「……寂しい?」
やはり反応しない。
が、シンジは見逃さなかった。レイの肩が微かに震えたことに…… 微かな確信を込めつつ彼は続ける。
「僕は……」
彼女の歩調は変わらない。視線はまっすぐ前に固定されたまま…… だが、その意識がシンジのつぶやきに集中しているのが見て取れた。
「……綾波と一緒にいられると楽しいよ……」
「……!」
レイの歩調が一瞬だけ揺らいだ。
「……綾波と一緒にいられると……」
シンジにまるで関心が無いかの様に歩調を進めるレイ。だが、俯く顔は微かに朱に染まり、見開かれた瞳は揺れていた。明らかにシンジの次の言葉に期待して……縋っている様が見て取れた。
「うれしいよ」
「……!!」
レイの足が止まった。シンジは背後からレイの肩に手を置く。びくり、と震える彼女の肩……
「綾波、どうしてそんな態度を取るの?」
俯く彼女はきつく下唇を噛んで何も言わない。
「……寂しいんでしょ?」
微かに震えるレイ。
「僕は……」
シンジはレイの肩を掴む手に力を込める。
「綾波は綾波だと思うから……他の誰でもないと思ってるから!」
二人に降りてくる沈黙。レイの紅玉の瞳から大粒の涙が一粒落ちる。そして絞り出すように彼女は言った。
「……わからないの……」
「……えっ!?」
聞き返そうとするシンジをレイは振り払う。
「綾波!?」
ほんの一瞬だけシンジを振り替えると、そのままレイは制服の青緑色のスカートを翻して走り去る。
「綾波!!」
シンジはレイが廊下のつきあたりを曲がってその姿が見えなくなってしまうまで、その背中を呆然と見送ることしかできなかった。
(あの時……)
テストプラグの中でレイの横顔を見詰めるシンジの表情が苦悩に歪む。
(綾波……泣いてたな……)
(でも……)
シンジはわからないといった風情で首を傾げる。
(……違う……)
(始めて会った頃の状態に戻ってしまったわけじゃない……と、思う……)
(……だったら)
(……どうして……?)
同時刻 同所管制室
ミサトは目の前に配置した二つのウインドウを注視していた。
右側にはエントリープラグ"01"の内部映像。シンジが顔の高さすぐ左側に表示されているウインドウを気づかわしげに見詰めているのが表示されている。
左側にはエントリープラグ"00"の内部映像。レイが何も見ていない瞳をまっすぐ前に固定しているのが表示されている。
ややあって大きな溜め息をつくミサト。
彼女はこの時、いみじくもシンジと同じ事を考えていた。ただ、彼女の方はその解答をも得ていたのだが、それは年の功によるものだったのか、それとも彼女の過去の経験によるものであったのか……。
(……レイ……あなたまで逃げてしまうというの……?)
チルドレンに関する諜報課からの全報告を受け取っているミサトは、当然前日のレイの変貌を知っていた。彼女はレイの『自我』に関連するこの重要な情報を握り潰し、ゲンドウと冬月に対して報告しなかった。表向きは『レイ』が現れて一日も経っていないゲンドウの精神状況に慮ってというのが理由だが、実際の所はゲンドウのシナリオによる『補完計画』におけるレイの役割が重要であることを嗅ぎつけたミサトが自らに有利なカードとして伏せたというのが真相である。
と、同時にミサトはレイがこれ以後どうするであろうかということについても予想している。
彼女としては、心の欠けた部分……あるいは抜け落ちた部分と呼ぶべきか……を埋めるためにより一層シンジに近づくか、ないしは心を閉ざして全てから目を背けようとするかのいずれかを想定していた。ぜひとも前者になって欲しいと望んでいたミサトであったが、レイが選択したのは後者であった。
(レイ……今のあなたなら気づく事も出来るはずなのに……今、逃げ出したら辛いだけなのに……)
ここ数日のレイの行動を見ていて、かなりの希望を持っていたミサトであったが……
(シンちゃん、気付いてあげて……レイは苦しんでるのよ……)
レイの横顔を見詰めるウインドウの中のシンジに縋るような視線を向けるミサト。
(レイを救うことができるのはあなただけなのよ……)
「……葛城さん、どうかしましたか?」
ミサトの大きなため息を聞き咎めたマヤが探るような視線で問いかけてくる。
「ん……なんでもないわよ」
「そう……ですか」
コンソールに向き直るマヤ。どうやら、リツコの件に関して疑惑を持っている彼女はミサトの行動に、一挙手一投足に神経をとがらせている様だ。
その仕事ぶりにあまり身が入っているという感じは見受けられないマヤをしばらくの間横目で盗み見てミサトは苦笑する。マヤも、このテストが重要ではない事がわかっているらしい。
(……やれやれ、マヤには目の敵にされてるわねぇ……別にリツコの件に関しては私は何ら主体的だったわけじゃないんだけどねぇ……)
マヤから視線を外して室内を見回したミサトが、今度は寂寥を含んだ湿っぽいため息をもらす。
(……それにしても皮肉なものね。久しぶりに主要メンバーが揃ったと思ったら、その心はすでにばらばらになっていた、なんて……)
まずミサトの心の内に浮かんだのはこの場にいない二人の同僚。
リツコの所在はわかっている。またいずれ復帰してくる事もあるかもしれない。もっとも、碇司令がそれを望むかどうかは微妙な所だし、リツコ自身がそれを望むかどうかはさらに微妙であるが…… そして、ミサト自信がそれを喜んで迎えることができるかどうかも疑問であった……
かつての恋人に関しては、彼女は絶望視している。ネルフという組織の本当の姿が見えてきた今ならばわかる、加持の行動がいかに危険なものであったかが。仮に無事だとしても、現在の状況では戻ってくる事もありえまい。おそらく、もうあのにやけた笑顔を見る事もないのではないかと思うと、なんとも言いかねる気分になる。
三人のオペレーター達は以前と特に変わった様子は無いようにみえる。が、実際の所、その横の連携は完全に途切れてしまっている。日向はミサトに従い裏活動に奔走している。マヤの行動を監視するのもその一環である。マヤはリツコの一件に関しミサトを始めとするネルフ首脳部に対して不審を抱いている。潔癖症であったはずの彼女がシンジの抱き込みを画策するあたり、その根強さが現れている。そして、すべての情報から隔絶され、聾桟敷に追いやられている青葉。彼は気付いているのだろうか? 隣に座っている二人が水面下で非生産的な暗闘を交わしているのを……
司令と副司令の間の意見は必ずしも一致しているわけではないようだ。だが、その本当の目的のためであればネルフを切り捨てもするだろう。なにしろ自分の息子すら犠牲の羊として饗しようというのだから……
人類補完計画、そしてすべての事象の元となったセカンドインパクト……真実を求めることに執着するミサトにとって、すでにゲンドウは単純に上司と呼べるものではなくなっている。日向もマヤも単純に部下と呼べる間柄ではなくなりつつある。そして、それまで何事にも変えがたいものと思っていたチルドレン達との間に生まれた隙間も次第に大きくなりつつある……
アスカは自ら心を閉ざしてしまった。ミサトの呼びかけに答える事はない。
シンジの関心は彼が気にしていた父の上にも、家族と思っていたミサトの上にもなく、ただひたすらに彼に心を開きかけた少女のもとにある。
そしてシンジがその視線を向ける少女は、彼女の身を弄ぶ運命に戸惑って心を閉ざしつつある……
(いつの間にこうなってしまったのだろう……)
ミサトの溜め息は苦い。
シンジとアスカが見事なユニゾンで使途を倒して見せたあの頃、チルドレン達三人が成層圏から飛来した使途を受け止めてみせたあの頃は確かにゲマインシャフト(*1)が存在した。仕事だから、使命だから命をかけての使途殲滅。でも、それ以外の達成感が、高揚が確かに存在した。
だが、いつしかその使命も悪い意味での”ノーブレス・オブリージュ(*2)”へと堕し、司令の独断と幹部の反目から使途への対応も場当たり的、泥沼的なものへと傾斜しつつあった。やがて、この姿勢がネルフをより独善的にし、この使命とやらが”マニフェスト・ディスティニー(*3)”へとさらに堕した時、ネルフにかかわっていない人々はどう思うだろうか? なにより、チルドレン達の精神的自壊が致命的である。
かくて現時点において、ネルフ首脳部および作戦能力は空中分解状態を体するに至っている。
(……こんな状態で使徒が来て、本当に対処しうるの……?)
だが、すぐにミサトは自分の考えを打ち消す。
(……いや、むしろこの状況を好転させる要因があるとすれば、それは『外部の敵』ではないのか? 強力な敵の存在は組織の団結を促す……)
と、ここまで考えて彼女は苦笑する。
(……自らを滅ぼそうとする敵の存在を利用しなければ組織の維持も難しいか……まったくもって皮肉ね……)
不意にミサトの表情から笑顔が消える。
(『自らを滅ぼそうとする敵の存在を利用しなければ』……似てるわね、エヴァと私たちの関係に……)
ゲンドウの横顔をにらむ。
(……エヴァって一体何なの……?)
「……城さん?……葛城さん?」
探るようなマヤの声に振り返る。彼女は自らの思考の泉に沈んでいたミサトを不思議そうに見詰めている。ミサトは素早く精神のチャンネルを切り替えた。
「データの収集は終わったの?」
「えっ、は、はい。予定分は終わっています」
「そ。じゃあ今日はここまでにしましょ? ……シンジ君、レイ、上がっていいわよ」
司令と副司令の存在を無視してそれだけ指示するとさっさとミサトは管制室を出ていった。日向が慌ててついて出ていく。後にはテストプラグから目を離そうとしないゲンドウと渋面の冬月、そしてそんな上司達とミサトの後ろ姿とを気まずげに見比べるオペレーター達が残された。
11時15分 パイロット控え室のあるフロア、地上ゲートへ至るエレベーターの前
着替えおわってぼんやりとそのエレベーター入り口を見上げるシンジ。
彼はここ数日の習慣通り、レイを待っていた。が、レイはまるでシンジを避けるかのように素早く着替えを済ませて帰ってしまったという。
(……綾波、一体どうしたというの……?)
『……わからないの……』
俯いて悲しそうな表情でつぶやくレイの今朝の姿がよぎる。
(綾波は恐れてる……)
『……助けて……碇君……助けて……』
必死にシンジに縋るレイ。
(以前の記憶と、現在の綾波の存在のくい違いに……)
『私じゃない『ワタシ』が私の中にいるの! 私の想いが私のものではないって言うの!』
(今の……三人目の綾波は僕に好意を持ってくれてるみたいだ……)
一瞬だけ照れるような表情を見せてから、その表情を引き締める。
この時シンジの中で一本の糸がつながった。
(綾波……もしかして逃げてるの? 自分の記憶から……)
(僕の存在が綾波の記憶に干渉してるから、僕から逃げてるの……?)
レイの頼りなげな後ろ姿にシンジは自分自身の姿が重なるのを感じた。
父に捨てられた自分。それまでの孤独。第三新東京市に来てからの父との確執。そして、父の影を恐れてそれから逃げようとする自分の姿……
「……逃げちゃダメだ……」
ぽつりとつぶやく。別に意識して言葉にしたわけではない。ただ、その一言はシンジの深層をなすキーワード。現在の彼を支える糸であり、この先の自分を変えるための可能性、そして強迫観念でもある……
(逃げちゃダメだ……逃げちゃダメなんだ、綾波……逃げても辛いだけなんだ……逃げても逃げても決して解決しない……逃げ切る事なんか出来ないんだ……)
が、シンジの表情は暗転する。
(……でもダメだ……)
自己嫌悪というよりはむしろ諦観の表情でつぶやく。
(やっぱり、逃げてるんだ……僕も……)
(ごめん……綾波……)
握り締められた拳がだらりと力なく下がる。
(僕は……君に何もしてあげられない……)
しばらく黙って俯いていたシンジがぽつりとつぶやいた。
「アスカの見舞いに行こう……」
結局、逃げ出してしまうのである。
12時00分 ミサトの執務室
右手に食堂から取り寄せたサンドイッチを、左手にマヤから提出されたハーモニクステストのレポートをそれぞれ手にしたミサトが、机に足を投げ出してだらしなく座っている。
彼女の提案で実施されたテストであるにもかかわらずレポートの紙面上を行き来する彼女の視線に真剣味が欠けているのは、テスト内容それ自体に興味があったからではなく、レイに対するゲンドウの反応、彼女の興味がその一点につきたからであった。
(……で、結局のところ……)
左手のレポートを机の上に放り出し、サンドイッチを口へ運ぶ。
(碇司令のところにも『レイ』は来た……)
砕けて床に転がるサングラス
"00"の刻印のあるテストプラグを凝視するゲンドウの後ろ姿
(でも、そこで何があったのかを確かめるすべはない……)
サンドイッチを一口齧る。
(『レイ』は司令に何を示したのか……)
サンドイッチを一口齧る。
(『レイ』は司令に何を求めたのか……)
サンドイッチを一口齧る。
(いずれにしても……)
「……いふへひひへほ、ほへへ……」
隣で書類整理をしていた日向が、溜め息をついてコーヒーを差し出す。
「……葛城さん、口に物を頬張ったまましゃべるのはみっともないですよ……」
一気に飲み干すミサト。
「……あんがと。しかし、いずれにしてもこれで……」
カップを返しながら(暗におかわりを要求しつつ)ゆっくりとつぶやく。
「『レイ』は標的のほとんどを制覇したことになるわね……」
「残るはあと一人ですか……」
思案顔で新たに淹れたコーヒーを渡してつぶやいく日向にミサトは言った。
「二人よ……多分ね」
「二人……?」
日向の問いには答えないミサト。
「ま、あとは私達が干渉する必要はないわね……というか、できないか……」
「いいんでしょうか……『レイ』はシンジ君を……」
「心中なんかしないわよ。彼女はシンジ君を守るために自爆したのよ? いまさら連れに来るはずもないわ」
溜め息をつく日向。
「では、われわれにできることはもうない、というわけですね……」
「……フィフスチルドレンもすぐに来ることだし、あまり心配のないことに力を割くことはできないわ。でも……」
足をきちんと下ろして背筋を正す。
「……やれることはやっておかなきゃね」
「……『やれること』?」
ニヤリと笑ってみせるミサト。
「決まってるじゃない……『レイ』の正体をつきとめんのよ」
「つきとめる、とおっしゃいましても……」
困惑する日向をそのままにミサトは颯爽と立ち上がると扉へと歩いて行く。
「あの、どちらへ?」
「一人いるでしょ? いかにもヒントを持ってそうな奴が」
「ヒント……ですか?」
慌ててついてこようとする日向を仕草だけで押し止めて、彼女は一人で扉の外へ出ていった。
15時00分 NERV付属病院303号病室前
その扉の前に立つシンジは逡巡する。
自らの選択によってここに来たにもかかわらず、その扉を開ける事を逡巡する。
アスカは現在、面会謝絶の状態。見舞うことはできない。ゆえにシンジは意を用いた。彼に情報をリークしたマヤに裏工作を依頼したのである。マヤとしては従わざるをえない。シンジがそうするとは考えにくいものの、彼の気分しだいでマヤの立場は危険にさらされる。それに最初の投資を無駄にしないためには、追加投資が必要な事も事実であった。
かくて、シンジはここにいる。
現在、MAGIの全てを取り仕切っているマヤの工作である。発覚したり途中で邪魔が入るようなことはないであろう。が、無謬の人間など存在しない。そして、人が人を全面的に信じる事もまた非常に難しい。
ゆえにシンジは、その扉を開ける事を逡巡する。
『面会謝絶』……アスカは精神を病んでいるという。にもかかわらず、彼女を見舞ってもよいものだろうか? 『見舞う』……彼女に取りすがって会いたがっているのはシンジの方。見舞うというのは彼の独善に過ぎない。
ゆえにシンジは、その扉を開ける事を逡巡する。
弱々しい印象を受けるレイの後ろ姿。
彼女を追うべきだったのではないか? 自らを自嘲したあげくそれを止めたというのに気に病む事だけは止められない……
ゆえにシンジは、その扉を開ける事を逡巡する。
だが、彼が本当に気にしているのはアスカに拒絶される事。
縋ることはできても、縋られる事には堪えられなかったシンジ。レイから逃げ出した彼はアスカに救いを求めてここに来た。彼女に縋るために……
だが、その一方で理解もしている。
アスカは彼を拒絶したからこそここにいるのだ。彼のみならず全てを拒絶したからこそこの扉の向こうにいる。扉を開ければ確実に拒絶される。
にもかかわらず、シンジはここから動こうとしない。彼は現実と自らの行動と希望との折り合いをつけることができない。彼は扉の向こうに絶望に塗りつぶされた闇と微かな光明を見る。ごく薄い自動ドアが、限りなく重く見えた。
ゆえにシンジは、その扉を開ける事を逡巡する……
集光ビルから送られてくる柔らかい午後の光が背後の廊下側の窓から入り込み、目の前の扉にシンジの影をくっきりとかたち付けていた。
かなりの時間ためらっていたが、ゆっくりと手をあげて扉をノックしようとする。
と、その時、目の前の彼の影に別の人影が重なった。
「入るの?」
背後からの問いかけに慌てて振り返るシンジ。
「あっ、いや、その、ア、アスカのお見舞い……に……」
言い訳をしようする彼であったが、背後に立ったのが誰かわかった途端絶句する。
「入るの?」
逆光の中、シンジの驚愕の視線を浴びたまま重ねて問いかける『綾波レイ』。彼女の表情は貼り付けたような笑顔であったが、目だけは笑っていなかった……
第五日目後編に続く
注釈
*1 ゲマインシャフト(Gemeinschaft): ドイツ語 ドイツの社会学者テニエスが唱えた社会類型の一。血縁に基づく家族、地縁に基づく村落、友情に基づく都市など有機的に結合した統一体としての社会。転じて連帯感や共同意識としての意味でも使用される。
*2 ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige):フランス語 直訳すると『高貴なる使命』 高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。いわゆる貴族制度の根拠をなす理念。
*3 マニフェスト・ディスティニー(Manifest Destiny):英語 直訳すると『明白なる天命』 アメリカの西部開拓を神の意思による当然の運命という考え方で正当化した標語。19 世紀末以来の海外領土膨張政策の弁護にも利用された。力のあるものが弱者を利用する独善を正当化する思想。
Please Mail to 桔梗野聡視 <asj1117@mail.interq.or.jp>
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